前回は、「春と修羅 第三集」および「詩ノート」における作品番号の「欠番」の数が、「口語詩稿」に属する「第三集」の時期の作品数よりもはるかに少ないことから、「口語詩稿」には当初から作品番号を持たずに生まれてきた作品が、相当数あったのではないか、と推測してみました。すなわち、賢治は下根子桜時代の途中から、徐々に口語詩に作品番号を付けなくなっていったのではないかと、考えられるわけです。
そこで今日は、「なぜ賢治はある時期から作品番号を付けなくなっていったのか?」ということについて、考えてみたいと思います。
しかしこの問題は、裏を返せば「なぜ賢治はある時期までは作品番号を付けていたのか?」ということでもあります。
これについては、天沢退二郎と榊昌子さんが、概ね共通した見解を述べておられます。
それでは、詩人は何のために『第一集』では付けなかった「番号」をここで付けはじめたのであろうか? そしてこの「番号」は何なのであろうか?
まず常識的に、これは整理番号である、と考えることができる。それも、生前発表時には番号を付さずに送稿しているということから、読者のためではなく、もっぱら作者側の必要によって付されることとなった整理番号である。
その必要とは──これはもう言うまでもなかろう。だいたい、「第二集」の草稿にもしこの番号が付されていなかったと仮定したら、どんな事態にたちいたったか? 各詩篇の一一の下書稿群は、たいてい猛烈な手入れが施され、ときに大幅な改変がなされ、題名もしばしば変り、無題のままであるものも少なくない。どれがどれの下書で、どれとどれとどれが同一詩篇の下書稿群に属するのか、作者自身だって混乱しかねなかったであろう。(天沢退二郎「『春と修羅』第一集から第二集へ─日付と作品番号をめぐって」:『国文学』第39巻5号)
すなわち作品番号とは、作者賢治が詩の推敲作業を行う上で必要とした、「整理番号」だったというのです。
榊昌子さんも、天沢さんの上記見解を踏まえ、さらに賢治が詩草稿に題名を付けない場合が多いことや、題名付与の困難さを指摘した上で、次のように述べます。
こうしたことから、改稿の過程でも簡単に作品を識別できる便宜上の符号があれば便利だと、賢治は考えたに違いない。その思いが、「第二集」になってから、作品番号という形に結実したと想像される。作品番号はつまり、題の代わりとなる心象スケッチの識別番号なのである。
(榊昌子「作品番号の謎」:『宮沢賢治「春と修羅 第二集」の風景』p.354)
天沢さんが「整理番号」と言い、榊さんが「識別番号」と言うところの趣旨はほぼ同じで、同一の日付を持つ作品が複数ありうる賢治の草稿の束の中では、日付以外の何らかの「目印」がないと、作者にとって混乱が生じるだろうというわけです。
賢治の詩の作品番号とは、個々の作品の識別同定のための、「ID番号」なのです。
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宮沢賢治「春と修羅 第二集」の風景 |
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そこであらためて冒頭の、「なぜ賢治はある時期から作品番号を付けなくなっていったのか?」という疑問に戻ります。
賢治にとって、作品番号には上記のような「必要性」があったはずなのですが、ある時期からは必要がなくなったというのでしょうか。
賢治の口語詩で、作品番号が明示的に失われていくのは1928年に入ってからですが、その1928年の(「疾中」以前の)口語詩を列挙すると、下表のようになります。これらはすべて、「作品番号」は付けられていない詩です。
| 題名 | 日付 | 分類 |
|---|---|---|
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一九二八、四、十二、 |
春と修羅 第三集 | |
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一九二八、七、二〇、 |
春と修羅 第三集 | |
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一九二八、七、二四、 |
春と修羅 第三集 | |
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一九二八、六、一三、 |
三原三部 | |
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一九二八、六、一四、 |
三原三部 | |
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一九二八、六、一五、 |
三原三部 | |
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一九二八、六、一五、 |
東京 | |
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一九二八、六、一〇、 |
東京 | |
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一九二八、六、一九、 |
東京 | |
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なし |
東京 | |
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なし |
東京 | |
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一九二八、六、一八、 |
東京 | |
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なし |
東京 | |
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なし |
装景手記 |
これを見ると、1928年にスケッチされた口語詩で、題名が付けられていないのは、「〔澱った光の澱の底〕」だけで、他の作品には全て題名が付けられています。
この題名保有率は、「春と修羅 第三集」の中で題名が付けられている作品が69篇中39篇であるのに比較すると、断然高いものです。また、「三原三部」や「東京」が記されているのは「ノート」段階の草稿という意味で、「詩ノート」と比較してみると、こちらは97篇中で題名が付けられているのは20篇しかありませんから、その差は一層大きくなっています。
すなわち、1928年の賢治は、「詩草稿には原則として題名を付ける」という態度で、創作していると思われるのです。
賢治がいったいなぜ、1928年になると律儀に詩に題名を付けるようになったのか、その理由はわかりません。しかしそもそも、作品番号とは「題の代わりとなる識別番号」だったわけですから、最初から題名が付いていれば、それが識別の目安になるので、わざわざ「作品番号」を付与する必要はなくなるのではないでしょうか。
言い換えれば、「1928年の賢治は、詩にきちんと題名を付けるようになったから、作品番号を付ける必要がなくなった」と言うことができるのかもしれません。
しかしこれでも、まだ何となく釈然としない感じは残ります。
賢治はさらに晩年には、文語詩を作るようになりますが、文語詩の草稿には、もはや作品番号どころか日付も記入されません。そして、文語詩で題名が付けられているのは、「文語詩稿 五十篇」のうちでは15篇、「文語詩稿 一百篇」の101篇のうちでは40篇と、題名保有率は「春と修羅 第三集」よりもさらに低くなっています。
天沢氏が指摘するとおり、題名が付けられていない大量の草稿に対して、何段階もの推敲を加えていくのは非常に煩雑な作業と思われ、そのためにこそ「第二集」「第三集」では作品番号という目安の符号が導入されたはずだったのに、文語詩を推敲する賢治は、作品番号も日付もなしに、どうやって混乱せずに作業を重ねていくことができたのでしょうか?
それもやはり謎のままです。

「三原三部」ノートと「東京」ノート(『新校本全集』第六巻口絵より)

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