昨年の6月に私は、瀬戸内海に浮かぶ小さな無人島・柏島を訪ねて、そこにひっそりと建っている「宮沢賢治歌碑」なる石碑について、ご報告をしました(「雨ニモマケズ」碑のページ参照)。
無人島に移り住み、この石碑を建てられたのは、宮澤賢治と盛岡高等農林学校で同期生であったという福沢順二さんという方だったのですが、その後つい先日のことですが、福沢順二さんの親戚にあたられる方が上記のページをご覧になって、私にメールとともに、福沢さんに関する若干の資料を送って下さったのです。
盛岡で賢治とともに学び、その後、吉田精美著『宮澤賢治の碑』によれば「数奇な運命」をたどり、最後にこの島に一人で暮らすことになった福沢順二さんという人の生涯について、私は強い関心を持ったまま、昨年柏島を後にしたのでしたが、今回、その一端を教えていただくことができました。
今日は、その資料をここにご紹介させていただきます。
まず一つは、昭和52年4月号『文藝春秋』のグラビアに掲載された、「無人島の神主」という記事です。
『文藝春秋』のこの号の、「田中角栄は有罪か無罪か」という特集記事は、当時のこのような流れを反映しているようです。 |
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説明文: 「福沢さんの生家は資産家だったが 経済恐慌と戦後の農地解放で没落 五十代で再婚した夫人がたまたま安浦町の神主の養女だったことから 島の神社を守ることになった その夫人も六年前に亡くなった 柏島神社の参拝客は 大祭のある六月以外は多くて月九人 とても生活費にはならず生活保護を受けている |
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説明文: 「昨年 盛岡高等農林学校時代の親友・宮沢賢治を偲んで庭先に記念碑を建てた 資金は姪が出してくれたが 彼女は碑の完成を見ないで他界してしまった 毎朝の掃除が日課に加わり 『生きがいがふえた』そうだ」 |
説明文: 「五時半から 床につく七時までは読書 灯油のランプの下で宮沢賢治詩集 哲学書 仏教書などを読みふける 『五~六年後には保養センターができるだろうが その頃にはもう生きていまい できれば島のにぎわいを見たい』 老人の島を愛する心は強い」 |
最後の説明に、「五~六年後には保養センターができる」と書かれているのは、柏島を見下ろす半島に1985年4月にオープンした、「グリーンピア安浦」(現在の「グリーンピアせとうち」)です。
今回の資料を下さった方の、今は亡きお父様は、この「グリーンピア安浦」が開業するにあたって次のような文章を書いておられました。
柏島の思い出
グリーンピア安浦がオープンすることになり、ホテルの大広間が「柏島」と命名されたことを知りました。実は私にとって柏島は、とてもゆかりのある島なのです。今から八年前、五十二年四月号の文芸春秋グラビアページに「無人島の神主」という題で、瀬戸内海の小島にたった一人で神社を守る老神主の生活が紹介されました。名前は福沢順二(当時八四歳)、中学生の頃会ったきりで、二〇数年音信の絶えていた叔父でした。
なつかしさですぐに手紙を出し、叔父からも兄(私の亡父)の思い出、若い頃富士製紙に勤務し北海道の原始林を巡ったことなどをつづった手紙が返信され、七月に私は柏島を訪れて感激の再会を果たせました。
柏島は雑誌に載っていたとおりの電気も電話もない小島で、叔父は日の出とともに起き、日が沈むと床につく晴耕雨読の生活で、八四歳とは思えぬ元気な日常を送っていました。そして私は、都会では経験できない数日間の島での滞在ののち、再会を約しつつ島を去りました。
それから数年後、病に倒れて亡くなりましたが、生前希望したとおり遺体は医学研究のためにと広島大学に贈られ、最後まで世の中に役立ちたいと願ってその一生を終えました。叔父との語らいの中でも「このあたりに保養センターの計画があり、今度くる時には素購らしい施設ができて、とっても便利になるだろう」と楽しみにしていたのが印象に残ります。島には叔父が建立した宮沢賢治(盛岡農林高校の同期)の「雨ニモマケズ…」の詩碑が今も健在だと思います。私はぜひ再訪したいと考えていますが、グリーンピアを訪れる皆様にも、柏島の賢治の碑をたずねていただいた際には、賢治の思想にふれると同時に、そこに一人の老人の孤独な生活があったことを思い出していただければ幸いです。
今回、私にこれらの資料を送って下さった方は、福沢順二さんの甥の娘=「又姪」にあたられるわけですが、上の文章の1977年7月にお父様の柏島行に同行され、福沢順二さんにお会いして、いろいろとお話を聴かれたのだそうです。
福沢順二さんは旧姓中山といい、実家は富山県黒部市のお寺でした。盛岡高等農林学校林学科を卒業された後は、製紙会社に就職し、大正から昭和初期には北海道北見市周辺で、材木を集める仕事をしておられました。雪深い山奥で馬橇に材木を積んで運んだことなどを、当時の写真を見せながら話してくれたそうです。
その後、福沢家に養子縁組し、銀行業などに携わったようですが、戦後事業から手を引き、『文藝春秋』の記事にもあったように、結婚した妻の実家の縁で柏島の神社を守ることになったそうです。
記事のインタビューで予言したとおり、福沢さんは「グリーンピア安浦」の完成を見ずに、1980年に亡くなられました。遺体は広島大学に献体された後、お骨は故郷の富山県に眠っているそうです。
さてこれで私は、賢治の不思議な元同期生・福沢順二氏の「数奇な運命」の一部を知ることができました。
一時は福沢さんが、北海道北見の製紙会社に勤めていたというのも意外でしたが、そういえば「オホーツク挽歌」行の本来の目的は、樺太の王子製紙に勤める盛岡高農の先輩に、農学校の教え子の就職を依頼するということでしたし、また2年後の修学旅行の際には、農学生とともに苫小牧で製紙工場を見学しています。
「農学」の兄弟分である「林学」は、当時発展しつつあった近代工業の前提として、とりわけ北方の地に、活躍の場を広げていたわけですね。
このたびの貴重な資料をお送りいただいた M.H.さんに、心から感謝を申し上げます。
nenemu
初めてお邪魔します。でもお気に入りに入れて時々拝見しておりました。
素晴らしいHP(ブログ?)ですね。
さて、今回の記事、たいへん興味ふかく拝読しました。賢治の文語詩未定稿に「宗谷(一)」という作品がありますが、その下書稿では、題が「北見」となっていました。宮沢賢治がサガレンへ旅行した折の帰路の日程や足取りはまだまだ解明されていないようですが、何か、関連が考えられるかも知れませんね。
hamagaki
nenemu 様、こんにちは。書き込みをありがとうございます。
そうでしたね。「北見」と言えば、「宗谷〔一〕」の下書稿(二)第一形態の題名が、この「北見」でした。
これも謎めいた作品ですが、私はこの作品名から考えて、ひょっとして賢治はサハリンからの帰路において、稚内からちょっと迂回して北見地方に立ち寄ったのだろうかなどと、勝手に想像してみたりもしていました。
しかし、北海道在住の つめくさ 様のご教示によると、まだ現在のような支庁制度ができる以前の北海道開拓使時代には、北海道が「11ヵ国制度」によって区分されていた時代があって、その区分によると、稚内も「北見国」に属していたのだそうです。(「北海道の歴史・地理」の「旧国名時代」の地図を参照)
私は、作品名の「北見」という言葉によって、何となく現在の北見市のあたりをイメージしていたのですが、この作品の舞台は、稚内で鉄道と船の連絡の待ち時間だった可能性も否定できないのだということを、知ったわけです。
ところで nenemu 様のブログも拝見いたしました。素晴らしい写真ですね。私も「お気に入り」に入れさせていただきます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
nenemu
nenemuです。そうでしたか。賢治風に言えば地理と歴史の本に書かれているようなこと、その時代にさかのぼって検証しないと、なかなか見えてこないものがありますね。
おかげでたいへん勉強になりました。
有難うございました。
mebaru
地元安浦町に住むmebaruです。写真を拝見してとても懐かしく思いました。高校時代、船で(漁師なもので船があります)柏島によく魚釣りに行っておりました。神主さん(福沢さん)はとてもやさしい方で物静かに話をされる方でした。
現在も住居の窓を開けたら柏島が見える所に住んでおります。
神主さんの写真を持っていなかったもので保存させていただきました。
どうもありがとうございました。
hamagaki
mebaru 様、コメントをありがとうございます。
私は、昨年のお祭りの日に、安浦町の漁港から漁船に乗せていただいて、柏島に渡りました。福沢順二さんのお写真が、在りし日の「神主さん」の追憶のお役に立てば幸いです。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
蛇足ながら、私の両親の実家が香川県なもので、瀬戸内海でとれたメバルの煮付けの美味しさを、ちょっと思い出してしまいました。
匿名
ふと思い出し検索してみたところ、こちらの記事にたどり着きました。
安浦町三津口出身の者です。
この碑の字は私の祖父が書いたものです。
柏島神社は、三津口の神山神社と縁があります。今もそちらの神主さんが行き来されていらっしゃいます。
私の実家は神山神社の近所で、祖父は神山神社の総代の一人でした。また、そちらの娘さんと私は幼馴染で、福沢さんのことも、確かに宮沢賢治の同級生として聞いていました。
子どもの頃は、年1回の大祭に行くのがとても楽しみでしたし、たくさんの出店も出てとても賑わっていました。
神山神社も今は、普段は誰もおられませんが、娘さん達は福沢さんのことも良く覚えていらっしゃると思いますよ。
柏のおじさんと言って、時々、三津口にも来られていらっしゃいました。
次は神山神社のお祭り(9月頃です)にいらしてみてはいかがでしょうか。
hamagaki
福沢順二さんと柏島神社に関する貴重なご教示をいただきまして、誠にありがとうございます。
柏島にある「雨ニモマケズ」碑の文字をお祖父様が揮毫されたとは、本当に素晴らしいご縁を感じます。
また、幼なじみの娘さんが、「福沢さん=柏のおじさん」と親しんでいらっしゃったというお話をうかがって、時代が何十年か一気にワープしたような感覚をおぼえました。
私が柏島を訪ねたのは、もう15年も前のことですが、御影石でできた「雨ニモマケズ」の碑の文字は、とても真摯な誠実な印象を受けました。
福沢順二さんが、終の棲家とした島に宮沢賢治の碑を建立したいと思い立たれた際には、まず柏島神社の親社である神山神社の神主さんに相談し、そこから氏子総代であるお祖父様に、揮毫の依頼があったのでしょうか。
9月に行われる、神山神社の大祭についてもご教示いただきまして、ありがとうございます。
15年前の6月に拝見した柏島のお祭でも、綺麗に飾った船団が見事でしたが、神山神社のお祭では、さらに勇壮な催しが見られることでしょうね。
ぜひまたいつか訪ねてみたいと思います。
このたびは、誠にありがとうございました。
【関連ページ】
・賢治の元同級生が住んだ島
・「雨ニモマケズ」碑