若い二人の農作業

 「春と修羅 第三集」の「〔一昨年四月来たときは〕」は、次のような作品です。

一〇二二
          一九二七、四、一、
一昨年四月来たときは、
きみは重たい唐鍬をふるひ、
蕗の根をとったり
薹を截ったり
朝日に翔ける雪融の風や
そらはいっぱいの鳥の声で
一万のまた千億の
新におこした塊りには
いちいち黒い影を添へ
杉の林のなかからは
房毛まっ白な聖重挽馬が
こっそりはたけに下り立って
ふさふさ蹄の毛もひかってゐた
去年の春にでかけたときは
きみたちは川岸に居て
生温い南の風が
きみのかつぎをひるがへし
またあの人の頬を吹き
紺紙の雲には日が熟し
川が鉛と銀とをながし
楊の花芽崩れるなかに
きみは次々畦を堀り
人は尊い供物のやうに
牛糞を捧げて来れば
風は下流から吹いて吹いて
キャベヂの苗はわづかに萎れ
風は白い砂を吹いて吹いて
もういくつもの小さな砂丘を
畑のなかにつくってゐた
そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た

 作品全体には、何か輝かしく祝福するような雰囲気が、漂っています。
 「朝日に翔ける雪融の風」や、「そらはいっぱいの鳥の声」は、明るく晴れやかな調子ですし、「一万のまた千億の/新におこした塊りには/いちいち黒い影を添へ」という土の様子も、何気ないミクロな情景ながら、荘厳な感じがあります。
 「房毛まっ白な聖重挽馬」という表現は、一緒に働いてくれる馬を「聖なる存在」として讃え、「人は尊い供物のやうに/牛糞を捧げて来れば……」という所作は、牛糞を扱う際にも敬虔である、その農婦の心を表しています。

 この作品において農作業をしているのは、「きみ」と呼ばれている人と、「あの人」と呼ばれている人と、二人がいるようです。二人をあわせて、中ほどで作者は「きみたち」と呼んでいます。
 「(南の風が)あの人の頬を吹き」と記す賢治の描写には、どことなく心暖かい、優しさを感じるのですが、この「きみたち」というのは、いったいどんな人々だったのでしょうか。

 実はこの「〔一昨年四月来たときは〕」は、とても複雑な成り立ちをしていて、『新校本全集』の「校異篇」には、下記のような説明と、「成立・推移概念図」という図が掲載されています。

「〔一昨年四月来たときは〕」成立・推移概念図

下書稿(一) 下書稿(二) 下書稿(三) 下書稿(四) 下書稿(五) 「〔生温い南の風が〕」下書稿

本篇は本巻所収「詩ノート」掲載形(「一〇二二 〔根を截り〕」)に同ノート記載の「一〇五二 ドラビダ風」の発展形が合体して成立したものである。さらに、本篇のうち右の「一〇五二 ドラビダ風」からきた部分がのちに再び独立・発展したものが本巻「春と修羅 第三集補遺」所収「〔生温い南の風が〕」である。また、第五巻「口語詩稿」所収「〔おぢいさんの顔〕」は本篇の関連作品である。

(『新校本全集』第4巻校異篇p.105)

 右に引用させていただいた、「「〔一昨年四月来たときは〕」成立・推移概念図」は、同上校異篇のp.106に掲載されているものです。二つの草稿が合体し、その後また一部が独立するという経過には、賢治の様々な思いが込められていたのでしょう。
 右図は「クリッカブルマップ」になっていますので、四角く囲まれた「下書稿(一)」などの部分を図上でクリックしていただくと、その草稿が別窓で開きます。

 さて、「〔一昨年四月来たときは〕」における「きみたち」とは、どういう人々だったのかという問題に戻ります。
 この最終形(下書稿(五))の推敲過程では、黒インクによる手入れが複雑に加えられているのですが、その途中の一つの段階において、テクストは下記のようになっていました。

一昨年四月きみたちは、古い童話の口絵のやうに、二人いっしょにはたらいてゐた

きみは重たい唐鍬をふるひ、

きみはいまのひとと

いっしょになったばかりで

あの森の中ではたらいてゐた

〔後略〕

 ということで、「きみたち」というのは、一昨年4月の時点で、新婚の夫婦だったのです。「古い童話の口絵のやうに、二人いっしょにはたらいてゐた」というのが、何とも初々しくて、微笑ましい感じです。
 作品中で「きみ」と呼ばれているのが夫で、「あの人」と呼ばれているのが妻なのでしょう。「(南の風が)あの人の頬を吹き……」との表現から感じられた優しさは、この若いお嫁さんに賢治が注ぐ眼差しの反映なのでしょう。

 ところで、ここで「きみ」と呼ばれている若者がどういう存在なのかと考えてみると、この距離感からして、これは農学校を卒業した賢治の元教え子なのではないかと、私は推測します。
 ここから連想するのが、「春と修羅 第二集」の「丘陵地を過ぎる」です。

一七
  丘陵地を過ぎる
          一九二四、三、二四、
きみのところはこの前山のつづきだらう
やっぱりこんなごつごつ黝い岩なんだらう
松や何かの生え方なぞもこの式で
田などもやっぱり段になったりしてゐるんだな
いつころ行けばいゝかなあ
ぼくの都合はまあ来月の十日ころ
仕事の方が済んでから
木を植える場所や何かも決めるから
ドイツ唐檜にバンクス松にやまならし
やまならしにもすてきにひかるやつがある
白樺は林のへりと憩みの草地に植ゑるとして
あとは杏の蒼白い花を咲かせたり
きれいにこさえとかないと
お嫁さんにも済まないからな
雪が降り出したもんだから
きみはストウブのやうに赤くなってるねえ
〔後略〕

 この作品で「きみ」と呼ばれているのも、賢治の教え子なのではないかと思われます。五輪峠を越えて、人首町に至る途中の道で、教え子の自宅の方角を一緒に眺めているのでしょう。「来月の十日ころ」に、賢治が再び教え子の家を訪ねて、植樹をする相談をしているようです。
 この引用部の終わりから3行目で、賢治は「お嫁さんにも済まないからな」と言っており、その言葉に反応して教え子は「ストウブのやうに赤くなって」照れています。どうやらこの子はもうすぐ結婚するらしく、賢治はそのお祝いということで、植木を贈るのでしょう。
 こちらの作品にも、賢治の教え子に対する優しさが表れています。

 賢治は、農学校の教え子に対して、常々「卒業したら、学校で習ったことを生かして農業をするように」と勧めていたということですが、勉強が好きな子はさらに上の学校に行く場合もあったり、あるいは町に出て別の仕事をする子もいたりして、農業に就くのは卒業生の一部にしか過ぎなかったということです。
 そしてまた結婚についても、「おまえたちは女学校を卒業した人をお嫁に迎えてはだめだぞ。必ず農家に生まれた、農業にしたしむ体の丈夫な人を嫁にするんだよ」と、生徒たちに話していたということです(佐藤成『証言 宮澤賢治先生 イーハトーブ農学校の1580日』p.226)。

 このように説いていた賢治にとって、「〔一昨年四月来たときは〕」の「きみ」と、その若い奥さんは、まさに賢治が理想としたような農家の夫婦として、仕事に精を出しているわけです。賢治としては、このような若い二人のことを、心から応援してやりたかったでしょう。
 おそらくそういった経緯もあって、賢治はこの二人のところへ「一昨年四月」にもやって来て、さらに「去年の春」にも出かけてきて、農作業の様子を見守り、励ましの声をかけたのだろうと思います。
 しかし二人の仕事は相当きつく、下書稿(三)に当たる「ドラビダ風」で賢治は、「もし摩尼の珠を得たらば/まづすべての耕者と工作者から/日に二時間の負ひ目を買はう」と、献身的な祈りを捧げざるをえなかったほどでした。

 そんな二人のところに、重輓(挽)馬がやって来て、農作業に力を貸してくれるとなると、こんな有り難い助けはないでしょう。「房毛まっ白」で「ふさふさ蹄の毛もひかってゐ」る、その馬の神々しい姿に、賢治は思わず「聖重挽馬」と呼びたくなったのかと思われます。
 「古い童話の口絵のやう」な若い夫婦と、白く美しい聖重挽馬が、畑で行っている尊い労働に、希望に満ちたエールを送ろうとするのが、この「〔一昨年四月来たときは〕」という作品なのかと思います。

 ところが無情にも、最終行に書かれているように、ここで「去年」と記されている1926年、岩手県地方は干害に見舞われ、10年ぶりの不作になってしまうのです。
 「岩手県農業史」には、この年の干害について、次のように書かれています。

〔大正15年〕
 5月から7月まで干ばつが続き、そのため田植えがおくれ、6月中旬で植え付けができない面積が5,886ha、7月上旬でも約1,000haに達した。被害が特にひどい地域は、江刺郡(面積率42.6%)、紫波郡(40.6%)であった。

(「岩手県農業史」p.837)

 岩手県の反当たり米収量は、前年1925年の2.14石に対して、1926年は1.77石と、2割近くも落ち込んでしまいます。賢治が学校を退職して農作業を始めた年が、ちょうど不作に当たってしまうとは、何とも巡り合わせの悪いことでした。
 岩手県の反当たり米収量は、翌1927年にはまた1.99石にまで回復するのですが、健康も害していた賢治にとっては、その後も試練の日々が続きます。