宮沢賢治は、長年にわたり詩の推敲を繰り返し重ねていたことで有名ですが、その過程では、描かれた内容を体験してから既に何年もの歳月が経っているにもかかわらず、まるで作者がもう一度その情景を見てきたかのように、細かく具体的な描写が新たに加えられていくということが、時にあります。
いったいどうすれば、こんなことが可能なのでしょうか。
新たに加えられた描写が、作者の想像やインスピレーションによる「創作」であるならば、これは何も不思議なことではありません。詩というのは普通そうやって書かれていくものでしょうし、賢治の詩でも、そういうのはいくつかあります。
しかし、賢治の口語詩に関しては、基本的にその表現内容を創作的虚構として片付けてしまうことは、できないと思います。それは賢治自身が、たとえば岩波茂雄あて書簡214aに「厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした」と書いているように、世間一般の詩とは異なって、自らの「心象スケッチ」は、「厳密に事実のとほり」だと言明していることにもよります。
それに何より、賢治の推敲過程を『新校本全集』の「校異篇」でたどっていると、いったん彼が推敲の渦中に入り込むや否や、まるで体験当時にタイムスリップしたかのように、ありありとした描写が後から後から湧いてくるような状況に、実際いくつも遭遇するのです。
だからこそ、「いったいどうすれば、こんなことが可能なのか?」ということが、とても不思議に感じるのです。
もちろん私たち一般人も、数年前の旅行中に撮った写真を見ると、「あの時のあの景色は素晴らしかったなあ」と、その当時の情景を実感をもって思い出すことはできます。あるいは、出来事を細かく記録した日記帳があれば、そしてその記録を読み返せば、やはり当時の行動を具体的に追体験できるでしょう。
しかし、私たちがこういう記録の助けを借りて思い出すことができるのは、基本的にはあくまで「記録されている範囲内」の事柄に限られます。写真に残していない風景について、あの広場に面して何軒の家が建っていてその窓の形がどうだったとか、その時の空の雲の様子はどうだったかなどということを、思い出すことはできません。あるいは、日記に書いていない出来事については、大まかな事柄は憶えていたとしても、その詳細を具体的に描写することまではできません。
ところが、賢治が推敲過程で行っているのは、写真もなく、言葉でも記録されていない範囲の出来事を、数年も経った後になって、詳しく「実況中継」しているようなことなのです。
※
これは、過去の出来事の詳細を、いったん心の中に保存しておいて、後から取り出しているわけですから、「記憶」の能力や特性に関わる事柄だと思われます。
これがいったいどういう記憶現象なのかがポイントですが、一部の人には、「映像記憶(eidetic memory)」という特殊な能力があって、これは目で見た視覚的映像の詳細を、相当な期間にわたってそのまま保持できるとともに、後からその細部について振り返り、細かく説明できるというものです。「直観像記憶」あるいは「写真記憶」とも呼ばれ、いわば眼前の情景を高解像度の写真に撮って心の中に保存しておき、後から必要に応じて取り出し精査できる、というような能力です。
たとえば作家では、谷崎潤一郎には映像記憶の能力があったと言われており、次のようなエピソードが伝えられています。
谷崎は、記憶力や思考力が抜群で、それも文科系のみならず理数系にも強かったと言われている。記憶力で言うと、玉上琢弥は、谷崎に初めて会った翌日、ある人から電話で、昨日は祇園のどこだったかと問われ、「ちよっとお待ち下さい」と考えて「玄関に入るとき一瞬仰ぎ見た軒灯に書かれた文字を思い出そうと努め、『吉初』の二字を得たのである。あの当時は、記憶しようとしないで見聞きしたものも、思い出そうとすれば思い出せたのであった」と書いている。
(小谷野敦『谷崎潤一郎伝』中公文庫p.365)
一般人でも、店の名前が「吉初」だったという言語的な記憶があれば、翌日にそれを想起することは簡単にできるでしょうが、言葉としては記憶していないのに、一瞬見た映像を思い浮かべて、その看板に書かれた文字を読みとるなどという芸当は、普通はとてもできません。それができるのが、視覚像がそのまま明晰に刻印されている「映像記憶」なのです。
また、放浪の画家と呼ばれた山下清は、旅先で見た景色を記憶して帰り、後から施設や自宅で精密なちぎり絵にする、という手法で制作を行っていました。
プロの将棋や囲碁の棋士も、駒や石が配置された「棋譜」の厖大な数を記憶しておき、必要に応じて脳内で再現できるということですが、これも「映像記憶」を操作していると言えるでしょう。
指揮者の故・岩城宏之氏は、暗譜で指揮をする際には、オーケストラの総譜の全てのページを、細部まで視覚的に記憶して棒を振っていたということで、自らのこの方法を「網膜へのフォトコピー」と呼んでいます(岩城宏之『楽譜の風景』pp.127-145)。大編成のオーケストラ曲の五線譜は縦に数十段あり、長い曲ならそれが何百ページも続くわけですから、まさに驚異的な「写真記憶」です。
以上のような「映像記憶」の特性から考えると、宮沢賢治という人も、このような能力を持っていたのではないか?と考えたくなります。作品に描かれた体験から数年後に行う推敲の際に、当時の映像を脳内で詳細かつ鮮明に再現することができれば、それをあらためて生き生きと「スケッチ」し直すことによって、彼独特のあの推敲作業が可能になるのではないでしょうか。
そして実は、著名な賢治研究者である境忠一氏も、1968年に刊行した著書『評伝 宮澤賢治』において、「賢治は直観像素質者である」という説を提唱しておられたのです。前述のように、直観像記憶=映像記憶ですから、これは上記のような想定に、まさに一致しています。
境忠一氏は、次のように述べています。
以上、長々と要約引用してきた直観像の特質と賢治の心象とを比較してみると、まず第一に、賢治の心象の視覚的幻覚的な特徴は、直観像が他の表象や残像から、はっきりと区別される大きな特徴である「幻覚的なほどの明瞭さを持って居り、また文字通り再び見える」ことを裏書きしているのではないかと思われる。これは特徴の第二にあげた諸例や、「そのとほりの心象」とか、「たゞとにかく記録されたそのとほりのけしきで」「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである」ということばに残されている。
(境忠一『評伝 宮澤賢治』pp.128-129)
境氏の著書では、賢治が直観像記憶(=映像記憶)の持ち主であるという具体的な根拠が挙げられているわけではないのですが、本日の記事では、賢治による詩の推敲の中で、そのように感じられる例を、いくつか見てみたいと思います。
※
まずは、推敲過程の途中から、新たに鮮明な描写が大挙して登場してくるという例です。
下記は、「〔北いっぱいの星ぞらに〕」の下書稿(一)の全文です。
一七九
谷の昧爽に関する童話風の構想
一九二四、八、一七
草の穂やおほばこの葉が
みんなくっきり影を落す
この清澄な月の昧爽近くを
楢の木立の白いゴシック廻廊や
降るやうな虫のジロフォンに送られて
みちはまもなく原始の暗い椈林
つめたい谿にはいらうとする
本文は7行だけの、賢治としては短い詩ですが、これが下書稿(二)第一形態になると、次のようになります。
一七九
一九二四、八、一七
いちいちの草穂の影さへ映る
この清澄な月の昧爽ちかく
楢の木立の白いゴシック廻廊や
降るやうな虫のジロフォン
みちはひとすじ しらしらとして
暗い原始の椈ばやし
つめたい霧にはいらうとする
……星にぎざぎざうかぶ嶺線
月光を吸ふその青黝いカステーラ……
中岳はけはしい峯の露岩から
ひとつの銀の挨拶を吐き
またあをあをと寂まれば
そのほのじろい果肉のへりで
黄水晶とエメラルドとの
二つの星が婚約する
……雲のはかない残像が
白く凍えて西にながれる……
じつにそらはひとつの宝石類の大集成で
ことに今夜は古いユダヤの宝石商が
獲れないふりしてかくして置いた金剛石を
みんないちどにあの水底にぶちまけたのだ
鶏頭山のごつごつ黒い冠に
巨きな一つのブリリアントが擦過して
そこから暗い雲影が
ななめに西へ亘ってゐる
〔十数字不明〕かうもり
〔十数字不明〕伐株と
まがりくねった二本のかつら……
〔五行不明〕
くっきりみちに影をおとす
上の二つの草稿を比較すると、「草穂の影」とか「虫のジロフォン」とか「暗い椈ばやし」など、いくつか共通するモチーフも見られますが、下書稿(二)の方には、黒い山影や星空の様子など、下書稿(一)にはなかった周囲の(主に視線の上方の)景色が、新たに詳細に描き込まれています。
もしも作者が、体験から相当の期間が経った後に、このように精密な視覚像を「新たに想起して」書き込んでいるのだとすれば、それは優れた映像記憶能力の持ち主と言わざるをえないと思います。
さて次は、「森林軌道」の下書稿(一)第一段階の全文です。
四〇七
フレスコ
一九二五、一、二五、
岩手火山がほとんど白いプデングででき
三つ森の半分には雑木が植り
残りのは銀の紐で飾られる
相もかはらず上は凍った乱雲と
まばゆくかすむ日輪盤
吹雪は移り
もうさっきから
鳥はピッピッピッピ
一生けん命そこらを縫ってつめたいガラスのなかで叫んでゐる
……鎔岩流刻鏤のなかで
風が苹果と結婚した……
雪景色の岩手山や三ツ森山が、薄い日輪と雲の下に鎮座し、静謐で宗教的な「フレスコ画」のような雰囲気が醸し出されていますが、これが下書稿(二)になると、トロッコ列車の動きが導入されます。
四〇七
フレスコ
一九二五、一、二五、
岩手火山がほとんど白いプデングででき 裾は岱赭のからまつばやし
それから白い負性の雪の展がりに 小松の黒い金米糖が
いちめんばらばら散点する
……奥の方からとろがごろごろ鳴ってゐる
わたしは軌道を避けてゐやう……
凍った雲とまばゆくかすむ日の下で
三つ森やまは雑木を泛べ 残りは変なブリキの紐で飾られる
(あすこのまっ黒な鎔岩流の刻みの中で
熱した風が黄いろの苹果と結婚した)
いきなり吹雪がひかってのぼり
鳥はもうさっきから
一生けん命そこらのつめたい潮水のなかで叫んでゐる
たうたうとろがやって来た
赤や黄いろの荒縞を着て
みんな鯡の漁場のやうだ
胴切りされた巨きな楢をつけてゐる
岩手山の裾野の様子や「小松の黒い金平糖」、それにトロッコに乗る作業員の服装やその色までもが、具体的に描写されています。これらは下書稿(一)第一段階では全く描かれていなかった事柄ですが、当時に見た情景を、作者が推敲過程でありありと思い出して描いているのだとすれば、やはりすごい記憶力です。
草稿は、その後「間伐見張り」と題された下書稿(三)を経て、定稿では次のようになっています。
四〇七
森林軌道
一九二五、一、二五、
岩手火山が巨きな氷霧の套をつけて
そのいたゞきを陰気な亜鉛の粉にうづめ
裾に岱赭の落葉松の方林を
林道白く連結すれば
そこから寒い負性の雪が
小松の黒い金米糖を
野原いちめん散点する
……川の音から風の音から
とろがかすかにひびいてくる……
南はうるむ雪ぐもを
盛岡の市は沈んで見えず
三つ森山の西半分に
雑木がぼうとくすぶって
のこりが鈍いぶりきいろ
……鎔岩流の刻みの上に
二つの鬼語が横行する……
いきなり一すじ
吹雪が螺旋に舞ひあがり
続いて一すじまた立てば
いまはもう野はら一ぱい
あっちもこっちも
空気に孔があいたやう
巌稜も一斉に噴く
……四番のとろは
ひどく難儀をしてゐるらしく
音も却って遠くへ行った……
一つの雲の欠け目から
白い光が斜めに射し
山は灰より巨きくて
林もはんぶんけむりに陥ちる
……鳥はさっきから一生けん命
吹雪の柱を縫ひながら
風の高みに叫んでゐた……
ここで作品は、最初の11行からすると3倍の33行という長さになり、南方に視線を移しても盛岡市は見えないということも、新たに書き込まれています。
賢治がこの体験をしたのは、1925年1月との日付が記されていますが、最後に定稿用紙に清書されたのは1933年のことで、この間に8年以上の歳月が経過しています。それでも彼は、相変わらず当時の記憶を参照して、そこからまた新たな情報を引き出して書き加えているように見えます。
ここに書かれている内容が、作者の言うように「厳密に事実のとほり」なのだとすると、やはり彼は驚くべき映像記憶能力の持ち主だと言えるでしょう。
ただしかし、ここに描写されている内容が、本当に「事実のとおり」だという確証は、残念ながらありません。
実際に、「春と修羅 第二集」の中にも、「〔北上川は熒気をながしィ〕」とか「春 変奏曲」のように、明らかにファンタジックな虚構内容の作品が、いくつか含まれています。ですから、上記の「〔北いっぱいの星ぞらに〕」や「森林軌道」においても、途中から書き加えられていった部分が、作者の空想である可能性も、否定することはできません。これらがもしも空想の産物であるならば、作者の映像記憶の証拠とはなりえないのです。
となると、推敲の途中から新たに書き加えられた描写が、作者の空想ではなく事実であると、何らかの方法によって確認できれば、それは作者の映像記憶能力を示唆する証拠になると思われるのですが、はたしてそのような確認方法がありうるものでしょうか……。
そこで考えてみたのが、草稿の推敲過程が次のようなパターンになっている例がないか?ということです。
➀ 初期段階の草稿に、特定の映像的描写(A)が現れる
➁ その後の推敲過程で、描写(A)はいったん削除される
③ さらに後の推敲過程で、➀から一定の隔たりの後、描写(A)が再び現れる
③において、その直前の草稿には存在しない映像的描写(A)が現れるところは、作者が前の草稿の記載に頼らず、つまり体験当時の記憶を思い出して書いていると思われるので、作者が映像記憶能力を持っている可能性を、それなりに示唆してくれます。そしてこの描写(A)の内容は、➀のように初期の草稿には既に現れていたものですから、③の段階で作者が空想によって恣意的に書いたわけではなく、実際に体験した事実なのだろうと、推測できるわけです。
「春と修羅 第二集」の推敲過程において、上記①➁③のようなパターンが現れている例がないかと注意しつつ、『新校本全集』の校異篇を眺めてみると、いくつか見つけることができました。
その中の二つの例を、下に示してみます。
まずは、「凾館港春夜光景」です。その下書稿(一)の全文は、下記です。
一一八
凾館港春夜光景
一九二四、五、一九、
海ぞこのマクロフィスティス群にもまがふ
桜の花の梢には
いちいちに氷質の電燈を盛りまた
黒曜玻璃の夜空に
奇怪な虹の汁をそゝげば
その淫蕩な赤い酒精にとかされながら
底びかりする霧雨や
冴え冴え鳴らす黄金の噴泉
うっこんかうの花杯の列は
また海百合の椀をもまじえ
瓦斯の灯に照るバナナの森は
巨きな紅の蟹も這はせる
この最後の2行には、「バナナの森」と「巨きな紅の蟹」が登場しています。
これが下書稿(二)になると、「釧路漁港の親方連」とか「船渠会社の職工団」などの花見客の様子が活写され、一気に4倍近くの長文になるのですが、上記の「バナナ」と「蟹」は、姿を消してしまうのです。
一一八
凾館港春夜真景
一九二四、五、一九、
〔二字不明〕岬の海坊主列
うら寒い雲をかぶれば
その雲もまたおぞましく呼吸する
そこに喜歌劇「オロフォイス」風の
奇怪な虹の汁がそそがれ
その淫蕩な赤い酒精にとかされながら
底びかりする霧雨やうかび立つ花樹の幾むら
……春と夏とのデュイエット 水と陸との四重婚……
海ぞこのマクロフィスティス群にもまがふ
桜の花の梢には
いちいちに氷質の電燈を盛り
蒼白のうっこんかうに
海百合の椀を示せば
釧路漁網の親方連は
まなじり遠く黄の酒を汲み
船渠会社の職工団は
おのおの黒の瓶をかざして
草の広場を獲得すれば
夜ぞらにふるふビオロンと銅鑼
サミセンにもつれる笛や
繰りかへす螺のスケルツォ
青いえりした水兵たちは
桜の枝をささげてわらひ
魚の歯したワッサーマンは
狂ほしく灯影を過ぎる
風はバビラン柳を払ひ
またときめかす花梅のかほり
火照りに赤く翔け行く雲は
さらに桜の氷燈を盛り
青い螺鈿を泛べるそらは
さやかに萌えるいたやを映す
オダル ブロンヅ ガスタルダイト
クシロ ハナサカ クリソベリール
ネムロ ムロラン インディコライト
マオカ ハイエン ニコライフスク
汽笛は遠く告別を吼え
火花は遠く雲まにあがる
さらば五月の妖園と影
水と陸との雑交市場
二たびさらに俯瞰すれば
さくらは水のやうに咲き
瓦斯燈はながれ
青い螺鈿はそらにうかんで
もう眺望のまなこもいたみ
はるかまっくろな海にのがれる
さらにこれが下書稿(三)になると、後半の方に「紅蟹、青のバナナにまじり……」として、蟹とバナナが再登場するのです。
一一八
凾館港春夜光景
一九二四、五、一九、
残りはくらい七日の月が
海峡の西にかかって
岬の黒い山山が
うら寒い雲をかぶれば
その雲もまたおぞましく呼吸する
そこに喜歌劇オルフィウス風の
奇怪な虹の汁がそそがれ
その淫蕩な赤い酒精にとかされながら
底びかりする霧雨や
うかび立つ花樹の幾むら
海ぞこのマクロフィスティス群にもまがふ
巨桜の花の梢には
いちいちに氷質の電燈を盛り
朱と蒼白のうっこんかうに
海百合の椀を示せば
釧路地網の親方連は
まなじり遠く葡萄酒を汲み
魚の歯したワッサーマンは
狂ほしく灯影を過ぎる
夜ぞらにふるふビオロンと銅鑼
サミセンにもつれる笛や
繰りかへす螺のスケルツォ
青いえりした水兵たちが
桜の枝をささげてわらひ
船渠会社の観桜団が
瓶をかざして広場を獲れば
ふたたび襲ふ海霧のおぼろ
白のテントもつめたくぬれて
紅蟹、青のバナナにまじり
魚が孤光の梢をよぎる
ネムロムロランインディコライト
風はバビロン柳をはらひ
またときめかす花梅のかほり
春と夏とのデュイエット
水と陸との四重婚
二たびさらに展望すれば
さくらは水と淡く咲き
瓦斯燈影とはるかにながれ
青い螺鈿はそらにうかんで
残りの黒い七日の月が
いま海峡の雲にかくれる
最終的に、下書稿(四)の手入れ形でも、「紅蟹まどふバナナの森を……」という形で、蟹とバナナは出つづけています。
上記の推敲過程において、作者が下書稿(三)を最初に詩稿用紙に記入する際に、脇には下書稿(二)置いていたと思われますが、その下書稿(二)には、蟹もバナナも現れないのです。
そのような状態で、下書稿(三)には蟹とバナナの描写が再登場しているということは、作者はそれを前の草稿をもとに書いたのではなく、当時の自分の記憶を想起することによって、書き加えたと思われるのです。そして、この蟹とバナナの様子は、下書稿(一)にも描かれていたのですから、作者の空想上の存在ではないと推測されるわけです。
さらに次の例は、口語詩「〔暮れちかい 吹雪の底の店さきに〕」から、文語詩「〔萌黄いろなるその頸を〕」に至る系列です。
「〔暮れちかい 吹雪の底の店さきに〕」の下書稿(一)は、次のようなものです。
四一五
魚舗
一九二五、二、一五、
まづは首尾よく家鴨を締めて
萌黄いろしたその頸を
きれいに撫でて軒に釣り
両手を組んでごちっと鳴らし
店を一ぺん目測し
台のはじから手かぎをとって
あかをと鱈を置き直し
わかめの束を重ねれば
つるした家鴨はぶらぶらゆすれ
土間では鮫の黒肉が凍る
もんぱ帽子に絣の合羽
……(帰命頂礼地蔵尊)
鈴を鳴らしたにせ巡礼に
五厘やらうと五厘をさがし
一銭やって追ひ払ひ
やっと火鉢に戻って来れば
吹雪が飛んで吹雪が飛んで
つるした家鴨ははげしくうごき
鮫の黒肉もあかをも凍る
この中ほどに、「あかをと鱈を置き直し/わかめの束を重ねれば」という二行があり、店では赤魚、鱈、わかめが売られていたことがわかります。また、巡礼の装束は「絣の合羽」と記されています。
ところがこれに続く下書稿(二)では、次のように、魚もわかめも姿を消してしまうとともに、巡礼の衣装の描写もなくなります。
四一五
四聖諦
一九二五、二、一五、
雪を穿った洞の奥
暮れちかい
吹雪の底の
半分暮れた店さきに
小さないちはの家鴨の子
萌黄いろしたきれいな頸を
すなほに伸ばして吊り下げられる
……屠者はおもむろに呪じ
鮫の黒肉 はわびしく凍る……
粉雪のいく度の擦過のなかから
巡礼に出た百姓たちの
鈴のひびきがきこえてくる
これは、口語詩としては最終形となる、次の下書稿(三)でも同様です。
四一五
〔暮れちかい 吹雪の底の店さきに〕
一九二五、二、一五、
暮れちかい
吹雪の底の店さきに
萌黄いろしたきれいな頸を
すなほに伸ばして吊り下げられる
小さないちはの家鴨の子
……屠者はおもむろに呪し
鮫の黒肉はわびしく凍る……
風の擦過の向ふでは
にせ巡礼の鈴の音
口語詩の流れとしては、当初下書稿(一)では魚屋の店先の様子や主人と巡礼のやり取りを、客観的に描写していたのが、徐々に殺生をする魚屋の「業」や偽巡礼の虚しさ等に焦点を当てていくとともに、店先の描写や巡礼の装束は削られていったということでしょうか。
ところがこれが、文語詩へと改作されていくと、店先の「わかめ」と「魚」、それに巡礼の「絣合羽」が復活してくるのです。
下記は、文語詩「〔萌黄いろなるその頸を〕」の下書稿第一形態です。
萌黄いろなるその頸を
直にのばして吊るされつ
吹雪きたればさながらに
子鴨は艦のごとくなり
絣合羽の巡礼に
五厘報謝の夕まぐれ
わかめ赤魚に雪つみて
鮫の黒身は凍りけり
そして最後に、下記がその定稿です。
〔萌黄いろなるその頸を〕
萌黄いろなるその頸を、 直くのばして吊るされつ、
吹雪きたればさながらに、 家鴨は船のごとくなり。
絣合羽の巡礼に、 五厘報謝の夕まぐれ、
わかめと鱈に雪つみて、 鮫の黒身も凍りけり。
こちらでは、「わかめ」とともに売られる魚が「赤魚」ではなく「鱈」になっていますが、どちらも口語詩の下書稿(一)に登場していたものです。巡礼の「絣合羽」も同様です。
以上のような、口語詩「〔暮れちかい 吹雪の底の店さきに〕」から、文語詩「〔萌黄いろなるその頸を〕」に至る推敲過程をまとめると、当初下書稿(一)では店先に並ぶ「赤魚」「鱈」「わかめ」と、巡礼が着る「絣の合羽」が描かれていましたが、下書稿(二)と下書稿(三)では姿を消して、口語詩としての推敲は終えられます。その後、口語詩下書稿(三)の裏面を使用する形で、文語詩の下書稿が書き起こされますが、ここで店頭の「赤魚」「わかめ」と、巡礼の「絣合羽」の描写が復活し、定稿でも「鱈」「わかめ」「絣合羽」として残されます。
賢治が、口語詩を文語詩に改作していくのは、早くとも1930年以降と推定されていますので、吹雪の店先に魚とわかめが再登場するのは、賢治がその情景を目にしてから5年以上後のことになります。この改作の際に賢治が参照したのは、詩稿用紙の裏側に書かれていた口語詩下書稿(三)と思われ、「あかを」「鱈」「わかめ」「絣の合羽」が描かれていた下書稿(一)までをも、わざわざその場に準備していたとは思えません。
となると、賢治が文語詩下書稿に「わかめ」「赤魚」「絣合羽」の描写を復活させたのは、先駆形のテクストに拠ったのではなくて、自らの体験記憶に基づいていたのだろうと思われます。あの時の店先には魚やわかめが並んでいた、そして巡礼は絣の合羽を身につけていたという、5年以上前の映像記憶をもとにして、賢治はこの下書稿を書いたのだろうと考えるのが自然だと思います。
※
以上、宮沢賢治が鮮明な「映像記憶(eidetic memory)」の能力を持っていたのではないかと思われる所見について、整理してみました。
本人による証言がない以上、この問題の確定的な答えを得ることは困難でしょうが、もしも賢治がこのような明晰な感覚像を心の中に保持できる人であったならば、彼の言う「心象スケッチ」の「心象」という言葉の意味にも、違った様相が現れてくるのではないかと思います。
映像記憶として心の中に刻まれている「映像=直観像」は、視覚像だけでなく聴覚や嗅覚や触覚も含んだ「心像」と想定することも可能ですが、これは一般人の「記憶」のように、曖昧模糊として不定形に心中に漂う塊ではなく、たとえば眼前のスクリーンに映し出された像に近いような形で、主体から多少の心的距離を置いて、「対象化」して眺めることもできるものです。そして、この映像はそのように対象化して、ある種の客観性をもって見ることができるからこそ、それを「厳密に事実のとほり」に「スケッチ」するという作業も、可能になるのではないかと思うのです。
言いかえれば、賢治は己の心の中にそのような意味で鮮明な「心象」を保持していたからこそ、それを意識の対象として、言葉で描写する営為のことを、「心象スケッチ」と名づけたのではないかという気がするのです。
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