願教寺「島地大等」歌碑

 島地大等(1875-1927)は、明治末から大島地大等正時代に活躍した、浄土真宗本願寺派の僧・仏教学者でした。
 西本願寺大学林高等科(現・龍谷大学)を終えた後、インド・中国の仏教史蹟を調査、さらに比叡山や高野山にて天台・真言の古蔵資料の研究もしています。東京帝国大学、曹洞宗大学(現・駒澤大学)、日蓮宗大学(現・大正大学)、東洋大学などで教鞭を執っており、浄土真宗だけでなく、当時の日本の仏教界全体を代表する学僧だったと言えるでしょう。
 この島地大等は、義父の黙雷の後を継いで盛岡市北山の願教寺の住職に就いていましたから、岩手の人々にとっては身近な存在でした。

 賢治が、初めて島地大等の謦咳に接したのは、盛岡中学3年の1911年(明治44年)8月4日から10日、大沢温泉で開かれた「夏期仏教講習会」の時だったと思われます。「「文語詩篇」ノート」には、この年8月の項に、「島地大等 白百合ノ花 海軍少佐」とのメモがあります。
 その後も賢治は島地大等に惹かれるところがあったのか、1913年(大正2年)10月には願教寺で開かれた「報恩講」に出席して、やはり大等師の法話を聴いたようです(「「東京」ノート」の「五年二学キ」の項に、「報恩講 島地大等」の記載)。
 さらに、盛岡高等農林学校入学後も1915年(大正4年)、1年生の8月には願教寺で1週間にわたり早朝5時から7時まで行われた「夏期仏教講習会」に出席し、「歎異鈔法話」を聴いています(河上和吉「賢治君の学生時代」:川原編『周辺』)。

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 盛岡市北部の閑静な地区・北山にある願教寺は、下のような構えです。

願教寺

 このお寺の境内は、広大な庭園になっているのですが、その一角に下のような賢治の歌碑があります。

「島地大等」歌碑

本堂の
高座に島地大等の
ひとみに映る
黄なる薄明

 これは、「歌稿〔B〕」において「大正四年四月」と題された章に含まれ、次の章は「大正五年3月より」です。したがってこの間の賢治の行動から見ると、これは上記の1915年(大正4年)8月に朝5時から7時まで行われた「夏期仏教講習会」の折りに詠まれた歌だと思われます。
 冒頭の写真のように大きく澄んだ島地大等の瞳に、夏の早朝の薄明が反射して光る。これは、今まさに法話が始まろうとして、皆が固唾をのんでいる瞬間でしょうか。感情的な言葉を廃した、「写真的」な一首です。
 かっと目を見開いた島地大等にも、彼を見つめる賢治にも、緊張感がみなぎっています。

 下写真は、願教寺の「本堂」。島地大等の夏の法話の際には、ここに数百人もの盛岡市民が集まったと言います。

願教寺本堂

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 さて、宮澤賢治と島地大等というと、何よりも強く連想されるのが、下写真の『漢和対照 妙法蓮華経』(=いわゆる「赤い経巻」)です。
 賢治は、おそらく1914年(大正3年)の秋、島地大等が編纂し解説を付けたこの法華経全文を読み、「只驚喜し身顫い戦けり」と述べるほどの感動を受けたと言われています。

『漢和対照 妙法蓮華経』

 賢治のこの法華経との最初の出会いは、あまりにも劇的に語り伝えられているので、ここで彼が一気に法華経専修の信者になったかのような印象も受けてしまいますが、実際には賢治はこの後、浄土真宗、法華経、禅などの諸派をわたる宗教的彷徨を続けます。

 1914年(大正3年)の法華経との出会いの後にも、上述のように1915年(大正4年)夏には島地大等の「歎異鈔法話」を聴いていますし、翌1916年(大正5年)には教師と学生合同で願教寺を中心に結成した「仏教青年会」に出席しました。この年の12月には「仏教青年会」の仲間と願教寺に行ったものの、一人別れて隣の報恩寺(曹洞宗)に行き、住職の尾崎文英について参禅したということです。

 賢治が直に心の内を吐露した記録として、1916年親友高橋秀松あての書簡[15]には、次のような一節があります。

・・・聖道門の修行者には私は余り弱いのです。東京のそらも白く仙台のそらも白くなつかしいアンモン介や月長石やの中にあつたし胸は踊らず旅労れに鋭くなつた神経には何を見てもはたはたとゆらめいて涙ぐまれました。こんなとき丁度汽車があなたの増田町を通るとき島地大等先生がひよつとうしろの客車から歩いて来られました。仙台の停車場で私は三時間半分睡り又半分泣いてゐました。宅へ帰つてやうやく雪のひかりに平常になつたやうです。昨日大等さんのところへ行つて来ました

 この頃の賢治の弱気な心境が率直に書かれていて、「聖道門」(法華経や禅)に関心を持ちつつも、その修行者となるには自分は弱すぎる、と嘆じています。そして、自分がそれまで拠り所としてきた浄土真宗教学の最高権威であり、また一方では法華経の素晴らしさを伝えてくれた人でもある島地大等に、この頃に会いに行って話をしてきたようです。

 翌1917年(大正6年)には、親友の保阪嘉内に『真宗聖典』を贈っており、この時点の賢治の信仰の中心は、まだ浄土真宗にあったと考えざるをえません。すでに大切な親友となっていた嘉内に対して、自分が疑念を抱いている宗教を勧めるとは思えませんし、自らの「迷い」を相談するための資料として、いきなり大部な聖典を贈ったとも考えにくいからです。
 また、この年の10月には、親戚の関徳弥が人生に悩んでいると聞き、「それなら報恩寺(曹洞宗)にゆきましょう。あの和尚なら偽リは言いますまい。ぎりぎりのところを聞いてみましょう。」と言って関を尾崎文英のところに連れて行き、問答をしたということです(関登久也『賢治随聞』)。
 「歌稿〔B〕」の「大正五年三月より」の項には、

いまはいざ
僧堂に入らん
あかつきの、般若心経
夜の普門品          319

という歌もあり、当時の賢治が法華経(普門品)とともに、他の経(般若心経)も読誦していたことがわかります。

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 では、このような諸宗の混淆状態にあった賢治が、純粋な法華経専修主義になったのは、はたしていつからだったのでしょうか?
 少なくとも、1918年(大正7年)2月2日の父あて書簡[44]では、次のように「法華経」を奉じて進む決意を述べます。

願はくゞ誠に私の信ずる所正しきか否や皆々様にて御判断下され得る様致したく先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくのはしめ進みては人々にも教へ又給し若し財を得て支那印度にもこの経を広め奉るならば誠に誠に父上母上を初め天子様、皆々様の御恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことゝ存じ候

 さらに、2月23日の父あて書簡[46]では、「万事は十界百界の依て起る根源妙法蓮華経に御任せ下され度候」「何卒折角の御心配には候へども私一人は妙法蓮華経の前に御供養願上候」と書き、ますます態度をはっきりとさせます。
 退学処分となった保阪嘉内あてに書いた3月20日頃の書簡[50]に至っては、その法華経一元主義は一般人の理解困難な地点にまで近づいています。退学で失意の嘉内は、これを読んでどう感じたでしょうか。

保阪嘉内は退学になりました。けれども誰が退学になりましたか。又退学になりましたかなりませんか。あなたはそれを御自分の事と御思ひになりますか。誰がそれをあなたの事ときめましたか。又いつきまりましたか。私は斯う思ひます。誰も退学になりません。退学なんといふ事はどこにもありません。あなたなんて全体始めから無いものです。けれども又あるのでせう。退学になったり今この手紙を見たりして居ます。これは只妙法蓮華経です。妙法蓮華経が退校になりました。妙法蓮華経が手紙を読みます。下手な字でごつごつと書いてあるらしい手紙を読みます 手紙はもとより誰が手紙ときめた訳でもありません 元来妙法蓮華経が書いた妙法蓮華経です。あゝ生はこれ法性の生、死はこれ法性の死と云ひます。只南無妙法蓮華経 只南無妙法蓮華経
至心に帰命し奉る万物最大幸福の根原妙法蓮華経 至心に頂礼し奉る三世諸仏の眼目妙法蓮華経 不可思議の妙法蓮華経もて供養し奉る一切現象の当体妙法蓮華経

 ということで、1918年(大正7年)2月には、完全に法華経にはまり込んでいたことがわかるのですが、このような一元主義が賢治のうちで正確にいつから始まっていたのかというのは、難しい問題です。表に現れる前に、いつ頃から内的な変化があったのか・・・。

 ここで私が一つ注目したいのは、賢治が1917年(大正6年)7月25日-29日頃に「東海岸視察団」に加わって三陸地方を旅行した際に、宮古町の「浄土ヶ浜」で詠んだ次のような短歌です。

うるはしき
海のびらうど 褐昆布
寂光ヶ浜に 敷かれ光りぬ。     560

寂光のあしたの浜の
岩しろく
ころもをぬげばわが身も浄し。    561

寂光の
浜のましろき巌にして
ひとりひとでを見つめゐるひと。   563

 ここで賢治は、短歌560に典型的に見るように、「浄土ヶ浜」という実際の地名を、「寂光ヶ浜」と言い換えているのです。一般に賢治の短歌において、地名を架空化している例は他には見あたらず、これはきわめて異例のことです。ここには、何かの意味があるはずです。
 ここで連想されるのが、浄土真宗で言う「浄土」と、天台宗や日蓮宗で言う「寂光土」の違いです。
 浄土真宗では「浄土」とは、現実世界=「穢土」との対概念で、「この世」ではない「あの世」を意味します。これに対して、法華経の天台宗・日蓮宗的解釈によれば、真に永遠の浄土はこのような此彼相対の限定的な枠を超えた絶対界であり、積極的に言えば、只今この娑婆において感得される浄土である、とされるのです。すなわち「娑婆即浄土」であり、これを特に天台や日蓮では「常寂光土」(略して「寂光土」)と呼びます。
 「銀河鉄道の夜」の中でジョバンニが、サウザンクロスの停車場で下車しようとするクリスチャンたちに向かって、「天上なんかへ行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといいゝとこをこさへなけぁいけないって僕の先生が云ったよ」と言う場面がありますが、これこそまさに、「娑婆即浄土=寂光土」という日蓮的思想の表現と言えます。

 つまり、ここで賢治がわざわざ「浄土ヶ浜」という実在の地名を短歌に詠むにあたって「寂光ヶ浜」という名前に置き換えたのは、すでに彼のうちで浄土真宗を否定する気持ちが強まり、この世を寂光土とすることを目ざす天台・日蓮的な法華経解釈が、この時までに彼の思想の基盤となっていたことを示すのではないかと、私は思うのです。
 浄土真宗と日蓮主義の逆転は、ひょっとしたらこの1917年7月からまだもう少しさかのぼることができるのかもしれません。しかし前述のように、これからほんの4ヵ月前の同年3月に刊行された『真宗聖典』を、賢治は嘉内に贈っているのです。

 となると、その「逆転」は、この4ヶ月間のうちのどこかで起こったと考えるのが妥当なように、私には思われるのです。

「寂光ヶ浜」歌碑
宮古市浄土ヶ浜の賢治歌碑

【参考文献】
小倉豊文 「二つのブラックボックス―賢治とその父の宗教信仰」
小川達雄 『盛岡中学生 宮沢賢治』