もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる「心を持った生き物」、すなわち人間と動物に限るとされていました。それが中国の三論宗や華厳宗において、「草木成仏」という思想が生まれて、植物も成仏できると考えられるようになったのだそうです。
これがさらに日本に入ると、「草木国土悉皆成仏」という形で、無機物である「国土」までもが成仏できるのだと説かれるようになったということで、このあたりの事情は、岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文に記されています。「草木国土悉皆成仏」という言葉は、能の謡曲には経文の一節としてしばしば登場するそうですが、現実の経典中にはこの言葉は見当たらず、末木文美士著『草木成仏の思想』によれば、最初に登場するのは、平安時代の天台僧安然が著した『斟定草木成仏私記』においてだということです。
一方、現代において、この「草木国土悉皆成仏」よりもはるかに親しまれているのは、「山川草木悉皆成仏」という言葉です。しかし、上記の岡田氏の論文によれば、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、仏教関係の文献を歴史的にいくら調査しても見つからず、むしろごく最近になってから、主に仏教者以外の人々によって使用されているというのです。
「山川草木」という言葉も、仏典に限らず一般の漢文ではあまり用いられないもので、同じ意味の「山河草木」であれば、『大乗玄論巻第三』に登場するということです。すなわち、「古文、漢文の世界では、むしろ「山川草木」より「山河草木」ということばのほうが伝統的である」というのが、岡田氏の見立てです。
また、宮本正尊氏は1961年に「「草木國土悉皆成佛」の佛性論的意義とその作者」という論文において、「草木国土悉皆成仏」という言葉の由来について綿密な調査を行ない、この言葉も現存する大蔵経中のどの仏教文献にも見出せないことを明らかにしています。そして、驚くべきことにこの論文では、現代でははるかに普及している「山川草木悉皆成仏」という言葉は、一切触れられていないのです。
これらの所見から岡田氏は、「「山川草木悉皆成仏」は伝統的な仏教用語ではなく、少なくとも1961年以降、現代になってから人口に膾炙するようになった仏教用語らしい」という仮説を立てます。
これに関連して袴谷憲昭氏によると、この「山川草木悉皆成仏」という言葉は、哲学者の梅原猛氏がさかんに用いて有名になり、さらに1986年に中曽根康弘首相(当時)が施政方針演説中に用いたことがきっかけで、広く世間に知られるようになったのだということです。梅原氏が委員をしていた臨教審の答申が中曽根の演説の前に出されていることから、袴谷氏がその答申内容を調べてみると、予想通りこの思想が盛り込まれていたことを確かめた上で、中曽根は梅原委員から「山川草木悉皆成仏」ということばを教えられたのであろうと推測しています。
このような流れから岡田真美子氏は、「山川草木悉皆成仏」という言葉は梅原猛氏による造語ではないかと考え、梅原氏に質問の手紙を出したということですが、返事が得られずにいました。そんな時、岡田氏の夫君の岡田行弘氏が、たまたま新幹線で梅原氏に遭遇し、「山川草木悉皆成仏」は氏の造語ですかと尋ねたところ、氏はそれを肯定し、「山川草木悉皆成仏 梅原猛」と紙に書いてくれたのだということです。
以上、ちょっとしたミステリーのようなお話で、一見すると歴史的由緒のありそうな有り難い言葉が、実はごく最近になって作られたものだったという結論は驚きですし、とりわけ「たまたま新幹線で遭遇して……」という展開は、いかにも現代的で面白いです。この謎解きをコンパクトにまとめ、現代の環境問題にもつながる岡田氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」は、知的刺激にもあふれた魅力的な論文です。
※
ということで、この論文を読んだ時には「一件落着」と思って頭の片隅にしまい込んでいたのですが、ふと賢治の書簡を見ると、「山川草木悉皆成仏」に非常に似た言葉が、二度も登場するではありませんか。
ねがはくはこの功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仝じく仏道成就せん。 一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ。(保阪嘉内あて書簡63、1918年5月19日)
わが成仏の日は山川草木みな成仏する。山川草木すでに絶対の姿ならば我が対なく不可思儀ならばそれでよささうなものですがそうではありません。(保阪嘉内あて書簡76、1918年6月27日)
前者には「虫魚禽獣」という語句が余分に入っていますが、それでも意味としては同じですし、後者の「山川草木みな成仏」に至っては、「山川草木悉皆成仏」と、実質的にほぼ同じとも言えるでしょう。岡田真美子氏が指摘するところの「山河草木」ではなく「山川草木」になっている語法も、これが伝統的ではなく新しいものである可能性を示唆しています。
一方で、これが当時の賢治によるオリジナルな造語であるとも思えず、また「山川草木・・・成仏」という型は二つの書簡に共通していることから、やはり賢治の使用の元となる何らかの出典が、当時存在したのではないかと考えるのが、自然な感じがします。
賢治が上記の書簡を書いた1918年(大正7年)は、彼が田中智学の思想に入れ込み始めた時期ですから、ひょっとして智学の著書に由来しているのではないかとも思い、『本化摂折論』や『日蓮聖人の教義』や『妙宗式目講義録』の一部をざっと見てみたのですが、見つけることはできませんでした。
ということで、岡田真美子氏による調査をさらに推し進めるために、賢治の「山川草木みな成仏」の元となる出典があるのならば、それをぜひ知りたいと思っている次第です。
また、もしも「出典」なるものは存在せず、これが賢治によって初めて使用された言いまわしだったとすると、宮澤賢治にも造詣が深かった梅原猛氏のことですから、当然ながらこれらの賢治の書簡を読んでいて、その潜在的な記憶を意識しないまま、1970年代になって「山川草木悉皆成仏」という言葉を作り出したということになるのでしょう。
大垣国久
よく調べられていますね。
とても勉強になりました。
私はFBで仏教コミュ「釈尊の教えを知る為の仏教講座」を管理しています。
この文をコピペさせて頂いても宜しいでしょうか?
hamagaki
大垣国久さま、コメントをありがとうございます。
中途半端な文章でお恥ずかしいですが、よろしければ上の文章をコピペして、使用していただいて結構です。
私自身は、大して「調べている」というわけでもなく、上の記事中に記しましたように、たまたま岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文を読む機会があり、その一方で宮沢賢治も、学生時代に「山川草木みな成仏」という言葉を書簡中に書いていたということを、思い出したにすぎません。
このことから、梅原氏が「山川草木悉皆成仏」という言葉を着想した源を遡ると、ひょっとしたら賢治のこの書簡に行き着くのかもしれないと、推測してみたわけです。
ところでこの記事の後、実際に梅原猛氏が著書において、「宮沢賢治も、しばしば「山川草木悉皆成仏」という言葉に言及している」と述べている箇所を見つけましたので、やはり上の推測が当たっていたのかもしれないと思い、「「山川草木悉皆成仏」の由来(2)」という記事に書きました。
ところがその後、「山川草木国土」という言葉は、明治21年(1888年)刊行の『仏教諺話:一読頓解』という本のp.17にも出てくることをたまたま知り、「山川草木みな成仏」という言葉の由来は、宮沢賢治よりももっと以前にあったのかもしれない、という気もしているところです。
まだまだ真相はわかりません。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
大久保邦彦
昭和45年ごろ、参禅した博多にある「東林寺」で当時 住職をされていた、梅田信隆老師(後の 総持寺 管主禅師)は参禅者たちに「山川草木悉皆成仏」と教えられていました。曹洞宗の最高責任者となられた禅師様の教えと有難くいただいておりました。
hamagaki
大久保利彦様、コメントをありがとうございます。
昭和45年にも、「山川草木悉皆成仏」という言葉が使用されていたわけですね。
上の記事にも書いていますように、宮沢賢治は1918年に「山川草木みな成仏」という言葉を用いていますので、梅原猛氏以前に「山川草木悉皆成仏」の用例があった可能性もあるとは思っていましたが、実際にそうだったという貴重な情報に、感謝申し上げます。
ただ、書籍などで文字になった形では、まだ梅原猛氏以前の使用例は明らかではないようですので、梅田信隆老師がこの言葉を引かれていた出典は、いったい何だったのだろうかと気になるところです。
少し調べましたところ、梅田信隆老師は2000年に94歳で遷化されているのですね。
今となっては、梅原猛氏にも梅田信隆老師にも直接うかがえず、残念です。
それにしてもこのたびは、わざわざご教示をいただきまして、ありがとうございました。
Satoshi Saito
『悉有仏性』これは曹洞宗の始祖道元さんの書いた『正法眼蔵』にも載って居ります。参考までに
hamagaki
Satoshi Saito 様、コメントをありがとうございます。
調べさせていただいたところ、『正法眼蔵』の「仏性の巻」の、「釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」という箇所ですね。
そして、「一切衆生、悉有仏性」を、一般的には「一切の衆生は、悉く仏性を有する」と読むのに対して、道元師は「一切が衆生なり、悉有が仏性なり」と読んだのだということも知りました。
確かにこの解釈に立てば、草木も、さらには山川などの無機物も、一切が仏性を有するということになるわけですね。
このたびは、貴重なご教示をありがとうございました。
ひこばえ
こんにちは
未熟ではありますが日蓮宗僧侶になるべく勉強している者です。
法華経への信仰を基盤に形作られた天台教学に一念三千という教えがあります。これは衆生の一念(=一瞬の心と解釈して差し支えないと思います)に三千の法界(=全宇宙)が具わっているという教えです。法華経を信奉する宗派はこの一念三千を仏のさとりの本質であると解釈しています。
この一念三千の前提に国土世間にも心(=情)があるという話が出て来ます(詳しくはかなり専門的な内容になりますが、日蓮の『観心本尊抄』を参照してください)。つまり天台は草木国土にも心があり、成仏できるということを考えたのではないかと思います。
色々な解釈があり、簡単には言えませんが、私はこの一念三千(法華経)への信仰に賢治の自然観・宇宙観を理解する鍵があるのではないかと思っています。「山川草木悉皆成仏」の言葉そのものの初出については全く分かりません。すみません。
あくまでも私が現状持っている考えですのであまり大きな声では言えないのですが、何かの参考になれば幸いです。
ひこばえからひこばえへの返信
ひゃーすみません!!!
前半の内容から察するに上記のようなことはおそらく既にご存知でしたよね、、、
あまりしっかり読まずに勢いで色々書いてしまいました!お恥ずかしい限りです。どうぞ忘れてください(できればコメント削除していただきたいです、、、)
すみませんでした!
hamagaki
ひこばえ様、コメントをありがとうございます。
削除など滅相もありません。貴重なご教示に感謝申し上げます。
宮沢賢治の自然観・宇宙観の根本に、「一念三千」の信仰があり、それが作品にも反映されているとのご指摘は、私も確かにそのとおりと思います。
賢治は、自分の口語詩を「心象スケッチ」と呼んで、世間一般の従来の詩とは区別しようとしていましたが、自分の一念の中に映ずるさまざまな心象を、虚心に記録しようとする方法論は、「摩訶止観」にも通ずるところがあるのかもしれません。
このたびは、書き込みをいただきましてありがとうございました。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。