馬泥棒になった記憶

 「文語詩稿 五十篇」所収の「〔月のほのほを かたむけて〕」は、次のような作品です。

月のほのほをかたむけて、   水杵はひとりありしかど、
搗けるはまことみも得ぬ、  渋きこならの実なりけり。

さらばとみちを横ぎりて、   束せし廐肥の幾十つら、
祈るがごとき月しろに、    朽ちしとぼそをうかゞひぬ。

まどろむ馬の胸にして、    おぼろに鈴は音をふるひ、
山の焼畑 石の畑、      人もはかなくうまゐしき。

人なき山彙やまの二日路を、    夜さりはせ来し酉蔵は、
塩のうるゐの茎噛みて、    ふたゝび遠く遁れけり。

 賢治の文語詩定稿の常として、削ぎ落とされ凝縮された表現からは、なかなか具体的な状況や意味がわかりにくくなっています。
 島田隆輔さんは、昨年出された『宮沢賢治 文語詩稿 五十篇 訳注』の【試訳】において、これを次のように読み解いておられます。

 月光のきらめく飛沫を散乱させて、水杵はひとりうごいていたが、
搗いているのはああ!たべることもできぬ、しぶい小楢の実だなあ。
 「それならば」と小道を横ぎって、束にした肥藁が幾十ならぶなか、
祈りにみちた月あかりのもと、こわれた戸の隙間から内を覗きみる。
 まどろんでいる馬の胸もとで、おぼろげに鈴はその音をふるわせ、
山の焼き畑や石混じりの畑仕事ゆえ、人もすっかり睡りにおちていた。
 人目をさけた山々の二日の道程を、夜どおし駈けつづけた酉蔵は、
うるいの茎をとりだしかみしめると、ふたたびとおく遁れさったよ。

(島田隆輔『宮沢賢治 文語詩稿 五十篇 訳注』p.49)

 一定の文字数の中に、深い読解を凝縮した名訳だと思いますが、これによって作品に描かれた情景は、ぐっと眼前に迫ってきます。山あいの美しい月光の下、水杵が独り動いて粗末な実が搗かれ、厩舎で眠る馬の胸の鈴はかすかに鳴り、母屋の住人も寝静まっている……。
 何かの物語の一場面のような、静謐な景色です。

 しかしそれでも、最後の方に出てくる「酉蔵」という人物は何者なのか、なぜ彼は「人目をさけた山々の二日の道程を、夜どおし駈けつづけ」ているのかという事情などは、そもそもこの定稿では明らかにされていません。

 そこで、この作品の下書稿(三)手入れを見てみると、次のようになっています。

  兇賊

月の燐火をかたむけて
のぼる水杵に近づきて
臼をさぐればはかなしや
粟の殻こそ搗かれたれ

さらばとみちをよこぎりて
庭をめぐれば月あかり
束せし廐肥の幾つらに
祈るがごとく照り映えぬ

うまゐの馬の胸やらん
おぼろに鈴の音ありて
ひるの焼畑石の畑
ひとも生くとし見えざりき

遁れて人なき山彙やまの二日路を
夜さり走せこし寅吉は
塩のうるゐの茎噛みて
ふたたび遁れ走りけり

 こちらの稿の本文は、人物の名前が「寅吉」になっている以外は、定稿とだいたい同じです。ただ、タイトルが「兇賊」となっているところが、最大のポイントです。
 すなわち、下書稿(三)手入れで「寅吉」、定稿で「酉蔵」とされている謎の人物は、実は恐ろしい盗賊で、何らかの犯罪に絡んだ事情で、こんな山奥を一人で逃走しつづけているらしいのです。
 そうなると、定稿だけを読んで感じられる山間の静かなまどろみとは対極にあるような、禍々しく危うい緊張感が、一気にみなぎってきます。このような、「長閑さ」と「緊張」の偶然の同居という不思議な感覚が、賢治の狙いだったのかもしれません。

 栗原敦さんは、この作品定稿について、次のように生き生きと評しておられます。

 逃亡中の盗賊とおぼしき「酉蔵」なる人物のほんの短い動きを追いながら、何と見事に動作を伴った物語的なシーンを描き出していることか。しかも、「酉蔵」の動く姿の背景をなす環境が、すなわち南部の曲り家造りのそのあたりでは決して小さい経営規模ではあるまいと思われる農家、けれどもつつましく勤勉な日々の暮らし、人々の労働と生活の膚ざわりといったもの全てが月明りに照らされて輪郭もあざやかに浮かび上ってくるようだ。もちろん、二日路を駈け通して来たという「酉蔵」の特徴、そして「山彙やま」(さんい)という言葉もまた実に注意深く選ばれたものだった。山脈ではない、ひとつひとつ孤立しながら集まり続いている山群。下書稿等から推して、盛岡の東方二、三十キロメートルの外山高原あたりの地形をぴたりとおさえた言葉だった。
 作者の眼は「酉蔵」に対しては全く客観的で、少しの感情も伴ってはいない。しかし、「月しろ」の「祈るがごとき」印象、「おぼろな鈴」の音源である「馬の胸」、さらには熟睡うまいする人の寝息のかそけさを拾いあげるその視線は、誠に細やかで、周到で、許されるなら限りなくやさしいとさえ言いたい程だ。思えば、「酉蔵」はいわば狂言廻しであって、作品の焦点は、実は「山の焼畑 石の畑」に働き暮らす人々の存在の方にこそあったと見なければならないのであった。

(栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』pp.402-403)

 さて、このような「兇賊」の逃走を、賢治が実際に目撃したとは思えませんので、この段階の作品の描写は、作者によるフィクションと考えられます。
 賢治がこのようなフィクションを構想した背景に、何らかのヒントとなる出来事があったのか?という問題について、やはり栗原敦さんは、1895年に監獄から逃走して、以後関東各地で神出鬼没の連続強盗等を重ね、ついに1899年に逮捕された、「稲妻強盗」と呼ばれた盗賊の存在を挙げておられます(上掲書p.409)。下書稿(三)第一形態では、兇賊は「稲妻」と呼ばれているのです。
 この「稲妻強盗」の活躍は、賢治の生前から2歳頃までですから、彼が直接的に知っていたはずはありませんが、その捕縛の様子は1899年のうちに一場面一景の「日本初の劇映画」として制作され、かなり後年まで全国各地を興行して廻ったらしいのです。ですからこれは、賢治が子供の頃に見聞した可能性のある盗賊譚なのです。
 そして、さらに栗原さんの指摘するところでは、賢治が病臥中の1930年12月の『岩手日報』には、「花巻荒しのゐ駄天/怪盗一蔵逮捕さる/ゆふべ瀧沢付近の列車内で御用/赤石生れの六犯の男」という記事が掲載されているということです(上掲書p.410)。この「一蔵」は相当な「ゐ駄天」で、何度も警察が張った非常線を突破して疾駆逃走しており、紫波郡あたりの松林の中に潜伏していた時期もあったということですから、「〔月のほのほを かたむけて〕」の描写との共通性も、垣間見えます。

 晩年に病臥生活となり、自由に外を出歩けない賢治が、昔の記憶や最近の新聞記事にヒントを得て、深夜の山中を逃走する盗賊の様子を思い描いたということは、十分に考えられると思います。

 しかしもう一つ、この作品の「盗賊譚」の根底には、賢治自身の当時の記憶があるように思われます。
 この文語詩の原型となった口語詩は、「春と修羅 第二集」所収の「〔どろの木の下から〕」および「春と修羅 第二集補遺」所収の「〔どろの木の根もとで〕」なのですが、前者の下書稿(一)、すなわち現存する中で最も古い形は、「路傍」と題され、次のようになっています。

六九
  路傍
          一九二四、四、一九、
四本のくらいからまつの梢に
かがやかに春の月がかかり
やなぎのはなや雲さびが
しづかにそこをわたってゆく
  ……赤く塗られた鳥の卵と
    その影と……
さはしぎももうひっこんだのに
廐では鈴がかすかに鳴ってゐる
  ……この枯れ芝生なら
    暗さややはらかさや
    すっかり鳥のこころもちだ……
鈴がかすかにまたひびくのは
ねむってゐる馬の胸に吊るされ
呼吸につれてふるえるのか
きっと馬は足を折って
蓐草の上にかんばしくねむってゐる
わたくしもまたねむりたい
  ……誰かが馬盗人とまちがへられて
    腕にピストルを射込まれた……
どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある
たとへばそれは青くおぼろな保護色だ
むかふの丘の陰影のなかでもないてゐる
それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは
風のやうに峡流も鳴ってゐる

 これは、農学校に勤めていた頃の賢治が、外山種畜場で行われる「種馬検査」に集まる馬たちを見るために、土曜日の午後から盛岡の北の山道を登り、夜が更けて野宿をしようとしているところです。賢治は、山あいにある民家の厩舎の傍らの芝生にいるようで、眠っている馬の姿を想像しつつ、「わたくしもまたねむりたい」と感じています。
 ちょうどその時、テクストには「……誰かが馬盗人とまちがへられて/腕にピストルを射込まれた……」という一節が、突然現れます。

 この時賢治は、「こんな夜遅く、山あいの民家の厩舎の脇に、男が一人でこっそり隠れている姿が住人に見つかったら、きっと馬泥棒に間違われて困ったことになるだろう……」というような、そんな一抹の不安を抱えつつも、ふとまどろんでしまったのではないでしょうか。そして、「誰かが馬盗人とまちがへられて/腕にピストルを射込まれた」という、一瞬の夢か、入出眠時幻覚か、というような体験をしたのだと思います。
 これが単なる空想ではなく、夢や入出眠時幻覚として、賢治が直接に「体験」したことだろうと推測する理由は、これが「腕にピストルを射込まれた」という断定形で記されているからです。「厳密に事実のとほり」の描写だとすると、これは随意的な空想ではなく、作者の体験と解釈せざるをえません。

 しかしこの「馬盗人」の記載は、次の下書稿(二)第一形態になると、抹消されてしまいます。そして、「第二集」に収載される最終形態である、下記の下書稿(二)手入れ形においても、馬盗人は、現れません。

六九
          一九二四、四、一九、
どろの木の下から
いきなり水をけたてゝ
月光のなかへはねあがったので
狐かと思ったら
例の原始の水きねだった
横に小さな小屋もある
粟か何かを搗くのだらう
水はたうたうと落ち
ぼそぼそ青い火を噴いて
きねはだんだん下りてゐる
水を落してまたはねあがる
きねといふより一つの舟だ
舟といふより一つのさじだ
ぼろぼろ青くまたやってゐる
どこかで鈴が鳴ってゐる
丘も峠もひっそりとして
そこらの草は
ねむさもやはらかさもすっかり鳥のこゝろもち
ひるなら羊歯のやはらかな芽や
桜草プリムラも咲いてゐたらう
みちの左の栗の林で囲まれた
蒼鉛いろの影の中に
鍵なりをした巨きな家が一軒黒く建ってゐる
鈴は睡った馬の胸に吊され
呼吸につれてふるえるのだ
きっと馬は足を折って
蓐草の上にかんばしく睡ってゐる
わたくしもまたねむりたい
どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある
たとへばそれは青くおぼろな保護色だ
向ふの丘の影の方でも啼いてゐる
それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは
風のやうに峡流も鳴る

 ところが、上記がさらに推敲されて作品番号と日付を失い、「春と修羅 第二集補遺」所収「〔どろの木の根もとで〕」の下書稿手入れ形になると、下のように「馬どろぼう」が再登場します。

どろの木の根もとで
水をけたてゝはねあがったのは、
まさしくこゝらの古い水きね
そばには葦で小さな小屋ができてゐる
粟か稗かをついてるのらしい
つゞけて水はたうたうと落ち
きねはしばらく静止する
ひるなら羊歯のやわらかな芽や
プリムラも咲くきれいな谷だ
きねは沈んでまたはねあがり
月の青火はぼろぼろ落ちる
もっともきねといふよりは
小さな丸木舟であり
むしろ巨きなさじであると
こんども誰かゞ云ひさうなのは
じつはこっちがねむいのだ
どこかで鈴が鳴ってゐる
それは道路のあっち側
柏や栗か そのまっくらな森かげに
かぎなりをした家の
右の袖から鳴ってくる
前の四角な広場には
五十ばかりの厩肥の束が
月のあかりに干されてゐる
ねむった馬の胸に吊るされ
呼吸につれてふるえるのだ
馬は恐らくしき草の上に
足を重ねてかんばしくねむる
わたくしもまたねむりたい
まもなく東が明るくなれば
馬は巨きな頭を下げて
がさがさこれを畑へはこぶ
そのころおれは
まだ外山へ着けないだらう
ひるの仕事でねむれないといって
いまごろこゝらをうろつくことは
ブラジルでなら
馬どろぼうに間違はれて
腕に鉛をぶちこまれても仕方ない
どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある
それはたとへば青くおぼろな保護色だ
向ふの丘の影の方でもないてゐる
そのまたもっと向ふでは
たしかに川も鳴ってゐる
きねはもいちどはねあがり
やなぎの絮や雲さびが
どろの梢をしづかにすぎる

 後半の方の、「いまごろこゝらをうろつくことは/ブラジルでなら/馬どろぼうに間違はれて/腕に鉛をぶちこまれても仕方ない」という箇所がそれです。
 ここに「ブラジル」が出されているのは、日本からの移民などのエピソードがあったのでしょうか。「自分の所有地に怪しい侵入者を見つけたら、警察に通報するよりも、まず家の主人が銃で撃退する」というのは、開拓時代の西部劇のみならず、最近のアメリカ映画でもよく見る場面です。

 こちらでは、「もし……したら、……も仕方ない」という、仮想的判断の形式で記されていますが、内容的には「〔どろの木の下から〕」下書稿(一)の、「誰かが馬盗人とまちがへられて/腕にピストルを射込まれた」と、同じです。

 ところがこの口語詩が文語詩へと改作されると、「馬泥棒」の挿話は、再び抹消されてしまいます。
 文語詩としての下書稿(一)は、「セレナーデ」と題され、何と恋愛譚へと姿を変えます。

  セレナーデ

巨なるどろの根もとに
水をけてうちはねたるは
式古き水きねにこそ
   きみしたひこゝにきたれば
   草の毛や春の雲さび
   月の面をかすめて過ぎつ

おぼろにも鈴の鳴れるは
その家の右袖にして
まどろめる馬の胸らし

廐肥の束七十ばかり
月しろに並べ干されぬ

をちこちに鈴のさまして
かすかにも啼く鳥あるは
保護色と云はゞ云ふべし

きねはまた月のかけらを
ぼそぼそに落してあがり
鈴の音やゝ明らけし

 4行目に「きみしたひこゝにきたれば……」とあるように、主人公がこの山中に来た理由は、恋人への慕情のためだということで、盗賊の逃亡劇とは大違いです。

 盗賊が出てこないのは、次の断片的な下書稿(二)も同じですが、ついにその次の下書稿(三)「兇賊」において盗賊が主人公となり、下書稿(四)定稿と展開されるのは、上述のとおりです。

 ということで、口語詩から文語詩に至る全推敲過程を振り返ると、「盗人」のモチーフは、最初の口語詩下書稿(一)に登場して、次の下書稿(二)では姿を消し、第二集補遺の下書稿手入れ形で久々に再登場し、しかしまた文語詩下書稿(一)では再び姿を消し、文語詩下書稿(三)以降で再々登場する、という経過になっています。
 上記で、栗原敦さんが過去の記録を掘り起こして明らかにした、「稲妻強盗」や「ゐ駄天怪盗」の事件が、賢治にとって刺激になった可能性は大きいと思われますが、元をたどれば、最初に自分自身が山あいの厩舎の傍らで野宿をした際に体験した、「馬盗人に間違えられる」というイメージに発したものだと思われます。

 前回「賢治の映像記憶」という記事では、賢治はある出来事を体験してから相当の年月が経過した後で、まるで当時の出来事を再体験しているかのように、あらためて当時の記憶を呼び起こして推敲を行うことがある、ということを見ました。
 そして、賢治が体験からかなり後になって、虚構ではない実体験をあらためて想起して推敲を行っていると推測される一つの根拠として、下記のような推敲パターンの存在を、想定してみました。

➀ 初期段階の草稿に、特定の映像的描写(A)が現れる

➁ その後の推敲過程で、描写(A)はいったん削除される

③ さらに後の推敲過程で、➀から一定の隔たりの後、描写(A)が再び現れる

 今回の「盗人」のモチーフは、上で想定したパターンのように「映像的」記憶と言える性質のものではありませんので、これは賢治の「映像記憶」能力を示唆する所見となるものではありません。しかし、賢治が相当昔に体験した事柄を、それから何年も経ってから、直前の草稿の記述を見て想起しているのではなく、自分の記憶の中から呼び起こして書いている一例だと思われます。
 作品の題材となった賢治の外山高原行は、1924年4月のことですが、文語詩「〔月のほのほをかたむけて〕」の下書稿(一)~(四)が書かれている黄罫(22/0)詩稿用紙は、1931年以降に使用されていたと推定されていますので(杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』p.245)、この間には実に7年ほどの歳月が経過しています。
 これほどの時を経ていても、賢治は草稿の記述に頼らずに、当時の自分の体験イメージを直に呼び覚ましつつ、推敲を行ったのだろうと推測できるわけで、これはやはり特別な能力と言ってよいのではないでしょうか。

 自分自身を振り返ってみると、私などは数年前の何かの折りに自分が書いた文章を読み返しても、文面に記されている以外の当時の自分の具体的状況などはほとんど思い出せず、書かれている内容についても、「昔の自分はこんなことを考えていたのか」などと、意外かつ新鮮な思いがしてしまうのが実状です。

 そんなのとは比べものにならない賢治の記憶力は、つくづく大したものだと思います。

「〔月のほのほをかたむけて〕」下書稿(二)~(四)
「〔月のほのほをかたむけて〕」下書稿(二)~(四)(『新校本全集』第7巻口絵より)