柏島・賢治碑消息

 昨年の6月に私は、瀬戸内海に浮かぶ小さな無人島・柏島を訪ねて、そこにひっそりと建っている「宮沢賢治歌碑」なる石碑について、ご報告をしました(「雨ニモマケズ」碑のページ参照)。
 無人島に移り住み、この石碑を建てられたのは、宮澤賢治と盛岡高等農林学校で同期生であったという福沢順二さんという方だったのですが、その後つい先日のことですが、福沢順二さんの親戚にあたられる方が上記のページをご覧になって、私にメールとともに、福沢さんに関する若干の資料を送って下さったのです。

 盛岡で賢治とともに学び、その後、吉田精美著『宮澤賢治の碑』によれば「数奇な運命」をたどり、最後にこの島に一人で暮らすことになった福沢順二さんという人の生涯について、私は強い関心を持ったまま、昨年柏島を後にしたのでしたが、今回、その一端を教えていただくことができました。
 今日は、その資料をここにご紹介させていただきます。

 まず一つは、昭和52年4月号『文藝春秋』のグラビアに掲載された、「無人島の神主」という記事です。

『文藝春秋』昭和52年4月号表紙


 立花隆が、『文藝春秋』に「田中角栄研究―その金脈と人脈」の連載を始めたのは昭和49年(1974年)11月のことでした。
 国会でも疑惑を追及された田中首相は同年12月に退陣し、さらに昭和51年(1976年)にはロッキード事件が明らかになって、同年7月、彼は首相経験者として初めて逮捕勾留されることとなり、日本中に衝撃が走りました。

 『文藝春秋』のこの号の、「田中角栄は有罪か無罪か」という特集記事は、当時のこのような流れを反映しているようです。


「無人島の神主」



 この頁が、グラビアページ「無人島の神主―広島県・柏島―」の表紙です。
 後ろ姿で、「やすうら丸」を見送っているのが、福沢順二さんですね。

 
「無人島の神主」2・3頁

 説明文: 「広島県安浦町の沖合に浮かぶ柏島は周囲約四キロの小島 この島には氏子のいない柏島神社があり 神主の福沢順二さん(84)がこの島唯一の住人だ 住み着いて三十年になるが 朝六時起床 夜七時就寝の規則正しい生活を送っている プロパンガス 石油やインスタント食品のおかげで生活は楽になったそうだが 水くみの重労働は昔と変わらない “外界”との接触は一日一回 町営の「やすうら丸」が新聞と郵便物を届けてくれるときだけだ いつもはのどかな瀬戸内海も台風シーズンには一変 高波のしぶきが軒をたたくが福沢さんは全く意に介さない 海をわが庭と心得ているからだろうか」

神主装束で
 

 説明文: 「福沢さんの生家は資産家だったが 経済恐慌と戦後の農地解放で没落 五十代で再婚した夫人がたまたま安浦町の神主の養女だったことから 島の神社を守ることになった その夫人も六年前に亡くなった 柏島神社の参拝客は 大祭のある六月以外は多くて月九人 とても生活費にはならず生活保護を受けている

賢治碑の掃除
 

 説明文: 「昨年 盛岡高等農林学校時代の親友・宮沢賢治を偲んで庭先に記念碑を建てた 資金は姪が出してくれたが 彼女は碑の完成を見ないで他界してしまった 毎朝の掃除が日課に加わり 『生きがいがふえた』そうだ」

夜の読書

 説明文: 「五時半から 床につく七時までは読書 灯油のランプの下で宮沢賢治詩集 哲学書 仏教書などを読みふける 『五~六年後には保養センターができるだろうが その頃にはもう生きていまい できれば島のにぎわいを見たい』 老人の島を愛する心は強い」


 最後の説明に、「五~六年後には保養センターができる」と書かれているのは、柏島を見下ろす半島に1985年4月にオープンした、「グリーンピア安浦」(現在の「グリーンピアせとうち」)です。
 今回の資料を下さった方の、今は亡きお父様は、この「グリーンピア安浦」が開業するにあたって次のような文章を書いておられました。


柏島の思い出

 グリーンピア安浦がオープンすることになり、ホテルの大広間が「柏島」と命名されたことを知りました。実は私にとって柏島は、とてもゆかりのある島なのです。

 今から八年前、五十二年四月号の文芸春秋グラビアページに「無人島の神主」という題で、瀬戸内海の小島にたった一人で神社を守る老神主の生活が紹介されました。名前は福沢順二(当時八四歳)、中学生の頃会ったきりで、二〇数年音信の絶えていた叔父でした。
 なつかしさですぐに手紙を出し、叔父からも兄(私の亡父)の思い出、若い頃富士製紙に勤務し北海道の原始林を巡ったことなどをつづった手紙が返信され、七月に私は柏島を訪れて感激の再会を果たせました。
 柏島は雑誌に載っていたとおりの電気も電話もない小島で、叔父は日の出とともに起き、日が沈むと床につく晴耕雨読の生活で、八四歳とは思えぬ元気な日常を送っていました。そして私は、都会では経験できない数日間の島での滞在ののち、再会を約しつつ島を去りました。
 それから数年後、病に倒れて亡くなりましたが、生前希望したとおり遺体は医学研究のためにと広島大学に贈られ、最後まで世の中に役立ちたいと願ってその一生を終えました。叔父との語らいの中でも「このあたりに保養センターの計画があり、今度くる時には素購らしい施設ができて、とっても便利になるだろう」と楽しみにしていたのが印象に残ります。

 島には叔父が建立した宮沢賢治(盛岡農林高校の同期)の「雨ニモマケズ…」の詩碑が今も健在だと思います。私はぜひ再訪したいと考えていますが、グリーンピアを訪れる皆様にも、柏島の賢治の碑をたずねていただいた際には、賢治の思想にふれると同時に、そこに一人の老人の孤独な生活があったことを思い出していただければ幸いです。

 今回、私にこれらの資料を送って下さった方は、福沢順二さんの甥の娘=「又姪」にあたられるわけですが、上の文章の1977年7月にお父様の柏島行に同行され、福沢順二さんにお会いして、いろいろとお話を聴かれたのだそうです。

 福沢順二さんは旧姓中山といい、実家は富山県黒部市のお寺でした。盛岡高等農林学校林学科を卒業された後は、製紙会社に就職し、大正から昭和初期には北海道北見市周辺で、材木を集める仕事をしておられました。雪深い山奥で馬橇に材木を積んで運んだことなどを、当時の写真を見せながら話してくれたそうです。
 その後、福沢家に養子縁組し、銀行業などに携わったようですが、戦後事業から手を引き、『文藝春秋』の記事にもあったように、結婚した妻の実家の縁で柏島の神社を守ることになったそうです。
 記事のインタビューで予言したとおり、福沢さんは「グリーンピア安浦」の完成を見ずに、1980年に亡くなられました。遺体は広島大学に献体された後、お骨は故郷の富山県に眠っているそうです。


 さてこれで私は、賢治の不思議な元同期生・福沢順二氏の「数奇な運命」の一部を知ることができました。
 一時は福沢さんが、北海道北見の製紙会社に勤めていたというのも意外でしたが、そういえば「オホーツク挽歌」行の本来の目的は、樺太の王子製紙に勤める盛岡高農の先輩に、農学校の教え子の就職を依頼するということでしたし、また2年後の修学旅行の際には、農学生とともに苫小牧で製紙工場を見学しています。
 「農学」の兄弟分である「林学」は、当時発展しつつあった近代工業の前提として、とりわけ北方の地に、活躍の場を広げていたわけですね。


 このたびの貴重な資料をお送りいただいた M.H.さんに、心から感謝を申し上げます。