外山を歩く

 朝は少しゆっくりしてから、盛岡駅前を9時40分発のJRバス「早坂高原線」に乗りました。現在、公共交通機関で外山に行くには、このバスが唯一の手段のようです。こちらに掲載されている時刻表のように、盛岡から龍泉洞まで、1日4往復の路線です。また、こちらのすごいページからリンクをたどると、この路線のすべての停留所近辺の写真を見ることができ、私も今回の計画を立てるにあたって、とても参考にさせていただきました。

 駅前のバス乗り場に行くと、さすがに連休だけあってすでに長い行列ができていて、発車時には観光バス用の大型車両が満員です。バスは、開運橋を渡り、北山の清養院の前も通り、盛岡市の北へ抜けていきます。
 しだいに山道に入り、「玉山大曲」というバス停を過ぎると、道はつづら折りのカーブになり、時々後方に遠く盛岡の市街が見える所もありました。作品「有明」に描かれたのは、このような場所のどこかで夜明け頃に、賢治が後ろを振り返り、盛岡の街を眺めた情景なのかと思います。

 10時半頃に「外山ダム森林公園」のバス停に着き、私はここで降りました。大勢の乗客のうちでも、外山で降りるのは私一人だけで、大半の人は「岩洞湖」や「龍泉洞」まで行くようです。
 さて、「外山ダム」というのは下の写真のような感じで、高原の西の端の部分に、ダムによる人造湖ができています。このダムができたのは1943年ということですから、もちろん賢治の時代には、まだ存在していません。

外山ダム

 つまり、外山があれほど好きだった賢治も見ることのなかった景色ですが、湖の周りの道を行くと、白樺林の合間から湖水が見えて、これはこれで風情のあるものです。

 ここから国道455号線を東に向かって歩いていったのですが、途中、道ばたの「大野平湿原」というところにミズバショウの群落があったり・・・、

大野平湿原のミズバショウ

牛がいたり・・・、

外山の牛

茅葺きの農家があったり・・・、などなど、さすがに周囲の景色を眺めているだけでも興味は尽きません。あたりの山々は、なだらかな丘陵状をなしていて、木が伐採された牧草地もあちこちに広がっています。

 さて、そうこうするうちに、「岩手県畜産試験場外山分場」に着きました。

岩手県畜産試験場外山分場

 ここは、1879年(明治12年)に、後の盛岡農学校の獣医学舎が設置された場所だということで、敷地内には「岩手県立盛岡農業高等学校 発祥の地」との石碑も建っていました。賢治のいた花巻農学校の、年の離れた兄貴分ですね。

 中を一回りして、また国道を東へ歩いていましたが、ふと足もとの小さな水たまりを見ると・・・、

おたまじゃくし

体長せいぜい1cmくらいの、いま孵化したばかりのようなオタマジャクシが、何百匹という単位でひしめきあって泳いでいました。賢治による外山の描写には、よく「つるんだ蟇」が出てきますが、賢治より季節が遅いせいか、その少し後の段階まで進んでいるわけですね。

 この後、外山小学校の前も、盛岡市役所藪川支所の前も過ぎ、「蛇塚」のバス停に着いたのが、午後1時頃でした。外山ダムからは、約8kmです。ここからは国道を離れて右折して「開拓農道蛇塚線」に入り、「北上山地の春」に描かれた、「種馬検査所」のあったあたりを目ざしてみます。
 「大石川」という小さな川と交叉しながら遡りながら、農道はやや開けた牧草地を進みました。そして、池上雄三氏の『宮沢賢治 心象スケッチを読む』(雄山閣)や、『外山御料牧場沿革誌』(国会図書館近代デジタルライブラリー)を参考にすると、下のあたりの平地のどこかに、その昔には御料牧場の事務所があり、「種馬検査所」もあったのだろうと思われます。

蛇塚

 「種馬検査」とはどういうものかということについては、「牧馬地方の春の歌」の説明の項もご参照下さい。今は、当時を偲ばせる建物は残っていないようですが、賢治がここを訪れた1924年4月20日、着飾ったたくさんの馬たちが、農家の人々に連れられてこのあたりに集まってきて、「にぎやかな光の市場」の活況を呈していたと思うと、感慨もひとしおです。
 私はここで、「牧馬地方の春の歌」も聴いてみたくなります。

「牧馬地方の春の歌」(bokuba_v1.mp3) 4.44MB


 さて、ここからは、折り返して帰路につきます。まだ帰りのバスまではしばらく時間があったので、道ばたで腰掛けて本を読んで、午後3時すぎに蛇塚停留所から盛岡行きのバスに乗りました。
 ただ、このバスで直接盛岡までは帰らずに、途中の「大堂」という停留所で降ります。当時、賢治が歩いて外山へやって来た時に通った旧道というのは、現在はほとんど廃道となっているようですが、これも池上雄三氏の『宮沢賢治 心象スケッチを読む』によれば、この大堂のあたりに、その旧道が比較的わかりやすい場所があるというのです。
 はたして、大堂のバス停のすぐ脇には、国道から南側の沢の方に降りていく細い道があり、それは最初は舗装されていたものの、何百mか行くと藪の中の雑草の生い茂る道となり、さらに行くとふと目の前には、「野田街道一里塚」という立て札と盛り土が現れました。

野田街道一里塚

 以下、「盛岡市指定史跡」と書かれた上の立て札の説明文から。

 盛岡-野田間の野田街道の一里塚は、城下鍛冶町の原標を起点とし、6町1里制によって7里ごとに築造されたので、七里塚ともいわれ、その築造年代は慶長15年(1610)頃と伝えられている。
 野田街道は塩の道として利用され、内陸と沿岸地方を結ぶ重要な街道のひとつであった。街道は険しい山道を通るため牛が使われ、街道筋には牛方宿や水飲場などがあり、交易の場としても使われていた。

 ということで、賢治もおそらくこの道を通ったのでしょうし、池上雄三氏は、このもう少し先で、「〔どろの木の下から〕」に出てくる「水きね」の古くなったものを見つけたということです。

 しかし私は先を急がないといけないのでここから引き返し、また国道に出てバス停一つ分を歩き、「外庄ヶ畑」というところから、左に折れます。
 ここから2kmほど南に、「米内浄水場」があって、その名物の桜が、まだ見られるらしいのです。

 浄水場に着いた頃にはもうかなり日は傾いていましたが、下写真が米内浄水場の、「ヤエベニシダレヒガン群」の桜です。

米内浄水場のしだれ桜

 場内は、上のような見事なしだれ桜が林のように立ち並び、かなり壮観を呈していました。時おり風が吹くと、花吹雪が舞い起こっていました。
 この浄水場は1934年(賢治の死の翌年)に完成したという歴史ある施設て、昭和初期らしいレトロな建物も、なかなか素敵でした。ここで、外山方面から流れてきた川の水は、浄化されて盛岡市の上水道となるのです。

 桜を堪能して浄水場を出ると、JR山田線の「上米内」駅が目の前です。

JR上米内駅

 また駅のベンチでまたしばらく本を読んでから、17時47分に盛岡行きの列車に乗り込みました。


 そして、ホテルの部屋に戻っても、今日は一日ぜいたくな時間をすごしたという感覚が残っています。光あふれる外山の自然、なだらかに続く丘々の眺望は、深く私の印象に刻まれました。