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ウクライナの舞手

 数日前、ロンドンのナショナル・ギャラリーが、従来「ロシアの踊り子たち」と呼ばれてきたフランス印象派エドガー・ドガの作品の名称を、「ウクライナの踊り子たち」に変更すると発表して、話題になりました。(下は、ナショナル・ギャラリーによってパブリックドメインに帰せられている、同作品の画像です。)

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エドガー・ドガ「ウクライナの踊り子たち」("The National Gallery"より)

 この間のウクライナ情勢を受けて、たとえば日本の外務省やマスコミが、従来はロシア語読みで慣用してきた「キエフ」という呼称をウクライナ語による「キーウ」に変更したように、他国がこれまでロシアとの間で曖昧にしてきた「ウクライナのアイデンティティ」を、正当に尊重しようという動きの一環なのでしょう。

 上のドガの絵では、右手前から左奥に向けて並ぶ3人の娘の踊りが、厚く塗り重ねられたパステルで、ダイナミックに描かれています。特に手前の娘の後ろ髪の飾りに、ウクライナの国旗の色である黄色が見えるのが、印象的です。

 さて、賢治ファンの皆様はご存じのように、「曠原淑女」には、「ウクライナの舞手のやうに……」という描写が出てきます。

九三
   曠原淑女
               一九二四、五、八、
日ざしがほのかに降ってくれば
またうらぶれの風も吹く
にはとこやぶのうしろから
二人のおんながのぼって来る
けらを着 粗い縄をまとひ
萱草の花のやうにわらひながら
ゆっくりふたりがすすんでくる
その蓋のついた小さな手桶は
今日ははたけへのみ水を入れて来たのだ
今日でない日は青いつるつるの蓴菜を入れ
欠けた朱塗の椀をうかべて
朝の爽やかなうちに町へ売りにも来たりする
鍬を二梃たゞしくけらにしばりつけてゐるので
曠原の淑女たちよ
あなたがたはウクライナの
舞手のやうに見える
  ……風よたのしいおまへのことばを
    もっとはっきり
    このひとたちにきこえるやうに云ってくれ……

 このテキストは、『新校本宮澤賢治全集』では、「〔日脚がぼうと広がれば〕」と「〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕」という二つの?作品の「下書稿(一)」として位置づけられており、「本文篇」には掲載されていません。最近の文庫本などで出ている賢治詩集にも、これはあまり収められていないのではないかと思うのですが、私が高校生の頃には、上記のテキストで「曠原淑女」として、国語の教科書で親しむ恩恵にも与りました。
 入念な推敲の末に定稿用紙に書かれた「〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕」の形の方が、女性たちの動きの描写は詳しくなっていて、これはこれで面白いのですが、この初期形の「曠原淑女」の、「働く女性への讃歌」という趣きや、賢治が最後で「風」に託した(彼女たちへの)祈りというような要素は影を潜めてしまっており、今の若い方々にとってこの「曠原淑女」を味わう機会が少なくなっているのは、ちょっと残念な気もします。

 ところで高校生の私にとっては、「ウクライナの舞手のやうに……」という賢治の描写は、世界地図の遠い彼方を連想させてとてもロマンチックではあったものの、具体的にどんな格好をした舞手なのかは、想像もつきませんでした。
 この積年の謎に対して、まず私に目に見える回答を与えてくれたのは、『「春と修羅」第二集研究』(宮沢賢治学会イーハトーブセンター, 1998)という本に掲載されていた、写真やイラストでした。

「春と修羅」第二集研究 「春と修羅」第二集研究
宮沢賢治学会イーハトーブセンター (著)
思潮社 (1998/6/1)
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 この本は、宮沢賢治学会イーハトーブセンターが1992年から1995年にかけて4回にわたり行った夏季特設セミナー「〈春と修羅 第二集〉をめぐって」の報告集なのですが、その中に1993年のセミナーで実演された「曠原淑女」の扮装が、写真付きで紹介されているのです。

 まず下記が、セミナーに際して「ウチの姉たちがこんな格好で畑に行きましたよ」と証言をして下さったという、藤原義孝さん(宮沢賢治記念館・元運営審議委員長)によるイラストの一部です(同書p.154)

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 そして、この藤原さんの監修によって、セミナーで実演された「曠原淑女」のいでたちの写真が、下記です(同書p.151)。

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 これは確かになかなか面白い格好で、このような女性が連れ立って歩いて来るのを見た賢治が、その様子に興味を惹かれて作品にしたのも、当然のことと言えるでしょう。

 ということで、賢治が見たであろう「曠原淑女」の姿は、上の夏季特設セミナーの記録によってわかったのですが、それでは何故これが、「ウクライナの舞手のやう」なのでしょうか?
 冒頭のドガの絵と見較べてみても、どうもぴんと来ません。

 そこで、YouTubeで「ウクライナ民族舞踊」の動画をあれこれ視聴して、上の写真の姿を連想させるものが何かないか、調べてみました。
 その中で行き当たった下の動画は、「ウクライナ民族音楽舞踊団神戸公演」を収録した、2010年10月のものです。

 ご覧になって、どう感じられたでしょうか。

 私が思うには、センターで踊っている娘さんが頭に着けている「花冠」(これはウクライナの民族衣装で「ヴィノク」と言うのだそうです)から長く後ろに垂れている色とりどりの「刺繍リボン」が、上の「曠原淑女」で首のあたりから後ろに出ている「鍬の柄」の部分に、相当するのではないでしょうか。
 夏季特設セミナーにおける「曠原淑女」のモデルさんの写真でも、鍬の柄はかなり長く、膝よりも下まで後ろに延びていますが、ウクライナの娘さんのヴィノクのリボンも同じくらいの長さです。とりわけ、回転する踊りが続く時には、リボンが遠心力で体の軸に対して一定の角度が付いて伸びるので、さらによく似た感じになると思います。

 まあ、真相については賢治本人に聞いてみるほかありませんが、とりあえず個人的には、賢治の言う「ウクライナの舞手」をこのように解釈してみているところです。

 ちなみに、英語では「ウクライニアン・リース」とも呼ばれる「ヴィノク」は、ウクライナで未婚の女性がお祭りや聖なる日に身に着けるもので、夏至の祭りの時に娘たちは灯した蝋燭とともに自分のヴィノクを川に流し、その流れ方によって将来の結婚を占ったというロマンチックな伝承があります。2014年のウクライナ騒乱以後、ヴィノクを着用する若い女性は増えているということで、これもウクライナのアイデンティティに対する意識が、より高まっていることの表れなのでしょう。

 ドガの絵でも、とりわけ中央の女性の頭に、美しいヴィノクを見ることができます。

 黒海とカスピ海の北側に広がる「ポントス・カスピ海ステップ」と呼ばれる草地は、「チェルノーゼム」という肥沃な黒土に覆われ、現在も小麦の一大産地になっています。歴史を遠く溯ると、この平原は人類が紀元前4000年前後に、野生の馬を最初に家畜化し、騎乗した場所だったと考えられています。馬に乗って地の果てまで疾走し、また馬に引かせる車輪の付いた乗り物を操る、この地で生まれた圧倒的な文明は、この草地から西はヨーロッパ全土へ、東は中央アジアへ、南東はペルシャからインドへと、広がって行きました。
 このステップは、今や世界で30億の人々が話す「インド・ヨーロッパ語族」の、遙かな原郷と考えられているのです(デイヴィッド・アンソニー『馬・車輪・言語』筑摩書房)。

 賢治が、「曠原」という呼称で思いを馳せたこの地に、また平和な日々が戻ることを、心から願っています。

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ポント・カスピ海ステップ(ウィキメディア・コモンズより)