かしこにあらずこゝならず

 文語詩「〔けむりは時に丘丘の〕」は、賢治と宣教師ミス・ギフォードが、汽車の中で交わした会話に基づいており、下記の[賢治][ギフォード]という表示は、それぞれの発言の、推定される発話者を示しています。

けむりは時に丘丘の、     栗の赤葉に立ちまどひ、
あるとき黄なるやどり木は、  ひかりて窓をよぎりけり。

(あはれ土耳古玉タキスのそらのいろ、かしこいづれの天なるや)[賢治]
(かしこにあらずこゝならず、 われらはしかく習ふのみ。)[ギフォード]

(浮屠らも天を云ひ伝へ、   三十三を数ふなり、
 上の無色にいたりては、   光、思想を食めるのみ。)[賢治]

そらのひかりのきはみなく、  ひるのたびぢの遠ければ、
をとめは餓えてすべもなく、  胸なるたまをゆさぶりぬ。

 ところで、この対話が行われた1922年12月とは、賢治の妹トシが逝去した同年11月27日の直後であり、賢治がこの時「天」に関して対話を行ったとすると、その場所を「死んだ妹の転生先」として意識していたであろうことは、疑いようがありません。この作品の奧に秘められている、賢治のそのような痛切な思いを読み解いてみようという観点から記したのが、本年1月の「ひるのたびぢの遠ければ…」という記事でした。

 その後、あらためてこの作品を読むうちに、ギフォードがこの時賢治に投げかけた「かしこにあらずこゝならず、われらはしかく習ふのみ。」という言葉が、後々から見ると賢治にとってどれほど深い意味を持つものであったかということをしみじみ感じるようになり、その辺の内容について、ここにまた少し書いてみようと思います。

 まずは、各発言の意味するところを、順に見ておきます。
 上にも示しているように、この作品における二人の対話は、「あはれ土耳古玉タキスのそらのいろ、かしこいづれの天なるや」という賢治の言葉から始まります。
 空の色を鉱物に喩えて、「土耳古玉タキス」などと形容するのは賢治ならではの表現ですから、もし本当にこのように言ったのなら、これは賢治の発言と解釈する以外にありえません。では、これに続く「かしこいづれの天なるや」という言葉は、いったいどういう意図によるものだったのでしょうか?
 その文字どおりの意味は、「あそこはどの天なのか?」という単純なものですが、ここで言われている「どの天」というのは、いったいどういう趣旨なのでしょうか?

 これについて理解するために、あらためて当時の賢治の「天」に対する思いを振り返っておきます。
 彼は「永訣の朝」では、「どうかこれが天上のアイスクリームになつて/おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」と願い、また「風林」では、トシが「光の紐やオーケストラ」のある世界にいる様子を思い描いていることに表れているように、彼女が死後に「天」に転生することを、心から願い、信じていました。「青森挽歌」や「宗谷挽歌」では、もしかしたら彼女が天界往生できていないかもしれないという疑念に苛まれることもありましたが、しかし基本的にはこの頃の賢治にとって、「天」とはすなわち「愛するトシの転生先」だったのです。
 一方、「オホーツク挽歌」では、海と空の青を見て、「それらの二つの青いいろは/どちらもとし子のもつてゐた特性だ」と回想し、「とし子はあの青いところのはてにゐて/なにをしてゐるのかわからない」と、その青色の彼方にトシの存在を想像します。

 まさにこのような時期に、賢治は車窓から、「土耳古玉タキスのそらのいろ」を見たわけです。やはりその青は、否応なく「とし子のもつてゐた特性」を連想させたでしょうし、彼はその「そら(天)」に転生しているはずの彼女の存在を、思わずにいられなかったでしょう。
 その上で彼が発したのが、「かしこいづれの天なるや」という疑問だったわけです。

 賢治がこの「天」を、「トシの居場所」と捉えた上で、さらに「かしこいづれの~?」という疑問を心に抱いているのだとすれば、それは「トシが今いるのは、たくさんの階層がある天のうちの、どの層なのだろうか?」という風に、トシに関わる具体的な意味に解するのが自然だと思います。すなわちこれは、愛するトシが現に置かれている境遇を案じて発せられた言葉だったと、私は考えます。
 「天界」ならばどの階層であっても、「人間界」に比べれば遙かに快適で美しいのでしょうが、それでも下方の「欲界」と最上層の「無色界」とでは大きな較差があって、そこで暮らす天人の境遇にも相当の違いがあるに違いありません。賢治が、たとえトシが天にいると信じていたとしても、それでもさらにその身の上に心を配るのは、無理からぬことと思います。

 それに加えてもう一つ、この賢治の疑問に表れているのは、当時の賢治が亡きトシに関して、「その行き先を、現実的・具体的な場所において探さずにいられない」という、やむにやまれぬ気持ちを抱いていたという事実です。
 彼はトシの居場所を、仏教的な意味での「天」であると信じようとする一方で、「風林」では「木星のうへ」かと思ったり、「白い鳥」では岩手山麓を飛ぶ鳥にその姿を見たり、「宗谷挽歌」では暗い海の底ではないかと心配したり、「オホーツク挽歌」では水平線の果てにいると考えたり、「噴火湾(ノクターン)」では駒ヶ岳にかかる雲の中に隠されているのではないかと思ったり、とにかくこの現実世界の中のどこかに、彼女の存在を探さずにはいられなかったのです。

 一般に、大切な人の喪失後に現れるこのような行動は、心理学的には「探索行動」と呼ばれるものであり、賢治に見られる探索行動については、すでに「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」(『宮沢賢治研究Annual』Vol.26, 2016)や「「青森挽歌」における二重の葛藤」(『言語文化』Vol.34, 2017)などで、考察してみました。
 思えば、賢治が1923年夏に行った樺太旅行そのものが、トシを求めて行った壮大な「探索行動」だったとも言えるわけです。

 そして、1922年12月のことと推定される、この文語詩「〔けむりは時に丘丘の〕」にも、賢治の「探索行動」的な側面は表れているわけです。亡き妹が「天」に昇ったと信ずるのなら、その居場所は現世の我々から見えるはずはなく、またその具体的状況については知る由もないのに、それでも「土耳古玉タキスのそらのいろ」を見ると、「かしこいづれの天なるや」という形で、そこを現実的なトシの行き先として、自らの思いを馳せる対象とせずにはいられないのです。

 そしてまさにこの時、ギフォードの「かしこにあらずこゝならず、われらはしかく習ふのみ。」という言葉が、賢治に告げられたのです。
 これは、下書稿(一)では、「かしこにあらずこゝならず/たゞそのひとに起るてふ」となっていますが、これらの言葉が、新約聖書の「ルカによる福音書」第17章21節の、次のイエスの下線部の言葉に基づいているらしいことは、以前に「賢治と Miss Gifford の会話」という記事で述べたとおりです。

 二〇 かみくに何時いつきたるべきかをパリサイびとはれしとき、イエスこたへてひたまふ『かみくにゆべきさまにてきたらず。二一 また「よ、ここにあり」「彼処かしこにあり」と人々ひとびとはざるべし。よ、かみくになんぢらのうちるなり』(岩波文庫『文語訳 新約聖書』より)

 この下線部をどう解釈すべきかという問題は、昔からキリスト教神学者を苦しめてきたということで(たとえば「「神の国」と「天の国」と「天国」との比較」参照)、この引用箇所だけを読むと、「神の国(天)」は人間の心の中にあるもので、現実に「此処」とか「彼処」という形で目に見えるものではないのだと解釈でき、その客観的実在性が否定されているようにも感じられます。一方、聖書の他の箇所では、世の終わりの最後の審判によって神の国が実際に到来し、死者が復活するなどと繰り返し述べられているわけですから、ここでその未来における客観的実在性までが、否定されているわけではないはずです。
 ということで、一般的な解釈としては、「現時点では目に見える形では実在しておらず、それは各自の信仰の内にあるが、将来においては現実に到来する」ということになるでしょうか。

 ギフォードは、賢治の「かしこいづれの天なるや」という言葉を聞くと、おそらく「あそこに現実に見えている青い空が、宗教的な意味での「天」だなんて、この仏教徒の考えはあまりにも素朴すぎる実在論だ……」などと、違和感を覚えたのではないでしょうか。そこでこれに対して、イエスの言葉を引用する形で、「キリスト教における「天国」とは、もっと霊的で精神的なものだ」ということを、言おうとしたのだろうと思います。

 このギフォードの答えは、彼女の立場からは当然のものであり、また本来は賢治が信じる仏教も、「天」であれ「地獄」であれ、「他界」が現世の我々から具体的に目に見えるなどとは、毛頭考えていません。また賢治自身も、仏教の教理そのものに関しては、「十界互具」とか「一念三千」などという深遠で抽象的な思想も正しく理解していたわけですから、もしも彼がキリスト教徒に仏教の説明を行うとしたら、「あそこに実際に見えているのが仏教の天界です」などと言うはずはないでしょう。

 ただ、トシの死からある時期までの賢治においては、いくら仏教を理論的に正しく理解していても、事が「トシの行き先」に関わってくると、感情が理屈を越えてしまうことがあったのです。「倶舎論」等によれば天界は、肉眼で見えない超越的な彼方にあるのだと理論的には知っていても、トシに関しては、「此処にいるのだろうか」「彼処にいるのだろうか」と、現実世界における「探索」を行わずにはいられなかったのです。
 ちょうど「〔手紙 四〕」のチユンセのように、「チユンセはびっくりしてはね起きて一生けん命そこらをさがしたり考へたりしてみましたがなんにもわからない」という状態です。

 ここで、ギフォードの「かしこにあらずこゝならず/たゞそのひとに起るてふ」という言葉の意味するところが、もしも正しく賢治に伝わったならば、それは「〔手紙 四〕」における「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」という言葉と、同じほどのインパクトのあるものだったでしょう。これは、「此処」や「彼処」における他界の(=トシの)実在を否定し、すなわち探索行動などということはそもそも不可能で、それは信仰の問題だ告げているわけですが、しかしおそらくこの時の賢治は、まだこの言葉をそのようには受け取っていなかったのではないでしょうか。翌年になっても賢治は樺太への探索行動を行うからです。
 とは言えこのギフォードの言葉は、当時の賢治にも、何らかの深い感銘を与えたことだろうと思います。

 そして、賢治が心底から「かしこにあらずこゝならず」という認識を我が身に引き受けて、しかも心の安寧を取り戻すのは、これから約1年半後の「薤露青」において、「あゝ いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」と言えるようになった時だったのだろうと、私は思うのです。