賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」の中に、次のような箇所があります。
谷内六郎 画「洞熊学校を卒業した三人」
(福音館書店『どんぐりと山ねこ』より)蜘蛛はそして葉のかげに戻って、六つの眼をギラギラ光らせながらじっと網をみつめて居りました。
「ここはどこでござりまするな。」と云ひながらめくらのかげろふが杖をついてやって参りました。
「ここは宿屋ですよ。」と蜘蛛が六つの眼を別々にパチパチさせながら云ひました。
かげろふはやれやれといふやうに、巣へ腰をかけました。蜘蛛は走って出ました。そして
「さあ、お茶をおあがりなさい。」と云ひながらいきなりかげろふの胴中に噛みつきました。
かげろふはお茶をとらうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、
「あはれやむすめ、父親が、
旅で果てたと聞いたなら」と哀れな声で歌ひ出しました。
「えい。やかましい。じたばたするな。」と蜘蛛が云ひました。するとかげろふは手を合せて
「お慈悲でございます。遺言のあひだ、ほんのしばらくお待ちなされて下されませ。」とねがひました。
蜘蛛もすこし哀れになって
「よし早くやれ。」といってかげろふの足をつかんで待ってゐました。かげろふはほんたうにあはれな細い声ではじめから歌ひ直しました。
「あはれやむすめちゝおやが、
旅ではてたと聞いたなら、
ちさいあの手に白手甲、
いとし巡礼の雨とかぜ。
もうしご冥加ご報謝と、
かどなみなみに立つとても、
非道の蜘蛛の網ざしき、
さわるまいぞや。よるまいぞ。」
「小しゃくなことを。」蜘蛛はたゞ一息に、かげろふを食ひ殺してしまひました。そしてしばらくそらを向いて、腹をこすってからちょっと眼をぱちぱちさせて「小しゃくなことを言ふまいぞ。」とふざけたやうに歌ひながら又糸をはきました。
この部分で何と言っても面白いのは、引用部の後半において、年老いたかげろうが遺言として哀れな歌を一節唄い、蜘蛛はそんなかげろうを食べてしまった後で、かげろうの歌の一部をもじって、「小しゃくなことを言ふまいぞ♪」と一人で唄うという場面です。
弱く儚いかげろうは、蜘蛛に捕まると何の抵抗もできませんが、しかし今際のきわに「非道の蜘蛛の網ざしき、さわるまいぞや。よるまいぞ」と唄うことによって、残酷な捕食者に、一矢を報います。
無力なはずの相手の一矢にカチンときた蜘蛛は、思わず「小しゃくなことを」と怒りを顕わにしますが、食事も終わって余裕を取り戻すと、「小しゃくなことを言ふまいぞ」と、おどけた調子で唄ってみせるのです。この部分の旋律は、かげろうの「さわるまいぞや。よるまいぞ」の旋律と同じ節で、替え歌にして唄ったのでしょう。
哀しくもユーモラスな一場面ですが、ここでかげろうが唄う、「あはれやむすめちゝおやが、旅で果てたと聞いたなら……」という節回しは、三味線の伴奏にでも乗せたらぴったりの雰囲気です。これはきっと、賢治が幼少期から親しんでいた、「義太夫節」なのではないでしょうか。中野新治氏も、學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』におけるこの童話の解説の中で、この部分のことを「浄瑠璃の口説きのような遺言」と書いておられます。
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賢治の祖父喜助は、義太夫節をレコードで聴くのが大好きで、賢治や弟清六にSPレコードをかけさせては、楽しんでいたということです。
清六は書いています。
私は小学校に入るまでレコードというものは浄瑠璃だけしかないものだと思っていた。というのは明治四十年ごろはまだ蓄音器が珍しかったころで、私の家では祖父も叔母も両親も義太夫が好きだったので、勢いレコードも越路大夫とか豊竹呂昇などの吹込んだものしか私の耳に入らなかったからである。
そのころ、私より九歳年上だった兄の賢治は中学校に行って家から離れていたので、私は小さい時から朝顔ラッパの小さな蓄音器で老人たちにそれを聞かせる掛りだった。そのために私は小学校に入る前に二三十枚あった義太夫の題名と節まわしを知らず知らずのうちに覚えてしまったのだが、内容はよくわからないことばかりなので、だんだん兄も私も義太夫には興味をなくしてしまい、暫くの間私達はレコードには縁がなくなったのであった。(宮沢清六「兄とレコード」:『兄のトランク』より)
上に出てくる「叔母」とは、父政次郎の妹ヤスのことで、次のように伝えられています。
二女ヤスは、踏み台にのらないと流しに手の届かぬ時分からせっせと働いたというが、イチが政次郎に嫁いできたときは一五歳で、レコードでおぼえた義太夫のさわりを小声で語りながら台所しごとをしたという、明るい気さくな性格で、一九〇六(明治三九)年九月二九日、岩田金次郎と結婚した。
(『新校本全集』年譜篇p.10)
このように、祖父のみならず両親も叔母も、みんなが義太夫節を愛好する家で育ち、幼少期には弟清六の先代の「レコード掛り」として、やはり義太夫節の節回しを暗記していたであろう賢治のことですから、「あはれやむすめちゝおやが、旅で果てたと聞いたなら……」などという「詞」や「節」は、自家薬籠中のもののように湧いてきたのではないかと思います。
このような音楽的な「詞」や「節」の豊かなセンスは、たとえば「原体剣舞連」のような作品にも生かされ、また晩年の文語詩の根底にも流れていたのではないかと思います。
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そして、このかげろうの唄の節回しを、蜘蛛が拝借しつつ「小しゃくなことを言ふまいぞ♪」と「ふざけたやうに歌」うというようなやり取りは、当時の家族全員が義太夫節に精通していた宮沢家においては、洒落た会話術として、普段から行われていたのではないかと思うのです。
家族に向かって何かの言葉を言う際に、よく似た場面で唄われる義太夫の節回しを借りて、面白おかしく演じてみせる、というようなことです。
例として、これは義太夫ではなくて歌舞伎由来ですが、「弁天娘女男白浪」において、弁天小僧菊之助が啖呵を切って言う台詞に「知らざあ言って聞かせやしょう!」というのがあります。この台詞は、一般の日常会話の中でも、「知らないなら、教えてあげましょう」ということを、非常に芝居がかって大袈裟に言う際に、使われることがあります。
あるいは、これも歌舞伎の「楼門五三桐」で、石川五右衛門が南禅寺の山門の上から京の町を眺め、「絶景かな、絶景かな~」と言う場面がありますが、この台詞も日常会話の中で、観光地などに行って美しい景色に感動した際などに、使うことができます。
すなわち当時の宮沢家では、家族の会話の中で、義太夫の一節をもじって何かを述べる、「義太夫節会話」とでもいうような物言いが、家庭内で楽しまれていたのではないか、と想像するのです。そして、冒頭に引用したかげろうと蜘蛛のやり取りというのは、登場キャラクターの間で、このような「義太夫節のもじり」が交わされている場面なのではないかと、思う次第です。
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このようなことを想像するのは、現代の賢治オタクと言われるような人々の間でも、「賢治作品会話」とも言うべき、非常にマニアックで珍妙なやり取りが、行われることがあるからです。
たとえば、ある人が親しい人から困った目にあわされた時に、
「まどふて下さい。まどふて下さい。」*1
と、少し高い声で責めるように言う、というような用法があります。
あるいは、相手に深い感謝の意を表したい時に、ことさら厳粛な顔をして、
「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」*2
と述べる、というやり方もあります。これは、相手が女性である場合に用いるのがよいでしょう。
また、何かの事柄がうまくできたのか?と尋ねられた際には、
「いゝ。うまく落ちた。」*3
と、小さな声でそっと答える、というのもあります。
*1「「ツェ」ねずみ」より
*2「永訣の朝」より
*3「セロ弾きのゴーシュ」より
まあ、「賢治作品会話」にせよ「義太夫節会話」にせよ、内輪だけで楽しむような他愛もないお遊びですが、まだ喜助お祖父さんが元気で、子供たちも賑やかだった頃の宮沢家では、冒頭で赤い手長の蜘蛛が口ずさんだような節回しが、ふと茶の間で披露されて笑いを誘うこともあったのではないかと、勝手に想像しています。
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