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コサック兵と牧馬地方

 今日4月20日は、98年前に宮澤賢治の詩集『心象スケッチ 春と修羅』が、「發行」された日です。
 彼はこの日、自らの処女出版を自宅で待機していたわけではなく、また刷り上がった本を印刷所に取りに行ったわけでもなく、盛岡から北東25kmほどのところにある「外山」という高原に、一人で馬の見物に行っていたのでした。

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岩手県畜産試験場 外山分場(2008年5月撮影)

 先週の記事で見たように、賢治は1924年5月8日、畑仕事に行く娘たちの姿に「ウクライナの舞手」を幻視して、「曠原淑女」を書きましたが、その半月ほど前の4月19日には、やはり同じくウクライナの曠原ステップを発祥地とする「コサック兵」を、作品に登場させています。この頃の賢治には、何かウクライナ方面に関心が向く要因でもあったのでしょうか。
 下記がその「水源手記」、すなわち「〔いま来た角に〕」の(下書稿(一)で、本文10行目に「コサック」、31~33行目に「コサック兵」が出てきます。

一七一
   水源手記
               一九二四、四、一九、
帽子をそらに抛げあげろ
ゆるやかな準平原の春の谷
月夜の黒い帽子を抛げろ
  ―ところがそらは
   荒れてかすんだ果樹園だ…
魔法の消えた鳥のやうに
帽子が落ちれば
またその影も横から落ちて
こんどはおれが
月夜の黒いコサックになる
  ―かれくさや潅木のなだらを截る
   このうつくしい小流れの岸…
一梃の白い手斧が
水のなかだかまぶたのなかだか
ひどくひかってゆれてゐる
ミーロがそらのアカシヤばやしではたらいてゐて
ねむたくなっておとしたのだらう
  ―beside the bubbling brook―
いま来た角に
やまならしの木がねむってゐる
雄花も紐をふっさり垂れてねむってゐる
そんならここへおれもすはらう
銀の鉛筆、青じろい風
熟した巻雲のなかの月だ
  ―アカシヤばやしのうしろの方で
   苹果がぼんやり腐ってゐる…
風…とそんなにまがりくねった桂の木
…睡たい薄荷はすなはち風だ…
低原(のはら)の雲はもう青ざめて
ふしぎな縞になってゐる
  …コサック…
  …コサック…兵…
  …コサック…兵…が
       …兵…が…駐屯…
         …が…駐屯…する…
           …駐屯…する…
               する…
またねむったな、風…骨、青さ、
どれぐらゐいまねむったらう
雲がまるで臘で鋳たやうになってゐるし
落葉はみんな落した鳥の羽に見える
  …もう鉛筆をもてない
   おれははんぶん溶けてしまはう
   このうゐきゃうのかほりがつまりそれなのだ
   どこかで 鈴が鳴ってゐる
    峠で鈴が鳴ってゐる
     峠の黒い林のなかで
      二人の童子が鈴を鳴らしてわらってゐる
       赤衣と青衣…それを見るのかかんがへるのか…
睡ってゐた ちがったことだ 誰かゞ来てゐた
青い星が一つきれいにすきとほってゐる
おれはまさしくどろの木の葉のやうにふるえる
風がもうほんたうにつめたく吹くのだ

 この1924年4月19日は土曜日で、賢治は農学校の勤務を終えると、おそらくそのまま汽車で盛岡へ行き、盛岡からは月夜の山道を一人で歩いて、「外山高原」へと向かったのです。

 この翌日の4月20日(日)には、外山高原にある「岩手県種畜場」で、周辺の村々の馬を対象とした「種馬検査」が行われることになっていました。おそらく賢治は、ここに集う何百頭という馬たちの晴れ姿を見るために、前夜からはるばる夜道を歩き通して、高原にやって来たのです。この時の賢治の行程や種馬検査については、池上雄三氏の『宮沢賢治 心象スケッチを読む』(雄山閣, 1992)に、詳しい調査研究があります。

 賢治がこの道中で作った作品は、19日の夜間の「〔どろの木の下から〕」と「〔いま来た角に〕」、20日の未明の「有明」と「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」、そしてメインイベントたる20日の昼間の種馬検査における「北上山地の春」で、見事な連作を成しています(「外山詩群」参照)。

 池上雄三氏の調査によると、この4月19日の夜は月齢14.8の満月で、19日の盛岡の天候は「快晴」、夜11時頃から少し雲が出たものの、20日は朝から「晴れ」だったということです。
 当時27歳の賢治ですが、山中で少し仮眠をとったとは言え、明かりも持たずに一人で山道を歩き抜くバイタリティには、感服のほかありません。

 さて、冒頭の「水源手記」に戻ると、これは4月19日の深夜の情景と思われますが、賢治は月夜の山道に怪しい影を落とす自分の姿を、「こんどはおれが/月夜の黒いコサックになる」と記しています。
Fedir_Stovbynenko_-_Kozak-bandyryst_(1890).jpg 「コサック」というのは、15世紀後半頃からウクライナの曠原ステップ地方で活躍した武装民のことで、もとはヨーロッパから流れてきた没落貴族や、遊牧民の盗賊などに端を発するということです。草原地帯で略奪行為やイスラム教徒との戦闘を行っていましたが、16世紀以降はこの地域を支配した様々な権力者から公認され、軍団として保護/利用されていくことになります。(右画像はウィキメディアコモンズより、コサック兵の扮装)

 19世紀になるとロシア帝国は、上記のウクライナ・コサックをモデルとした軍団を、シベリア、中央アジア、沿海州など帝国版図の各地に駐屯させ、領土の防衛を図ります。これが、ロシア・コサックです。
 1904年~1905年の日露戦争では、ロシア各地から動員されたコサック兵が、鴨緑江や旅順などの戦場で日本軍と対峙し戦闘を繰り広げましたので、日本人にも馴染み深い存在となりました。

20220417a.jpg ちなみに、1918年に東京帝国劇場で上演された宝塚少女歌劇の脚本集(右画像は国会図書館デジタルコレクションより)には、歌劇「コサックの出陣」という一幕物が収録されていて、当時の日本人が意外にも「コサック兵」に親しみを感じていた様子がうかがわれます。
 ウクライナあたりと思しき村の秋祭りの晩、地元の娘たちがコサック兵の若者たちに声をかけて、一緒に踊ったり旅芸人の出し物を楽しんだりしていたところ、敵が攻めてきたという報せがあり、コサック兵は勇ましく出陣して、娘たちは兵士に歌でエールを送る、という素朴な内容です。劇中の合唱では、「廣野の草は枯れたのに/赤い野バラが唯一ツ/ふるへながらに咲いて居る/恋頃夜頃/コサツクお前はよい殿御」とか、「あれ聞こゆる進軍ラツパ/御国の御為に尽すは今よ/世界に聞こへしコサツク騎兵/馬のたてがみ打顫はせて」などと歌われており、日本人にとってコサック兵は十数年前に戦った敵だったはずなのに、好意的に讃える内容なのが面白いところです。
 「コサック兵と娘たちの踊り」というのは、先日の記事ご紹介した映像の、7分14秒以後のような感じだったのでしょうか。

 ところで「水源手記」には、後半にもう一度、下記のような幻想的な形でコサック兵が現れます。歩き疲れた賢治は睡魔に襲われ、夢かうつつかという境目のあたりで、このような体験をしたのでしょう。

  …コサック…
  …コサック…兵…
  …コサック…兵…が
       …兵…が…駐屯…
         …が…駐屯…する…
           …駐屯…する…
               する…
またねむったな、風…骨、青さ、
どれぐらゐいまねむったらう

 作品前半で、自分のことを「コサックになる」と意識していたことが心の底にあったので、入眠時幻覚においてもそのモチーフが顔を出したのかと思われます。「…コサック…コサック…」という音が、まるで兵隊の足音のように迫って来て、また通り過ぎて去っていくような、不思議な視覚効果のあるテキスト配置です。

 さて、この後に続く「有明」や「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」も、とても魅力的な作品なのですが、ここではとりあえず、千原英喜さんが後者に作曲した合唱曲のご紹介にとどめておきます。

混声合唱曲「東の雲ははやくも蜜のいろに燃え」

女声: LUMi、VY1、Mew、初音ミクV4X(Original)
男声: VY2、KAITO V3(Straight)
ピアノ: Ivory II Steinway D Concert Grand

 そして一晩の徒歩旅行の末に、ついに外山高原の種畜場に到着した賢治は、まばゆい光のもとに集まった何百頭もの馬を目にして、「北上山地の春」を書きます。

七五
   北上山地の春
               一九二四、四、二〇、
   1   
雪沓とジュートの脚絆
白樺は焔をあげて
熱く酸っぱい樹液を噴けば
こどもはとんびの歌をうたって
狸の毛皮を収穫する
打製石斧のかたちした
柱の列は煤でひかり
高くけはしい屋根裏には
いま朝餐の青いけむりがいっぱいで
大迦藍カセードラルのドーム(穹窿)のやうに
一本の光の棒が射してゐる
そのなまめいた光象の底
つめたい春のうまやでは
かれ草や雪の反照
明るい丘の風を恋ひ
馬が蹄をごとごと鳴らす

   2   
浅黄と紺の羅沙を着て
やなぎは蜜の花を噴き
鳥はながれる丘丘を
馬はあやしく急いでゐる
 息熱いアングロアラヴ
 光って華奢なサラーブレッド
風の透明な楔形文字は
ごつごつ暗いくるみの枝に来て鳴らし
またいぬがやや笹をゆすれば
 ふさふさ白い尾をひらめかす重挽馬
 あるひは巨きなとかげのやうに
 日を航海するハックニー
馬はつぎつぎあらはれて
泥灰岩の稜を噛む
おぼろな雪融の流れをのぼり
孔雀の石のそらの下
にぎやかな光の市場
種馬検査所へつれられて行く

   3   
かぐはしい南の風は
かげらふと青い雲滃を載せて
なだらのくさをすべって行けば
かたくりの花もその葉の斑も燃える
黒い廐肥の籠をになって
黄や橙のかつぎによそひ
いちれつみんなはのぼってくる

みんなはかぐはしい丘のいたゞき近く
黄金のゴールを梢につけた
大きな栗の陰影に来て
その消え残りの銀の雪から
燃える頬やうなじをひやす

しかもわたくしは
このかゞやかな石竹いろの時候を
第何ばん目の辛酸の春に数へたらいゝか

 こういう作品を読むと、賢治は本当に馬が好きだったのだなあということを、あらためて実感します。

 この「北上山地の春」を、賢治は後に改作して、イッポリトフ=イワーノフ作曲の組曲《コーカサスの風景》の第4曲「酋長の行進」の旋律に乗せ、歌曲「牧馬地方の春の歌」としました。

  牧馬地方の春の歌

風ぬるみ 鳥なけど
うまやのなかのうすあかり
かれくさと雪の映え
野を恋ふる声聞けよ
白樺も日に燃えて
たのしくめぐるい春が来た
わかものよ
息熱い
アングロアラヴに水色の
羅紗を着せ
にぎやかなみなかみにつれて行け
     雪融の流れに飼ひ
     風よ吹き軋れ青空に
     鳥よ飛び歌へ雲もながれ
水いろの羅紗を着せ
馬をみなかみに連れ行けよ

 この歌を初代 Vocaloid の Meiko や Kaito に歌わせ、オーケストラに Roland 社のサウンドキャンバスを使った演奏が、下記です(今となっては古めかしい音源ですが……)。
 イッポリトフ=イワーノフの「酋長の行進」全曲を打ち込んであるので、間奏の部分が長くなっていますが、そのかわり最後に歌が再登場してからは、雪国の遅い春がいっせいに咲き誇るように、賑やかな盛り上がりになります。

 ロシアの作曲家イッポリトフ=イワーノフは、若い頃にコーカサス地方の音楽院に赴任していた時期があり、その頃に現地で調査した民族音楽を、モスクワに転任してからまとめて作曲したのが、4曲からなる管弦楽組曲《コーカサスの風景》でした。
 賢治は、その第4曲「酋長の行進」のSPレコードを持っていて、愛聴していたということです。今では「酋長」という言葉はおもに「非文明的」な部族に対して使われるので、ここには今一つしっくりきませんが、おそらくこれは「コサック兵の頭領」のことではないでしょうか。

 賢治の歌曲の主題は、春の高原に集う馬たちの壮観ですが、岩手県は現在も、北海道に次いで全国二位の馬産地であり、またその昔から伝統的に、良質の「南部馬」の産地として知られていました。
 岩手で馬を飼う農家の人々が、まるで家族のようにその馬を大事にする姿勢は、人と馬が一つ屋根の下で暮らす「南部曲がり家」という家の造りにも表れていますし、また信仰や芸能としての「チャグチャグ馬コ」や「南部駒踊り」も、この地方の人々にとって馬という生き物が、いかに大切な存在かということを示しています。
 このような岩手に生まれ育った宮澤賢治が、無類の「馬好き」になったのも自然なことと思われますし、またこの旧南部藩領地の北上山地の高原こそが、日本における「牧馬地方」と呼ぶにふさわしい場所と言えるでしょう。

 一方、先週の「ウクライナの舞手」でも触れたように、世界的・歴史的な視野で見ると、人類が初めて馬を家畜化したのは、現在のウクライナ地方に広がる「ポントス・カスピ海ステップ」と呼ばれる草原においてでした。早くから家畜化された牛や羊と違って、野生の馬は荒々しく容易に人を寄せつけませんが、人間はこの曠原ステップ地方に大きな群れを作っていた野生の馬に徐々に接近し、紀元前4000年頃には手綱を付けて乗りこなすようになったのです。
 馬に騎乗することによって、人間は遙か地平線の彼方までも1日で移動できるようになり、また部族間の戦争において騎馬隊は、画期的な戦力となりました。さらにまもなく、馬に牽かせた車輪付きの乗り物も隊列に加わり、戦場での威力はいっそう増しました。
 このようにして、「馬」と「車輪」を操る圧倒的な力を獲得した曠原ステップ地方の人々は、自らの「言語」とともに、西は全ヨーロッパへ、東は中央アジアへ、南東はペルシャからインドへと広がり、今では30億人が話す「インド・ヨーロッパ語族」の祖となったのです。

 2010年にアメリカ考古学協会賞を受賞した、デイヴィッド・アンソニー著『馬・車輪・言語』(筑摩書房)には、このあたりの領域における近年の研究成果が記されています。
 「乗馬」という技術そのものは、化石になるわけでもなく、出土する馬の骨格からわかるわけでもないので、従来その研究には困難が付きまとっていましたが、著者はユーラシア大陸各地の遺跡から出た馬の歯を徹底的に調査して、そこに手綱を付けるための「ハミ(銜)の痕」があるか否かを分析しました。その結果、上述のように紀元前4000年頃の「ポントス・カスピ海ステップ」という時代と場所が、人類による馬の家畜化の起源として、あらためて浮かび上がったのです。

馬・車輪・言語(上) 馬・車輪・言語(上)
デイヴィッド・W. アンソニー (著), 東郷 えりか (翻訳)
筑摩書房 (2018/5/29)
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 私も数年前にこの本を読んで、大草原の歴史スペクタクルに胸を躍らせ、またその地図をワクワクしながら眺めたものでしたが、最近ふと気になって本を再び取り出してみると、その遺跡群の地名の中には、「マリウポリ」「ハリコフ(ハルキウ)」「ザポリージャ」など、最近のウクライナ戦争のニュースでたびたび耳にするものも多く、あらためて胸が痛みました。

 ただそれでも、日本の伝統的「牧馬地方」の代表が岩手県だとすれば、世界最古の「牧馬地方」は、いま戦禍のために世界中の人々の目が注がれている、「ポントス・カスピ海ステップ」のあたりに違いないのです。
 一方、コーカサス地方は、ウクライナの東隣に位置しますが、その中でも「北コーカサス」にはやはり広大なステップが広がり、上記のように人類と馬の出会いがあった場所の一角でした。
 もちろん賢治は、上のような最近の研究成果を知っていたはずはありませんが、しかしコーカサスやコサック兵の故郷が、古くから世界的な馬の名産地であることは、きっと知っていただろうと思います。「牧馬地方の春の歌」の旋律を、《コーカサスの風景》という組曲の中から選び、なおかつ特に「(コサック兵の)頭領の行進」という曲から採ったというのは、偶然ではなかったに違いありません。

 賢治は、世界史的元祖「牧馬地方」の旋律に乗せ、日本の「牧馬地方の春の歌」を歌ったのです。