賢治と Miss Gifford の会話

20211220a.jpg 先週届いた『賢治研究』第145号の巻頭には、富山英俊さんの論考「口語詩「〔あかるいひるま〕」と文語詩「〔けむりは時に丘丘の〕」でのキリスト教徒女性との対話」が掲載されていて、私はとても興味深く拝読しつつ、多くのことを学ばせていただきました。

 その標題のように、この論文は賢治の口語詩「〔あかるいひるま〕」およびそれと同じ題材による文語詩「〔けむりは時に丘丘の〕」に描かれている、賢治とアメリカ人女性との間で交わされた会話の内容について、考察するものです。

 まずは、口語詩「〔あかるいひるま〕」の方から見てみましょう。

あかるいひるま
ガラスのなかにねむってゐると
そとでは冬のかけらなど
しんしんとして降ってゐるやう
蒼ぞらも聖く
羊のかたちの雲も飛んで
あの十二月南へ行った汽車そっくりだ
Look there, a ball of mistletoe! と
おれは窓越し丘の巨きな栗の木を指した
Oh, what a beautiful specimen of that!
あの青い眼のむすめが云った
汽車はつゞけてまっ赤に枯れたこならの丘や
濃い黒緑の松の間を
どこまでもその孔雀石いろのそらを映して
どんどんどんどん走って行った
"We say also heavens,
but of various stage."
"Then what are they?" むすめは〔以下不明〕
〔一、二行不明〕
聖者たちから直観され〔以下不明〕
古い十界の図式まで
科学がいまだに行きつかず
はっきり否定もできないうちに
たうたうおれも死ぬのかな
いま死ねば
いやしい鬼にうまれるだけだ

 これは、1931年9月から1932年に至る賢治の療養期に書かれたと推定される作品ですが、病床の賢治はここで、「あの十二月南へ行った汽車」の中で、「あの青い眼のむすめ」と交わした会話を回想しています。会話の内容は英語で記されていて、賢治は実際この女性と英語で話をしたのかと思われます。
 "mistletoe"とは「ヤドリギ」のことで、会話を日本語にすると次のような感じでしょうか。

賢治「あそこを見て下さい、ヤドリギの毬が!」
むすめ「まあ、何てきれいな見本でしょう!」
……
賢治「私たちも『天』と言いますが、そこには様々な階層があるんです」
むすめ「その階層というのは、どんなものですか?」

 賢治と親しげに話す、この「青い眼のむすめ」がいったい誰なのか気になるところですが、これについては賢治自身が個人史をメモした「「文語詩篇」ノート」の1922年の項に、次のような記載があります(『新校本全集』第13巻(下)本文篇p.194)。

十二月 仙台ニ行ク車中 やどり木
   Miss Gifford    みかん、

 詩の描写にある「あの十二月南へ行った汽車」は、上の「十二月 仙台ニ行ク車中」の記述に合致していますし、「青い眼のむすめ」は当時の岩手県にさほど多くはいなかったと思われるところ、Miss Gifford という英米系の名前とも符合します。またどちらも話題に「やどり木」が出ていることからも、「〔あかるいひるま〕」で回想されているのは、ノートにある1922年12月の車中の出来事と見て、間違いなさそうです。
 鈴木健司氏の調査によれば、Miss Gifford ことエラ・メイ・ギフォードは、1887年にアメリカのニューヨーク州ウィルソンで生まれ、1920年に宣教師として来日し、1922年7月頃(推定)から1924年9月まで盛岡幼稚園に在任していて、少なくとも1923年には園長を務めていたということです。
 この車中が二人の初対面だったのか、それとも以前から面識があったのかは不明ですが、二人がお互いに相手の話に生き生きとした関心を示しつつ会話している様子が、印象的です。

 さらに「「文語詩篇」ノート」の1923年の項には、

雨中 Giffordを訪ふ

という記載もあり、賢治は翌年にも彼女を訪ねたことがわかります。
 すなわち、上記の汽車での邂逅は、単なる行きずりの関わりに終わったのではなく、賢治はその後も何らかの目的を持って、わざわざ花巻から盛岡まで彼女に会いに出かけたわけです。

 これまで、この賢治とギフォード嬢との会話が研究者によって注目されてきた要因の一つは、仏教徒とキリスト教徒が列車内で「天」について会話するという設定が、「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニと少女との「ほんたうの神さま論争」を彷彿とさせるからですが、その辺についてはまた後で考えてみることにして、ここでまず考えてみたいのは、二人が話題にしている「ヤドリギ」についてです。

20211223a.jpg ヤドリギは、他の樹木の枝に寄生する常緑樹で、日本にも欧米にも自生しています。特に、冬になって宿主の木が葉を落としてしまうと、寒そうな枝の間で常緑の毬状の塊が、人目を引きます(右写真はWikimedia Commonsより)。

 冬枯れの景色の中で、ヤドリギが青々と葉を茂らせる様子は、おそらく洋の東西を問わず「生命力の象徴」のように感じられたことから、様々な信仰の対象となってきました。
 ケルトや北欧の神話では、ヤドリギは「不死・活力・肉体の再生」のシンボルとされていますし、J.D.フレイザーによる大著『金枝篇』の端緒となる「金の枝」とは、実はヤドリギのことで、この書における文化人類学的な長い旅は、イタリアにおけるヤドリギ信仰をひもとくことから出発するのです。
 西洋で、クリスマス飾りの一つとしてヤドリギの枝が欠かせないのも、昔から同時期に行われてきたケルトの冬至の祭で、太陽の生命力の再生をヤドリギの力に托すという信仰から由来しているのでしょう。
 そして、「クリスマス飾りのヤドリギの下で、女性はキスを断れない(kissing under the mistletoe)」というのは、とてもロマンチックな風習ですが、列車内でヤドリギについて会話をしつつ、ギフォード嬢はもちろんのこと、きっと賢治も、このことは知っていたに違いありません。二人の間でこの話が出たかどうかはわかりませんが、信時哲郎さんは「もし車中でヤドリギの下でのキスの話が出たとなると、宗教論争もさることながら、若い男性と女性とが向かい合ってキスの話をしていたのであるから、見る人が見たら、国境を越えた恋人同士に思われたかもしれない」と評しておられ、私もまったく同感です。

 さて、日本に目を移すと、はるか万葉集の時代に、大伴家持は次のような正月の歌を詠んでいます。

あしひきの山の木末こぬれのほよ取りて挿頭かざしつらくは千歳ちとせ寿くとそ(巻十八・4136)

 ここで「ほよ」と呼ばれているのがヤドリギの枝のことで、この枝を髪に挿すことで長寿を祈るという風習が、古代日本にはあったのです。
 また平安時代に定められた「延喜式」では、践祚大嘗祭(天皇の即位式)で神に供える植物として、桧葉ひのきは真木葉まきのは弓弦葉ゆづるはなどとともに、「寄生やどりぎ」が挙げられているということで、これもやはり新たな天皇に生命力を宿すことを祈るものでしょう。(以上、東西のヤドリギ伝承は、居駒永幸「金枝――日英のヤドリギ崇拝――」参照)

 一方、賢治の作品を見てみると、まずは何と言っても「水仙月の四日」において、雪の中を歩いている子供の足元に雪童子がヤドリギの枝を投げ、その枝を持っていた子供は吹雪に巻かれても最後に助かる、という展開が印象的です。ここでもヤドリギは、「生命のシンボル」なのです。
 他には、「冬と銀河ステーション」や「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」にも、印象的な形で登場します。

 また賢治の実生活では、1924年1月13日に軽便花巻駅階上の精養軒で、同僚の堀籠文之進の結婚披露宴が行われた際に、「賢治は赤い実のついたやどり木をとってきて部屋いっぱい飾り……」(『新校本全集』年譜篇p.267)という演出を行ったということです。これは、愛し合う新婚夫婦にも、またこれから誕生するであろう新たな生命の予祝にも最適な、素晴らしい飾り付けと言えるでしょう。

 下の絵は、フレイザーの『金枝篇』の口絵にも掲げられている、ターナーの「金枝」という作品です(画像はWikimedia Commonsより)。

20211223b.jpg

 この幻想的な絵は、古代ローマの詩人ウェルギリウスによる叙事詩「アエネーイス」の一場面なのだそうですが、英雄アエネーアースは、亡父に会うために死後の世界に赴くにあたり、巫女シビュラからヤドリギの金の枝を授かって、持参しなければなりません。絵の左側の少し明るい場所で、シビュラが高く掲げているのがヤドリギの枝で、右下の方に冥府への入口があるのだということです。

 以上、ヤドリギをめぐる伝説について、長々と書き連ねてきましたが、わざわざお付き合いいただいた理由は、賢治がギフォード嬢とヤドリギについて会話をした1922年12月とは、実はトシの死からまだわずか1か月という時期だった、ということにあります。亡父を尋ねて冥府に赴いたアエネーアースのように、まさに賢治も亡き妹を追って、たとえ死後の世界へでも行こうとしかねなかった時期なのです。
 賢治もきっとこの頃、できることならば巫女シビュラにヤドリギの枝をもらって、黄泉の国へなり樺太へなり、トシを探しに行きたいと思っていたかもしれず、ふと車窓から美しいヤドリギの毬が見えた時、おそらくそのような連想が働いたのではないでしょうか。

 そして、このヤドリギをめぐるやりとりに続いて、賢治とミス・ギフォードの話題は、「天」のことに移っていきます。
 ここでも二人のうちのどちらが「天」の話を持ち出したのかはわかりませんが、当時の賢治は、亡くなったトシが次の生でそこに往くことを切に願いつづけていたわけですから、ミス・ギフォードと天界について話しながら、やはりトシのことを考えなかったはずはありません、

 さてその「天」をめぐる会話は、上に引用した「〔あかるいひるま〕」にも出てきますが、同じくこの車内の会話を題材とした文語詩「〔けむりは時に丘丘の〕」には、もう少し具体的に登場します。
 この文語詩定稿は、下記のようになっています。

けむりは時に丘丘の、      栗の赤葉に立ちまどひ、
あるとき黄なるやどり木は、   ひかりて窓をよぎりけり。

(あはれ土耳古玉タキスのそらのいろ、 かしこいづれの天なるや)[E]
(かしこにあらずこゝならず、  われらはしかく習ふのみ。)[F]

(浮屠らも天を云ひ伝へ、    三十三を数ふなり、
 上の無色にいたりては、    光、思想を食めるのみ。)[G]

そらのひかりのきはみなく、   ひるのたびぢの遠ければ、
をとめは餓えてすべもなく、   胸なるたまをゆさぶりぬ。

 「〔あかるいひるま〕」では、それぞれの発言が賢治とギフォード嬢のどちらの言葉なのか、疑う余地なく明らかだったのに対して、こちらの会話ではなかなか判断が難しく、研究者の間でも意見が分かれているのが現状です。
 富山英俊さんの論考の主たる目的の一つも、この対話の「話者の問題」について、考察を行うことでした。以下では、私もこの問題について考えてみようと思うのですが、各発言を示すために上のテキストの右に付けた[E][F][G]の記号は、便宜のため富山さんの論考における記号と同じものにしています。

 さて富山さんによれば、この「話者の問題」について言及している先行研究としては、これまでに次の4つがあるということです。

  1. 青山和憲「〔あかるいひるま〕から〔けむりは時に丘丘の〕まで(上・下)」(『弘前・宮澤賢治研究会会誌』6・7, 1989・1990)
  2. 鈴木健司「「たった一人の神さま」というディレンマ 賢治と宣教師ミス・ギフォード」(『宮沢賢治という現象』蒼丘書林, 2002)
  3. 島田隆輔『宮沢賢治研究 文語詩稿一百篇・訳注Ⅰ』(私家版, 2017)
  4. 信時哲郎『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』(和泉書院, 2019)

 私は1.と3.については未見なのですが、富山さんの論文に記されている1.と3.の紹介内容と、2.と4.に対する私の理解を整理すると、各研究において推定されている発言の話者は、下の表ようになります。

研究者 [E]の話者 [F]の話者 [G]の話者
青山和憲氏 ギフォード 賢治 賢治
鈴木健司氏 賢治 (賢治)
島田隆輔氏 賢治 ギフォード 賢治
信時哲郎氏 (賢治)

 表中の「-」は、どちらの発言とも記載されていないもので、また括弧付きの「(賢治)」は、賢治の発言と明記はされていないが、文脈から著者は賢治の発言と考えているように読みとれることを示しています。
 信時さんの『評釈』では、[F]の話者はどちらとも明示されていませんが、詩の「大意」の項では「あそこだとかここだとかいうのではなく、私たちは心の中で天を思念するのだと聞いています」としており、これはキリスト教的というよりは仏教的な言説の印象です。また信時さんは青山氏の説について「納得できる点が多い」としておられるところからしても、どちらかと言えば「[F]は賢治の発言」とする見方に近いのかもしれません。

 ところで、「〔けむりは時に丘丘の〕」における二人の会話の「流れ」を跡づけようとすると、最も重要な鍵になるのは、[F]をどちらの発言と考えるか、ということです。
 もしもこれを賢治の発言と取ると、[F][G]と賢治の主張が連続することになり、会話は相当「一方的」な雰囲気で、対話としてはきちんと成立していない感じになります。「賢治発言説」に立つ鈴木氏は、おそらくそういう読みにもとづいて、「賢治とミス・ギフォードの対立は、ジョバンニとかほるとの対立のように平行線のままに終わることになる」(p.106)とまとめておられますし、信時さんも「一生懸命に仏教における天の捉え方について賢治は語ったが、ギフォードとの論議は平行線をたどるだけ」(p.123)と評しておられ、結局対話は「平行線」だったと見なしておられます。

 上の表や信時さんのニュアンスからうかがえるように、これまでの研究では、[F]は賢治の発言とする説の方が数としては優勢で、二人の会話は平行線とする見方が多かったわけですが、しかし富山英俊さんは今回の論考において、島田隆輔氏と同じく、「[F]はギフォードの発言ではないか」との見解を示しておられます。
 富山さんも指摘しておられるように、従来の研究では、賢治とギフォードとの対話が「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニと少女の論争の題材となったという見方にも影響されてか、実際の賢治とギフォードも平行線に終わったと見なしてしまうきらいがあったのかもしれません。
 しかし、現実の出来事と物語は、必ずしも一致するとはかぎりません。

 ところで、定稿における[F]の宗教的内容は、天が「かしこにあらずこゝならず」ということだけですが、この詩の「下書稿(一)」ではもう一言多く、次のようになっていました。

かしこにあらずこゝならず
たゞそのひとに起るてふ [I]

 信時哲郎さんが評釈において、先に引用したように「あそこだとかここだとかいうのではなく、私たちは心の中で天を思念するのだと聞いています」としておられる後半部分は、上の引用部分の二行目をも反映させておられたわけですが、結局[I]で述べられている宗教思想は、「天というのは具体的な場所として指し示せるものではなく、人の心の中にあるものだ」ということになるでしょう。
 青山氏や鈴木氏は、このような思想は仏教的なものと判断し、賢治の発言ととらえたのかと思われますが、これをミス・ギフォードの発言として、すなわちキリスト教思想の表現として解釈することは、はたして可能でしょうか。
 [F]あるいは[I]の話者の判断には、この点が大きく関わってきます。

 富山英俊さんは、今回発表された論考において、キリスト教思想史や心性史の側面からこの問題にアプローチし、特にギフォードがバプテスト派に属したことから、当時のアメリカのバプテストの教義についても検討した上で、「ギフォードの宗教信条を賢治の断片的詩句から推測するのは難しいが、彼女には信仰の心への内在を語る傾向があり、賢治に「天国は心にこそある」と述べて深い感銘を与えた、と想像できる」とまとめておられます。

 そして私も、島田氏および富山氏と同じように、この[F]および[I]は、ミス・ギフォードの発言だったと考えます。
 実は、私は今回調べていて初めて気づいたのですが、この「かしこにあらずこゝならず/たゞそのひとに起るてふ [I]」の出典とも見える言葉が、新約聖書の「ルカによる福音書」第17章21節にあるのです。

 賢治の時代の日本語訳聖書であった『大正改訳 新約聖書』(1917)で見ると、これは次の下線部に相当するように思えます。

 二〇 かみくに何時いつきたるべきかをパリサイびとはれしとき、イエスこたへてひたまふ『かみくにゆべきさまにてきたらず。二一 また「よ、ここにあり」「彼処かしこにあり」と人々ひとびとはざるべし。よ、かみくになんぢらのうちるなり』(岩波文庫『文語訳 新約聖書』より)

 すなわち、賢治が「かしこにあらずこゝならず」と書いている部分に対応するのは、「「よ、ここにあり」「彼処かしこにあり」と人々ひとびとはざるべし」であり、「たゞそのひとに起るてふ」に対応するのは、「かみくになんぢらのうちるなり」だということになります。

 この箇所が、ミス・ギフォードの読んだテキストで、つまり当時のアメリカの聖書でどうなっていたかを見てみると、1900年に刊行された "American Standard Version" では、この箇所は次のようになっています。

20 And being asked by the Pharisees, when the kingdom of God cometh, he answered them and said, The kingdom of God cometh not with observation: 21 neither shall they say, Lo, here! or, There! for lo, the kingdom of God is within you.

 日本語の「かみくになんぢらのうちるなり」でも、英語の "the kingdom of God is within you." でも、「神の国は人間の心の中にあるのだ」という風に読め、これは神の国は客観的存在ではなく主観的存在であると言っているようにも思えます。キリスト教の教義解釈として、実際にこの箇所についてはそのように理解するという立場もあるようですが、もう一方には当然ながら確固とした客観的存在ととらえる立場もあり、たとえば "American Standard Version" の 'within you' の箇所には、脚注として 'in the midst of you' と記されており、また日本でも「新共同訳」では「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」となっていて、神の国は現実に到来するもの、という方向への解釈が強まっているようです。
 また、この「ルカによる福音書」では「神の国」と記されていますが、これははたしてキリスト教で「天(heaven)」と呼ばれているものと、同じと考えてよいのでしょうか。これも、専門的には様々な議論があることと思いますが、たとえば「「神の国」と「天の国」と「天国」との比較」という神学の論文を参照すると、ひとまず同じものと考えてよいように思われます。

 ということで、まだいくつか整理を要する論点はありうるものの、結局のところ[F][I]はほぼ聖書の言葉に沿っているわけですから、ミス・ギフォードがこのように述べたとしても、それはキリスト教宣教師として当然のことと言えるでしょう。

 そして、「天国は心にこそある」というこの考え方は、まさに天台智顗や日蓮の言う「一念三千」や「十界互具」にも通ずる世界観ですから、これを聞いた賢治は、さぞかし「深い感銘」を受けたに違いありません。
 きっと彼はこの青い眼の女性宣教使の心に、何か自分と通じ合うものを感じたのではないでしょうか。

 宗教の垣根を越えたこの共感は、二人の会話の端緒となった「ヤドリギ」の話とともに、賢治の記憶にしっかりと刻まれたのだろうと思うのです。

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