軍馬補充部六原支部

 「口語詩稿」に、「軍馬補充部主事」という作品があります。

  軍馬補充部主事

うらうらと降ってくる陽だ
うこんざくらも大きくなって
まさに老幹とも云ひつべし
花がときどき眠ったりさめたりするやうなのは
自分の馬の風のためか
あるひはうすい雲かげや、
かげらうなぞのためだらう
よう調教に加はって
震天がもう走って居るな
膝がまだ癒り切るまい
列から出すといゝんだが
いやこゝまで来るとせいせいする
ひばりがないて
はたけが青くかすんで居る
その向ふには経塚岳だ
山かならずしも青岱ならず
残雪あながちに白からずだ
五番の圃地を目的に
青塗りの播種車が
から松をのろのろ縫って行くのは
まづ本部のタンクだな
いやあ、牧地となると
聯隊に居るときとはちがって
じつにかんかんたるものだ
しかしながら
このやうな浩然の大気によって
何人もだらけぬことが肝要だ
ところが何だ、あのさまは
みんなぴたっと座り居る
このまっぴるま
しかもはたけのまんなかで
さんさ踊りをやり居って
誰か命令したやうに
ぴたりとみんな座り居った
おれのかたちを見たんだな
雇ひ農婦どもの白い笠がきのこのやうだ
まだじっとしてかゞんでゐるのは
まるで野原の生蕃だ
いったい何といふ秩序だ
あすこは二十五番の圃地だ
けさ高日技手が玉蜀黍を播くとか云って
四班を率ひて行き居ったのに
このまっぴるま何ごとだ
しかもあの若ものは乗馬づぼんに
ソフトカラなどつけ居って
なかなかづ太いところがある
一番行ってどなるとするか、
大人気ないな
ははあ開所の祭りが近い
今年もやっぱり去年のやうに
各班みんな競争で
なにか踊りをやるんぢゃな
もちろん拙者の意も迎へ
衆もたのしむつもりぢゃらう
それならむろん文句はない
馬のかしらを立て直しぢゃ
粋な親分肌を見せるのは
かう云ふときにかぎるんぢゃ
さっきのうこんざくらをつんで
家内に手紙を書くとしやう

 作品の語り手は、作者賢治ではなくて、表題にもある「軍馬補充部主事」なる人物です。桜も咲くのどかな春の陽差しの下を、一人悠々と馬に乗って進んでいます。
 膝を怪我した馬を気づかい、遙かに経塚岳を望み、のろのろ進む播種車を戦車タンクに見立て、心はゆったりと寛いでいるようですが、「このやうな浩然の大気によって/何人もだらけぬことが肝要だ」と、軍人らしく気を引き締めています。

 ところがその時、畑の中で農婦たちが「さんさ踊り」をやっている様子が、目に入ります。乗馬ズボンにソフトカラーなどを着けた伊達男までいます。
 ここはひとつ、部下に根性を叩き込むために、行って怒鳴ってやろうかとも思いますが、それも大人気ないこと。思えば、皆は近く催される「開所祭」のために、何か演し物の稽古をしているのだろうから、こういう時こそ「粋な親分肌」を見せてやろうと、思い直します。
 そして最後は、「さっきのうこんざくらをつんで/家内に手紙を書くとしやう」と、微笑ましい愛妻家の側面も覗かせて、幕が下ります。

 老木に咲く桜と、馬たちのいる牧野、踊りの稽古をする農婦たちという、春らしい穏やかな風景に、ちょっと頑固そうだけれど優しさも漂わせる軍人という、取り合わせの妙が魅力的な作品です。「浮世絵」のような風合いも感じられます。

 さて、ここに出てくる「軍馬補充部」というのは、1898年から1925年まで、岩手県胆沢郡相去村大字六原(現在の金ケ崎町六原)に置かれていた、「軍馬補充部六原支部」のことです。下の写真は、当時のこの支部の官舎を保存し整備した、「軍馬の郷 六原資料館」です。ご覧のような瀟洒な建物で、佐官級の官舎だったということですから、上の「主事」なる人物も、ここで暮らしていた可能性があるのです。

軍馬の郷 六原資料館
軍馬の郷 六原資料館(Wikimedia Commonsより)

 日露戦争頃までは、陸軍において騎兵隊は非常に重要な戦力でしたから、優秀な軍馬を安定して育成し管理することは、国としても大切な事業でした。このため、陸軍の外局として東京に設置された「軍馬補充部」のもと、北海道や東北を中心とした地方各地に、馬の育成と供給を実地で担当する「支部」が置かれました。

 南部馬で有名な岩手県は、江戸時代から日本有数の馬産地でしたが、この「軍馬補充部支部」を岩手県に誘致する上で活躍したのが、獣医師で相去村長も務めた桑島重三郎でした。当時、国の施設である軍馬補充部が六原の地に設置されたことによって、金ケ崎町はもとより、胆沢、江刺、和賀地方の農家に、現金収入の道が開かれたということです。

 明治31年(1898)に設置された陸軍省軍馬補充部六原支部は岩手県南地方に様々な影響を及ぼしました。とりわけ六原、金ケ崎には地方版文明開ママといっても過言ではなく、それだけに地域の人々の施設に寄せる思いは余りあるものがあると思います。

(『旧陸軍省軍馬補充部六原支部官舎調査報告書』序文より)

 1924年4月29日、この軍馬補充部六原支部へ、賢治たち花巻農学校の職員生徒一同は、遠足でやってきました(『新校本全集』年譜篇p.270)。
 宮沢賢治が六原の軍馬補充部に行ったのは、この時1回だけとはかぎりませんが、「4月29日」という時期は、この地方でちょうど桜が開花する頃に当たります。
 さらに、島田隆輔氏の調査(「宮沢賢治と軍馬補充部」:『賢治研究』63, 1994)によれば、作品中の「ははあ開所の祭りが近い/今年もやっぱり去年のやうに/各班みんな競争で/なにか踊りをやるんぢゃな」という記述に沿うように、1922年5月1日には軍馬補充部六原支部の創立25年記念の催しが行われ、この際に「女性を多数含む踊り手グループによる「手踊」」が披露され、その写真は『大正十一年五月一日/軍馬補充部六原支部/創立二十五年祝典記念寫眞帖』に収録されているということです。

 農学校の遠足が行われた1924年は、この25年祝典の2年後であり、作品中の「今年もやっぱり去年のやうに……」の記述とは1年ずれてしまいます。しかし島田氏の調査では、『桑島重三郎記念誌』の中に、「毎年五月一日にはお花見を兼ねて運動会が行われたのであった。本厩、二ツ森、千貫石等各分厩全部の牧耕手及び常人夫百二、三〇人であったが……」との記載があるということで、催しが毎年行われたのであれば、信時哲郎氏が指摘しておられるように、この「運動会で発表するためにさんさ踊りを練習していた可能性は十分あり」(『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』p.414)、1924年4月29日にその踊りを賢治たちが目撃したと、考えることもできます。

 ということで、この作品が1924年4月29日の賢治の体験に基づくものだとすれば、ほとんどが「春と修羅 第三集」の時期の事柄を描いている「口語詩稿」の中では比較的珍しく、これは「春と修羅 第二集」の時期に着想を得た作品だということになります。
 とは言え、「春と修羅 第二集」所収の作品と大きく違うのは、こちらは軍馬補充部の主事の独白という体裁を取った、かなり「物語的」な仕立てになっているところです。「厳密に事実のとほり」を標榜する心象スケッチとはまた異なった、賢治の後半生の創作スタイルに連なります。

 ところで、作品前半の方に出てくる、「よう調教に加はって/震天がもう走って居るな/膝がまだ癒り切るまい/列から出すといゝんだが」という一節は、怪我した馬の心配をする「主事」の、優しさを表す部分でもありますが、これと関係があるかもしれない描写が、劇「種山ヶ原の夜」の中に出てきます。

草刈一「今年ぁぐ一疋も見なぐなたものなぃがったな。」

草刈二「うん、一昨年おとどしな、うなぁ、あの時、居ただが、あの夕日山の方さ出はて、怪我してらた馬こよ、サラアブレッドでな。いゝ馬だったば、一生不具だな。」

草刈一「あの馬ぁ、先どな、おら見だぢゃい。」

草刈二「どごで、どこでよ、どごに居だであ、あの馬こぁ。」

草刈一「六原でよ。」

草刈二「何してら、何してらだぃ、あの馬。」

草刈一「やっぱり少しびっこでな、農馬よ、肥料の車っぱてらけぁ。」

草刈二「むぞやなな、やっぱり仕方なぃんだもな。」

 ここで話題になっているのは、種山ヶ原で放牧されている馬のことですが、この種山ヶ原には、当時「軍馬補充部六原支部」の「種山出張所」が置かれていたのです。ですから、六原と種山ヶ原の間で、馬を移動させるということは普通にあったはずです。
 劇「種山ヶ原の夜」で語られているのは、種山ヶ原で怪我をした馬が、六原に移されて農馬をしていたという話ですが、「軍馬補充部主事」に出てくる「震天」という立派な名前の馬も、やはり膝を怪我しています。こちらは少なくとも作品の時点では、農馬になっているわけではなく調教を受けているようですが、賢治は軍馬補充部六原支部への遠足の際に、怪我をした馬のその後に関する話を、係員から聞いたのかもしれません。
 劇「種山ヶ原の夜」が農学校で上演されたのは、1924年8月10日~11日のことですから、遠足からまだ4か月も経っておらず、生徒たちにとっても印象に残っている話だったのではないかと思います。

 ちなみにこの馬の「震天」という名前は、軍馬としてはぴったりの勇壮な名ですが、面白いことにこの少し前の時代に、種山ヶ原の隣の下有住村に、「震天」という優れた名馬がいたようなのです。
 『巖手縣産馬誌』の1915年版を見ると、気仙産馬組合所属で下有住村の「震天」という馬が、明治40年の第一回岩手県馬匹共進会、明治41年の福島県主催第一回奥羽六県聯合馬匹共進会で、いずれも「一等賞」に輝き、産馬奨励規定によって優良馬匹として明治39年に奨励金を下付されています。同一の馬が、十数年後の六原にいたとは思えませんので、作中に出てくる「震天」はまた別の馬でしょうが、賢治が覚えていた「名馬」の名前として、ここに使用したのかもしれません。

 さて、賢治にとっても様々な印象を残したであろう軍馬補充部六原支部ですが、遠足の翌1925年10月に、廃止されることになってしまいます。第一次世界大戦後の世界的な「軍縮」の流れの一環ですが(宇垣軍縮)、戦場ではもはや「騎兵」は時代遅れになったという現実もあったでしょう。軍馬は全国で6000頭削減され、その予算は戦車など新たな兵器の整備へと、回されていきます。
 馬から戦車へ、という戦争の変化を象徴するように、この「軍馬補充部主事」の中でも、騎兵である「主事」が、播種車のことを「本部のタンク」(手入れ前には「拙者のタンク」)と見立てているのが、アイロニカルに響きます。

 六原支部が廃止されると、そこに所属する種山出張所も、当然廃止されます。これに伴って、種山ヶ原の牧野も民間に払い下げになるのではないかと地元の人々は期待しており、これが地質学者としての賢治に対する土性調査依頼となって、その調査行が、1925年7月の「種山ヶ原詩群」を生むことになります。
 下記はその中から、「〔朝日が青く〕」(下書稿(一)手入れ)の一節です。

軍馬補充部の六原支部が
来年度から廃止になれば
上閉伊産馬組合が
払ひ下げるか借りるかして
それを継承するのだけれども
組合長の高清は
きれいに分けた白髪を、
片手でそっとなでながら
ひとつ無償でねがひたい、
われわれ産馬家といふものは
政策上から奨励されて
とても間にあはない産馬事業を
三十年もやって来た
さうしてそれをやったものが
みんな貧乏してゐると
さういふことを陳情する

 しかし地元の産馬家の期待を集めたこの「払い下げ」は実現せず、もともと御料地だった土地は、宮内省に返還されたのでした。

 一方、六原の軍馬補充部支部の方は、岩手県に払い下げられ、その後県は、皇道精神を鼓吹する石黒英彦知事の肝煎りで、1932年に「六原青年道場」を設置します。
 戦後、その敷地内にあった官舎部分は、上記の「軍馬の郷 六原資料館」になった一方、広大な農地は、県立六原農場、県立六原営農大学校を経て、現在は県立農業大学校となっています。この学校には、現在も見事な桜並木があるのだそうで、同校の「学校案内」の表紙には、下のような写真が掲載されています。
 となるとこの桜は、六原の軍馬補充部主事が馬に乗って眺め、その花弁を妻への手紙に同封した木々の、後裔にあたるのかもしれません。一度見に行ってみたいものだと思います。