「雨ニモマケズ」詩碑

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1.テキスト


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ
暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ
人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノバウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
         宮沢賢治
          手帳より

2.出典

〔雨ニモマケズ〕」(「補遺詩篇 II」)

3.建立/除幕日

1966年(昭和41年)1月 建立

4.所在地

静岡県富士市中丸98 田子浦小学校校庭

5.碑について

 駿河湾の奥、田子ノ浦の海岸にほど近いところにある小学校の校庭の片隅に、ブロンズのレリーフがはめこまれたこの小さな石碑が立っています。
ブロンズの表面には、版画のようなタッチで、「雨ニモマケズ」のテキストと、子供たちのイラストが浮き彫りにされています。
 碑のテキストは賢治の原文に基づいていますが、あの「デクノボー」が「デクノバウ」と正しい仮名遣いに校訂されているのが、ちょっと珍しい特徴です。

 碑の裏には、「ここに学ぶ子らにわが愛誦する賢治の詩をおくる/昭和四十一年一月/今村甲子夫」との銘文が刻まれていました。今村甲子夫という方は、この田子浦小学校の校長を昭和45年まで務められたということで、戦前には「綴り方」や「童詩」の活動を実践し、戦後も国語教育を熱心に推進されたようです。また、俳人でもいらっしゃったようです。
 ネットを検索すると、「今村甲子夫先生の思い出」を綴ったページが、今もいくつか存在しますし、何と私は2019年にも、この詩碑のページを見たという方から、「今村校長の薫陶を6年間受けたことは人生の宝です」というメールをいただきました。
 実に素晴らしい教育者であった方なのだろうと思います。

 ところで、昭和41年(1966年)建立というと、数ある賢治詩碑の中でもかなり古い方に属します。現在、賢治関連の石碑は全国で150あまりありますが、私の手もとでわかるかぎりでは、下根子桜の元祖賢治詩碑(1936年)、東山町の「農民芸術概論綱要」碑(1948年)、ぎんどろ公園の「早春」詩碑(1950年)、花巻市立図書館前の「高原」詩碑(1961年)、盛岡市の光原社にある「烏の北斗七星」碑(1965年)に続いて、これは全国で6番目にできた碑ということになります。岩手県外では、初めてのものですね。

 この碑の建立は、たまたま私が小学校に入学した頃と重なりますが、下写真のようにそれ以来この場所から、ずっと子供たちを見守ってきたのでしょう。


小学校の校庭の片隅にある詩碑