賢治の元同級生が住んだ島

 昨夜は、広島にやってきて「みっちゃん総本店」というお店で広島風お好み焼きを食べて、駅裏のホテルに泊まりました。W杯のイングランド-パラグアイ戦をBSで見ていましたが、ベッカムのフリーキックからイングランドが1点を取ったあたりで、不覚にも寝てしまいました。
 そして今朝は、JR呉線8時07分広島駅発の普通列車に乗って、瀬戸内海沿岸の安浦という小さな港町を目ざします。

 ところで今日、私が広島県にやって来た事情は、次のようなものです。

福沢順二氏と「雨ニモマケズ」碑 私がいつも賢治の詩碑めぐりをするにあたって座右の書としている『宮沢賢治の碑・全国編』(吉田精美,2000)という本には、右のような写真が載っています。
 この写真の説明によれば、吉田精美氏はある時、賢治研究家の故小倉豊文氏の長女三浦和子氏から、「父の遺品を整理していたら、アルバムに初めて見る碑の写真があった」と連絡を受けたのだそうです。
 吉田氏が出向いてそのアルバムを見せてもらうと、右の写真の余白には、小倉豊文氏による次のような書き込みがあったということです。

福沢順二氏、賢治と高農同級の富山県人、数奇な運命の後、広島県豊田郡安浦町海上の柏島の神社の留守居をしている。宮沢賢治歌碑と名づくる面白い石碑を自分で(姪の出資の由)たて一人暮らし。一度漁船をやとってたづねたことがある。

 そこで、『新校本全集』十六巻下の「補遺・伝記資料篇」にある「大正四年四月盛岡高等農林学校入学者名簿」および「大正七年三月盛岡高等農林学校得業者名簿」を調べてみましたが、賢治の同級に「福沢順二」という名前はありません。しかしどちらの名簿にも、「中山 順二 (富山)」という学生が林学科の欄に掲載されており、上記の小倉氏の「富山県人」という記載と併せると、この中山順二氏が、後に改姓をされたのではないかと推測されます。

 ということで、賢治の元同級生が何かの事情でこんな小さな島で一人暮らしをしておられて、なおかつ賢治に関する碑を建立されたとなると、私としてはぜひ行ってみたいと思っていました。しかしいろいろ調べてみると、この「柏島」という島は瀬戸内海に浮かぶ無人島で、一般人が島に行くための船などは、ふだんは何も運航していないのです。
 上の小倉豊文氏の書き込みを見ると、「一度漁船をやとってたづねた」とのことですが、個人で船をチャーターするとなると・・・、ちょっと私としても尻込みをしていたのでした。

柏島神社大祭ポスター そんな折、ふとネットで調べものをしていた際に、この柏島にある神社の「大祭」(右写真)というのが年に一回行われていて、その祭日には漁船が本土と島の間を往復して、一般の観光客も柏島に渡れる、ということを目にしたのです。
 それから、本土側から船が出るという安浦町の商工会や漁業協同組合に電話をして問い合わせをした結果、その年一度の例大祭というのが、今年は6月10日(土)と11日(日)に行われることがわかり、船が出る場所や時間も詳しく教えていただいたのです。


 そんなわけで、今朝は広島から呉線に乗っておよそ1時間半、安浦という駅にやってきました。駅から20分ほど歩くと三津口漁港に着いて、「奉寄進」などと書いた幟が立てられているのも見え、また時折太鼓の音も聞こえてきます。
 桟橋に出ると、ふだんは漁船として使わ柏島れている船が、今日は屋根に幌をかけたりして、お祭りの参拝客を島に渡す船になっています。漁師の奥さんたちがテントを張って臨時の乗船券売り場を出していて、柏島までは往復600円でした。

 柏島というのは右の地図のような位置にあって、だいたい 600m×400m くらいの大きさです。
 三津口の港から湾内を見ると下の写真のような感じで、中央に見えるのが柏島です。

三津口湾と柏島

 一隻の漁船に、家族連れ柏島到着やお年寄りの夫婦など20人ほどの一般客が乗り合わせて、犬も何匹かいます。桟橋から出航してしまうと、ほんの10分ほどの船旅で、静かな瀬戸内海にはほとんど波もありませんでした。右の写真は、もう船が島に着く直前のところです。
 島の桟橋に降りると、すぐ前にまず「恵比寿神社」という小さな祠があり、そこから東の方へ海岸を周っていくと、「柏島神社」が見えてきます。

柏島神社 柏島神社(左写真)の社伝によれば、「高倉上皇が治承4年(1180年)に厳島神社に行幸した際、馬島に仮泊して禊ぎをし柏手を打つと、向かいの島から大きくこだまが返ってきたので、この島を柏手島と呼ぶようになり、後に柏島となった」とあります。柏島自体が、「第二宮島」と呼ばれることもあって、柏島神社と厳島神社の縁は深いようです。

 小さな島には「道」と言えるほどのものはありませんが、岸辺に沿って縁日のように屋台が並び、お祭りらしい雰囲気です。しかし私たちはその前を素通りして、賢治の碑がどこにあるのか、ずんずん見てまわりました。
 そして、神社の社務所の前の桜の木の横に、冒頭の写真と同じく「宮沢賢治歌碑」と題された石碑が見つかりました。下の写真で、左が表面、右が裏面です。

柏島「雨ニモマケズ」碑

 表側に刻まれているテキストは、

宮沢賢治歌碑
   雨ニモマケズ風ニモマケズ・・・・
   欲張ラズ腹ヲ立テズ・・・・
   イツモニコニコシテ
      人ノタメニナルコトヲスル・・・
 此の碑ご覧の因で賢治の思想に触れて下さ
 る方のあることを祈念します

そして、裏側に刻まれているテキストは、

宮沢賢治君とは大正四年四月から大正七年三月まで
三年間盛岡高等農林学校で同級生として親しく交友
しました 賢治君を慕う私がこの地に永住した記念
として此の碑を建立します
    昭和五十一年
         柏島神社祢宜
            八十四翁  福沢順二

というものでした。

 賢治による「雨ニモマケズ」の原文とはちょっと字句が違っていますが、福沢氏がこの島に住むようになってから、自分の昔の記憶の中にある「雨ニモマケズ」を、一人思い浮かべて碑にしたのでしょうか。
 裏面には「八十四翁」とありますが、昭和51年(1976年)は賢治が生きていたら満80歳になった年ですから、この時の「八十四」というのは数え年かもしれません。冒頭の写真は、さらにその後、小倉豊文氏が訪ねた時の記念写真のような雰囲気ですが、それにしてもかくしゃくとしたお姿ですね。
 碑には、「此の碑ご覧の因で賢治の思想に触れて下さる方のあることを・・・」と書いてありますが、ふだんは神社の「留守居」が一人でいるだけの孤島ですから、それ以外の人が「此の碑ご覧」になるのは、この年一回の神社のお祭りの時だけということになってしまいます。やって来た地元の人々は、どのような思いでこの一風変わった石碑を眺めていたのだろうと思います。

 「賢治君を慕う私がこの地に永住した記念として此の碑を建立します」という一節を読むと、富山県出身の福沢氏が、盛岡高等農林学校林学科を卒業して、その後いったいどのような経緯をたどって、瀬戸内海に浮かぶ無人島の「留守居」として一生を終えようとされたのか、ほんとうに不思議に思えてきます。
 柏島神社の社務所で、この福沢氏のことについて尋ねてみると、「ああ、あの昔いたおじいさんね・・・」と、その存在を憶えている方はおられたのですが、どういう縁でこの神社の留守居をするようになったのか、知る人はありませんでした。かなり昔に、この島で亡くなられたということですが、そのはっきりした時期も今となっては不明でした。

福沢順二氏(社務所写真) しかし、社務所の座敷の鴨居の上には、生前の福沢順二さんの写真が額に入れて飾ってありましたので、お願いして写させてもらいました(右写真)。
 上の写真は、神官の装束を着けた福沢氏です。福沢氏は神職ではありませんでしたが、年に一度のお祭りの時には人出も多く神社も忙しくなりますから、臨時にこのような装束を付けて手伝いをしておられたそうです。
 下の写真は、社務所の縁側でくつろぐ福沢氏。何を思って、空を仰いでおられるのでしょうか。

 社務所の横には、上の写真でも右奥に見えている小屋があって、これは現在は壊れかけて物置のようになっているのですが、昔はその小屋で福沢氏が暮らしておられたのだと、社務所の方が教えて下さいました。もちろん当時の島には水道も電気も通っておらず、福沢氏はランプで生活していたのだろう、とのことでした。

 結局、福沢氏が柏島に来られた経緯について具体的なことはわからず、社務所の方は私たちを気の毒に思われたのか、柏島の風景を写した貴重な戦前の絵葉書を最後に下さいました。たいへん恐縮しつつお礼を言って、社務所を辞しました。

 表に出ると、屋台のまわりの人々の数はさっきよりも増えているようです。しかし私たちは時間の関係で、残念ながら祭のクライマックスは見ずに帰ることにします。まあ、お祭りを見るのが目的だったわけではなくて、たまたま今日が年に一度だけ、一般人もこの島に渡って来られる日だったという事情ですから・・・。

 島の岸辺には、御輿のような屋根の付いた「御座船」や、たくさんの大漁旗を掲げた漁船が徐々に集まっています(下写真)。
 今日は午後3時から、これらたくさんの船が島のまわりを巡りつつ、「瀬戸内三大管絃祭」の一つと言われる音曲が繰り広げられるのだそうです。このようなところにも、宮島の厳島神社との近縁性が感じられます。

御座船

 それにしても、「永住した記念として」碑を建てておくというのは、よほどの思いを持って、ここを死に場所と定めて、この島にやって来られたのでしょう。年に一度のお祭りの時以外は、自分一人しか住んでいないこの孤独な島の上で、福沢順二さん、あるいは旧姓中山順二さんは、いったいどんな感慨を持って晩年の日々を送られたのでしょうか。そしてなぜこの地で、よりによって60年も昔の一人の同級生のことを思い出して、碑を建てようと思い立たれたのでしょうか。
 その「数奇な運命」について、少なくとも故小倉豊文さんは、直接に聞いておられたはずです。

 奇しくも、今年2006年は、碑が建てられた昭和51年から、30周年にあたっていました。