「口語詩稿」に、「〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕」という仮題の作品があります。
そもそも拙者ほんものの清教徒ならば
或ひは一〇〇%のさむらひならば
これこそ天の恵みと考へ
町あたりから借金なんぞ一文もせず
八月までは
だまってこれだけ食べる筈
けだし八月の末までは
何の収入もないときめた
この荒れ畑の切り返しから
今日突然に湧き出した
三十キロでも利かないやうな
うすい黄いろのこの菊芋
あしたもきっとこれだけとれ、
更に三四の日を保する
このエルサレムアーティチョーク
イヌリンを含み果糖を含み
小亜細亜では生でたべ
ラテン種族は煮てたべる
古風な果蔬トピナムボー
さはさりながらこゝらでは
一人も交易の相手がなく
結局やっぱりはじめのやうに
拙者ひとりでたべるわけ
但しこれだけひといろでは
八月までに必らず病む
参って死んでしまっても
動機説では成功といふ
ところが拙者のこのごろは
精神主義ではないのであって
動機や何かの清純よりは
行程をこそ重しとする
つまりは米もほしいとあって
売れる限りは本も売り
ぽろぽろ借金などもして
曖昧な暮しやうをするといふのは
いくら理屈をくっつけても
すでにはなはだ邪道である
とにかく汗でがたがた寒い
ごみを集めて
火を焚かう
槻の向ふに日が落ちて
乾いた風が西から吹く
賢治が下根子桜で独居生活をしていた頃の、農作業中の一コマかと思われます。ある日、彼が「下ノ畑」を耕していたら、30kg以上もの菊芋が掘り出されるという予期せぬ収穫がありました。賢治は驚いてこの作物に関する知識を総覧しつつ、これからの暮らし方を案じています。
作品の出だしは、「そもそも拙者ほんものの清教徒ならば/或ひは一〇〇%のさむらひならば……」と始まり、11行目までは菊芋のことなど全く出てきません。読者は、いったい何の話なんだろうと戸惑いつつも、読み進めていくことになります。「拙者」とか、「一〇〇%のさむらひ」とか、言葉づかいもちょっと大仰で、ユーモラスな雰囲気を醸し出します。
そもそも、賢治が自分の一人称に「拙者」などという言葉を使うのは珍しい感じがしますが、『新校本全集』別巻の「索引篇」で調べてみると、下記の作品において、賢治は自分のことを「拙者」と呼んでいます。
- 「〔めづらしがって集ってくる〕」(口語詩稿)
- 「〔そもそも拙者ほんものの清教徒ならば〕」(口語詩稿)
- 「〔四信五行に身をまもり〕」の下書稿(口語詩稿)
- 「軍馬補充部主事」(口語詩稿)
- 「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」の下書稿(一)(口語詩稿)
- 「稲熱病」(補遺詩篇 I)
ご覧のように、6つのうち5つまでが「口語詩稿」に属する作品で、最後の「稲熱病」も含めて、いずれも羅須地人協会時代に書いたと推測されるところが、特徴的と思います。厳しい独居生活をしていたこの頃の賢治の自意識が、「拙者」という自称に反映しているのでしょうか。『新校本全集』で見るならば、くしくも全てが「第五巻」に収録されています。
この作品においては、2行目の「さむらひ」という言葉に影響されつつ、「武士は食わねど高楊枝」というイメージも漂わせている、「拙者」です。
さて、本文11行目に至って、この作品の主役の「菊芋」がやっと登場しますが、ここで賢治がこの作物に関して披露する博識が、また盛大なものです。
海外の名称として、英語では「エルサレムアーティチョーク」と呼ばれ、フランス語では「トピナムボー」と呼ばれるという語学知識とともに、その化学的成分としては、イヌリンと果糖が多く含まれることが述べられます(果糖が重合した多糖類がイヌリンです)。さらに海外での調理法として、小アジア(トルコ)では生で食べ、ラテン系諸国では煮て食べることも紹介しています。
作物に関するこのような知識の多くは、盛岡農林学校時代に学んだものと考えておくのが、自然でしょう。たとえば、『盛岡高等農林学校図書館和漢書目録』(1937)を見ると、『食用作物各論』という書籍は、初版(明治41年)、訂正4版(明治45年)、7版(大正6年)、8版(大正7年)、9版(大正8年)、改著版(大正14年)という、実に6種もの版が図書館に所蔵されていて、おそらく盛岡高等農林学校の学生がよく参照したものと思われますが、この本では「菊芋」の英国名は「ゼルサレム、アーティチョーク(Jerusalem artichoke)」、仏国名は「トピナムブル(Topinambour)」と記されています。
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『食用作物各論』pp.336-337(国会図書館デジタルコレクションより)
また、賢治の時代に盛岡高等農林学校教授だった柘植六郎が1910年に刊行した著書『実験蔬菜園芸新書』には、菊芋の由来および用途、栽培法について2ページにわたり解説されていますが、その調理法については、次のように書かれています。
調理法は種々あるべきも皮を剥き直ちに之れを冷水に入れて變色を防ぎ其後取り出して薄く切り熱湯に入れて瀹で適度の軟かさに至らば取揚げて水を切りクリーム、ソースを懸けて食すべし、又甘藷の如く燒きて食するも可なり、或は爪哇薯の如く總菜に煮て食するも可なり。
(柘植六郎『実験蔬菜園芸新書』p.215)
園芸の教科書に調理法まで載っているのは面白いですが、農作物をよく知り、普及させるためには、科学的な知識だけでなく、人々の生活の中でどういう意義があるのかを、ちゃんと押さえておく必要があるということなのでしょう。
柘植六郎は、賢治のいくつかの短歌にも登場し、『春と修羅』の「習作」において、「すぎなを麦の間作ですか/柘植さんが/ひやかしに云つてゐるやうな/そんな口調がちやんとひとり/私の中に棲んでゐる」と記されているような、賢治の中に後々まで印象を残した恩師の一人でした。
また、この作品の下書稿の手入れ途中には、「けれどもこゝらあたりでは/フランス料理もはやらないし/糖尿病の患者も居ず」という一節が挿入されている段階があり、賢治は菊芋に含まれるイヌリンが、糖尿病の食餌療法に良いという知識も、持っていたのだと思われます。
菊芋が糖尿病の治療に有益であるという知見は、佐々廉平という医師が1918年2月~3月の『醫海時報』という医学誌に、「糖尿病食餌療法の進歩現状を論じ予等の菊芋療法に及ぶ」という論文の(一)および(二)として発表しており、その後同じく佐々廉平著『食餌療法 食品学之部』(1920)や、多くの食養生関係の書籍で取り上げられるようになっています。
賢治が当時、このような知識まで持っていたというのは、驚きです。
※
……というような、農学の専門家らしい蘊蓄を縷々傾けながらも、賢治がこの作品において複雑な思いで吐露しようとしているのは、「たくさんの菊芋が獲れてありがたいけれども、こればかり食べていたのでは病気になるのは確実だから、自分は本を売ったり借金したりしながら、曖昧な邪道の暮らしをしていくだろう」ということです。
ここには、自嘲の響きが色濃くあります。
そしてその陳述の途中には、「参って死んでしまっても/動機説では成功といふ」という一節が出てきます。「動機説」というのは倫理学の用語で、人間の行為が正しいか否かを判断する基準として、「その行為の動機が正しければ、行為そのものも正しい」と考えるのが、「動機説」です。カントの哲学などが、この派に属します。
これに対して、「その行為の是非は、行為の結果によって判断すべきだ」とするのが「結果説」です。功利主義などは、結果説に属します。
この見方を作品の状況に当てはめれば、もしも賢治が菊芋ばかりを食べて、病気になって死んだとしても、「清貧に生きる」という動機は素晴らしかったのだから、その行為自体も正しかった、と考えるのが「動機説」だというわけです。
それにしても宮沢賢治という人は、羅須地人協会の活動においても、その動機の純粋さと崇高さは立派でしたが、栄養不良と重労働が祟って途中で病気になり、挫折してしまいました。東北砕石工場の技師としても、農村の土壌を改良するという動機は良かったものの、やはり無理をして倒れてしまいました。死の前夜にも、肥料相談に来た農民の役に立とうという動機で、家族の制止も聞かず長時間話をしたために、それが直接の命取りになりました。
このように賢治は、「動機説」の権化のようにして生きてきて、結局それが病気を悪化させ、死に至ってしまったという感があります。
そういう賢治でも、この作品においては「近頃の拙者は動機説ではない」などと言って、本を売ったり借金をしたりして米などの食料を調達すると言っているのは、本当はとても人間的で、真っ当なことと思われます。
ただ、彼はそうしようとしながらも、そのような自分の生き方を「曖昧な暮しやう」と呼んだり、「はなはだ邪道」と言ったり、やはり否定的にとらえているところは、読んでいて心が痛んでしまいます。「そんなに自分を追い詰めないで!」と言ってあげたい感じです。
すでに賢治の体は、農作業をしていても「汗でがたがた寒い」という状態で、おそらく熱があるのでしょう。
徐々に結核がその病巣を広げつつあるのかと、心配せざるをえません。

菊芋の塊茎(Wikimedia Commonsより)
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