諂曲なるは修羅

 本日の記事の趣旨は、詩「春と修羅」の「諂曲てんごく)」」という言葉によって、賢治はいったい何を表現しようとしたのかということについて、具体的に考えてみようとするものです。

  春と修羅
      (mental sketch modified)

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲てんごく模様
(正午の管楽くわんがくよりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 この作品「春と修羅」は、詩集『春と修羅』のタイトルにもされているように、賢治にとって非常に重要な意味を持つ一篇だったと考えられます。天沢退二郎氏は、詩集『春と修羅』全体の構成を、「詩篇「春と修羅」と「永訣の朝」とをいわば二つの頂点、二つの中心として、全七十篇が楕円形の構造をなしながら宙に懸かっている」と表現していますが(「《宮澤賢治》作品史の試み」)、その二つの中心テーマとは、「己れの《修羅》性の発見」と、「妹の死」です。

 では、賢治が自己の内に見出した《修羅》性とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。賢治も愛読した島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』では、「修羅」について次のように説明されています。

【阿修羅】(Asura)略して「修羅」ともいふ。非天、非類、不端正と訳す。十界、六道の一。衆相山中、又は大海の底に居り、闘諍を好み常に諸天と戦う悪神なりといふ。


 すなわち、仏教で修羅という存在は、好戦的で、「怒り」や「攻撃性」がその最も顕著な特徴とされているのです。
 「春と修羅」のテキストに、「いかりのにがさまた青さ」とあったり、自らについて「唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」と記していたりするところなどは、そういう自己の内の「怒り」の表現の、典型なのだと思います。
 しかし現実の賢治という人が、このような「怒り」を表に出す人だったのかというと、一般的な基準から言えば、むしろ「穏やか」で「温和」で、「謙虚」な人だったという評価がほとんどのようです。下記は、彼がこの「春と修羅」を書いた前後、すなわち農学校に勤めていた頃の周囲の人々の証言を集めた、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』から、「3 賢治という人」の「人間像」の一部です。

 賢治はどんな人にも丁寧で、親切な礼儀正しい人であった。
 賢治を教師に推せんした羽田視学も、畠山校長も異口同音に賢治のことを、おだやかでもの静か、勤務ぶりも熱心で生徒に深い愛情をもった勉強家であったと語っている。(佐藤成)

 賢治という人は生来本質的に、人を責めること、人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人であった。(佐藤隆房)

 とにかく常に明るくて、微笑の絶えない人でした。賢治のお母さんという人も、観音様のように非常になごやかな感じの人でした。とにかく彼の居る一帯の雰囲気がなごやかになるような、そういう人だった。
 普段の賢治は、けっしていばらない人でした。話す相手にあわせて、話をしたのです。(藤原嘉藤治)

 ということで、周囲から見た賢治は、《修羅》的な「怒り」や「攻撃性」からは、程遠いタイプの人だったようです。ただしかし、どんな人間も一面だけでは捉えられないもので、たとえば上の佐藤隆房氏の証言には「人を煽動すること、声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたりするというようなことを好まない人」とありますが、農学校に就職する同じ年の中頃までは、彼は東京で国柱会の宣伝奉仕活動に従事し、「声を高くして人や世に訴えたり呼びかけたり」ということをやっていたのも事実です。
 またその前年には、次のような手紙も書いています。

突然ですが。私なんかこのごろはブリブリ憤ってばかりゐます。何もしやくにさわる筈がさっぱりないのですがどうした訳やら人のぼんやりした顔を見ると、「えゝぐづぐづするない。」 いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。机へ座って誰かの物を言ふのを思ひだしながら急に身体全体で机をなぐりつけさうになります。いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。確かにいかりは気持が悪くありません。関さんがあゝおこるのも尤です。私は殆ど狂人にもなりさうなこの発作を機械的にその本当の名称で呼び出し手を合わせます。人間の世界の修羅の成仏。そして悦びにみちて頁を操ります。(保阪嘉内あて書簡165)

 この書簡は、1920年の6月-7月頃のものとされており、「いかり」が「真青」に見えるという色彩的な共感覚や、「その本当の名称」として「修羅」を挙げているところも含め、「春と修羅」という作品に通ずることころが大きいと感じられます。

 ただし上の書簡でも、自分の内に「いかり」が煮えたぎっていて、「机をなぐりさうに」なることもあると書いてあるだけで、実際に彼がその怒りを外に「表出」したとまでは、書かれていません。本来の「修羅」は、単に「内心に怒りを秘めている」だけではなく、「闘諍を好む」性質を持っているわけで、怒りを何らかの形で外に出す存在です。
 では、賢治自身は、実際に「怒りをあらわにする」ということがあったのでしょうか。

 一つの例としては、盛岡高等農林学校の修学旅行中のエピソードとして、同級生の大谷良之が書き残しているものがあります。箱根の関を、同級生8人で歩いて越えようとしていた時のことです。

関所跡も近づいて土地も広く開け畑地が見える所にさしかかつた。「関所跡までどれ位ありますか」と農夫に聞いたところ「そうじやのー、あと二里あるで」と返答があつた。所が大きな声で「馬鹿野郎、嘘つくなツ」と宮沢君が叫んだ。私は農夫が怒つて追いかけて来はしないかと恐ろしかつたが、彼は平気な顔をしておる。あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が、あんなに叫んだのは彼のあの鋭どい感覚で農夫が大嘘をついたのを見破り、純情の彼としては我慢できなかつたのであろう。(川原仁左エ門『宮沢賢治とその周辺』)

 大谷自身が、「あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が……」と言っているように、このような激しい表出は、賢治にしては非常に珍しいことだったようですが、それでも全くなかったわけではないことがわかります。

 まとめると、賢治という人は、一般的に言えば全く怒りっぽい人でも粗暴な人でもなく、むしろその逆だったと思われるのですが、自らの心のうちに「怒り」を抱えて苦しむことは実際にあり、まれにはそれを表出することもあったようです。こういったことは、誰でも多かれ少なかれあって当然と思いますが、賢治の感受性の強さのためか、あるいは自分自身に対する「厳しさ」や「潔癖さ」のためか、そのような自分を耐え難く感じていた、ということかと思います。

 と、以上のような事柄は、賢治の《修羅》性について、これまでにも言われてきたことだと思いますし、特に新味はないでしょうが、今回私が気になったのは、「修羅」が持つもう一つの側面についてです。
 仏教において「修羅」という存在は、「怒り」や「攻撃性」によって特徴づけられるとともに、もう一つ「諂曲」という要素も、重要なものとされています。「諂曲」の「諂」とは「へつらう」、「曲」とは「心を曲げる」ということで、合わせて「自分の意志を曲げて相手にこびへつらうこと」(『日本国語大辞典』)です。

 この「諂曲」は、日蓮の「観心本尊抄」において、「修羅」の本質的特徴として、次のように説かれています。

しばしば他面を見るに、或時は喜び、或時はいかり、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時はおろか現じ、或時は諂曲てんごくなり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし。

 ここで日蓮は、はたして人間に仏性は備わっているのか、という問題を説き明かすために、人間の様々な「顔」を見てみれば、そこには「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六道が表れているのだということを、述べています。すなわち、「いか」っているのは地獄、「むさぼ」っているのは餓鬼、「おろか」なのは畜生、「諂曲」をするのは修羅、「平らか」なのは人、「喜ぶ」のは天、だというのです。日蓮は、「瞋り」は「地獄」の方に当てはめる一方、「修羅」の特徴としては「諂曲」を挙げていて、むしろこちらの方を重視しているようにも見えます。
 そしておそらく日蓮のこのような記述を背景として、賢治の「春と修羅」の心象世界は、「いちめんのいちめんの諂曲模様」によって覆われているのです。「諂曲」は、「怒り」とともに、賢治が己れの《修羅》性を問題にする上では、もう一つの重要な側面だったはずです。
 それでは、賢治は具体的に自分のどのような部分を、「諂曲」として認識し、自戒していたのでしょうか。現実の賢治には、「諂曲」と言えるような側面が実際にあったのでしょうか。

 これは、生前の賢治の人となりにおいて、「怒り」や「攻撃性」を探すよりも、さらに難しいことに思えます。周囲人々の証言によれば、彼は嘘や偽りを特に嫌がり、人に媚びへつらうような態度をとることがあったとは、到底思えないのです。
 上にも引用した、佐藤成著『証言 宮澤賢治先生』には、次のような記載があります。

 宮沢君は嘘をつく人間が大きらい、往来で行きあっても見向きもしない。(大谷良之)

 賢治はいつでも相手を見透かしてものをいっている。嘘や偽りは大嫌いで、真実純真、そういうものがすき、どんな偉そうな人でも恐れない、弱点をすぐ見破るという人であった。(藤原嘉藤治)

 先生は嘘やいつわりを極度に嫌われた。またいやなことはいやとはっきりすれば喜ばれ、義理にもいやなことを承諾したりするとかえって機嫌が悪かった。正直の徳を尊ばれた。(菊井清人 大・十五卒)

 以上のように、賢治を知る人の証言や、伝記的な記録から、彼が実際に「意志を曲げて媚びへつらう」ようなことをしたという証拠を探し出すのは、不可能なような気がするのですが、それではなぜ賢治が自らの心象世界を、「いちめんのいちめんの諂曲模様」と描写したのか、このままではその理由がわかりません。
 そこで、この「諂曲模様」が具体的にどういうことを意味しているのかということについて、これまでの研究者の解釈を参照してみようと思うのですが、有名なフレーズの割には、あまり多くの解説はないようです。

 その中で、まず恩田逸夫氏は、「詩篇「春と修羅」の主題と構成」(天沢退二郎編『「春と修羅」研究 II』學藝書林所収)において、次のように説明しています。

 さて、賢治は自己の心象風景を自然の風景に托して「諂曲模様」といって自戒しています。「諂」とは媚びへつらうことで、ここでは自分自身を甘やかす傾向でしょう。「曲」とはねじまげた誤れる受けとり方です。賢治のこのような暗い心情とは対照的に、天からは春の琥珀色のキラキラした陽光が降り注いでいます。

 この解釈では、賢治が媚びへつらっているのは「自分自身」に対してであり、彼は自らの内にある「自分自身を甘やかす傾向」を自戒して、このように表現したと考えられています。つまりこれは、「自己欺瞞」の一種だというわけです。
 恩田氏がこのように解釈した理由は、賢治が「他人に対して媚びへつらっていた」という状況が想定しにくいために、「自分に対して」と考えざるをえなかったということかと思いますが、しかし「自分で自分に諂曲する」というのは、理屈としては言えなくもないかもしれませんが、この言葉の現実の解釈としては、非常に無理があるように思います。
 そもそも「修羅」の本質は、自分ではなく他者と争って優位に立とうとすることであり、その際の手段として、多くの場合は好戦的に戦いますが、しかし相手が強いと見ると「媚びへつらって」、少しでも自分を有利に見せようとするのが「諂曲」のはずです。
 したがって、この解釈にはちょっと賛同できません。

 次に、今野勉氏の『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)を、見てみます。

 「諂曲」とは、「へつらうこと」だが、そのままでは意味をなさない。日蓮の『観心本尊抄』に「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かなるは畜生、諂曲は修羅」とある。ここで「諂曲」を「こびへつらう」とすると、「修羅」は、こびへつらう人となってしまう。島地大等の『妙法蓮華経』の「方便品第二」に、「諂曲心不実しんふじつ」という言葉が出てくる。島地は「諂曲」の字の右に「てんごく」とルビを付し、左側に片仮名で「ヨコシマ」とカナを当てている。すなわち「よこしま」である。「諂曲心不実」は「邪にして心不実なり」だ。とすると、日蓮の「諂曲は修羅」は「邪なるは修羅」と解さなければならない。『梵漢和対照・現代語訳 法華経』でも、訳者で仏教学者の植木雅俊は「諂曲」を「心のひねくれたものたち」としている。「諂曲模様」は、したがって「邪な模様」、すなわち「正常ではない、異端の様相」という意味としていいだろう。賢治の立っている心象風景は、「邪」な風景なのだ。
〔中略〕
 賢治は、自らを「邪な修羅」としている。「冬のスケッチ」に賢治は、「このこひしさをいかにせん/あるべきことにあらざれば」という言葉を遺した。
 「この恋は、あってはならないものだ」という、罪の意識が賢治の中にはある。「自分は邪なことをしている」という意識だ。それを強烈に示す言葉が、保阪あての賢治の手紙にある。

 すなわち今野氏は、もしも「諂曲」を「媚びへつらう」という意味に解釈すると、「「修羅」はへつらう人となってしまう」から「意味をなさない」、という根拠に基づいて、「諂曲」とは「邪」という意味である、と解釈しなおすわけです。 そして、賢治が自らのことを「邪」と考えた理由は、保阪嘉内に対する同性愛を抱いていることに対する罪の意識であるというのが、今野氏の説です。
 しかし、すでに上に見たように、修羅とは一面ではまさに「へつらう人」であるというのが仏教の教説であり、それを賢治が理解していなかったはずはありません。

 最後に、宮澤清六氏の「『春と修羅』への独白」を見てみます。この清六氏の文章は、「研究」というよりは、『春と修羅』の諸作品をもとにした「随想」とも言うべきものですが、それでも個々の作品について、作者のすぐ側にいた人ならでは解釈が記されているので、いろいろと教えられるところが多いものです。
 この「『春と修羅』への独白」(ちくま文庫『兄のトランク』所収)から、「諂曲」と関係している部分を抜き出すとすれば、次の部分がそうでしょう。

  心象のはひいろはがねから
  あけびのつるはくもにからまり
  のばらのやぶや腐植の湿地
  いちめんのいちめんの諂曲模様

 幾億の巧智にたけた蜘蛛やなめくじや狸やねずみ。
 世界いっぱいに張りめぐらされた精巧きわまる舶来製のトラップやかすみあみ。
 さては各地に駐屯する山猫博士、カイロ団長、オッペル達の群落。
 億千の鳥やけものや羽虫のむれ。
 それらが毎日殺し合ったりだましたり、接合したり離散したり、そねみあったりけなしたり、ひだりになったりみぎになったり、ただもう、せわしくせわしく発生したり消滅したりしているのだ。
 しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなであることがあまりにも明らかで、世界ぜんたいのさいわいがはるかにはるかに遠方であることに心痛み、修羅の怒りは燃えさかり、修羅は地面に慟哭し、風景もなみだにゆれるのだ。

 上記のうち、「諂曲」に関連する表現としては、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」が「巧智にたけた」と形容されているところ、そしておそらく彼らが仕掛けた「精巧きわまる舶来製のトラップやかすみあみ」、「それらが毎日殺し合ったりだましたり…」という箇所などが、「心を曲げて媚びへつらう」という意味に通じているのかと推測されます。
 そうすると、「諂曲」という性質を帯びているのは、賢治という個人ではなく、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ」、あるいは「山猫博士、カイロ団長、オッペル達の群落」なのだというのが、清六氏の解釈なのでしょう。ただし、これらの悪者たちと賢治は無関係なのではなく、「しかもそのまたひとつひとつが、どれでも彼自身の中のみんなである」という、『春と修羅』の「」に記されたような相互包含の世界を形成しているのですから、賢治自身もこのような「諂曲」性と、分かちがたく絡み合っているということになるのでしょう。
 これも、一つの見方かとは思いますが、しかし私として違和感を覚えるのは、特に作品「春と修羅」における賢治の自我は、このように世界と密接に繋がり合っているというよりも、非常に強く孤立し、全世界から疎外され、一人だけ浮いているように、私には感じられるからです。通り過ぎる農夫を見ても、「ほんたうにおれが見えるのか」との疑念を抱くのは、対象から何かで隔てられているような疎外感のためかと思いますし、「風景」を「ゆすれ」させている「なみだ」も、自分と外界との間の透明な壁のようです。
 私が「春と修羅」という作品から感じる、このような深い孤独感・疎外感からすると、「おれはひとりの修羅なのだ」という自己認識は、どうしても「世界ぜんたい」のものではなく、自分がたった「ひとり」で背負っている、「業」のようなものに思われるのです。私としては、賢治が抉り出した「修羅性」は、あくまで自分個人のものであり、清六氏の解釈のように彼が「世界と一緒に担っている」とは、どうしても思えないのです。

 以上のように、私から見ると、賢治の「諂曲性」については、これという妥当な解釈が見当たらないというのが実感です。賢治はいったい、自分のどのような部分が「へつらう人」だと認識し、自戒していたのだろうか、というのが今回の記事の主題です。

 この問題について別の角度から考えてみるために、賢治の童話「土神ときつね」を参照してみます。
 「土神ときつね」には、粗暴で怒りっぽい土神と、上品で弁舌爽やかだが少し不正直な狐と、その二人が思いを寄せる樺の木が出てきます。この土神と狐は、対照的な存在ではありますが、どちらも賢治自身のある側面を象徴しているということは、これまでにも指摘されてきました。
 土神は、素朴な驚きの目で自然を見る感性を持つ一方で、自らの感情を処理できず、苦悩しています。狐は、西洋の科学や文学の知識が豊富で、それらを魅力的に語ることができます。どちらの特性も、まさに賢治らしいと言えますし、またこの作品の改作を検討したメモに、土神を「退職教授」に、狐を「貧なる詩人」にするという案があり、これもそれぞれ賢治の人生の一側面に対応しています。

 一方、二人のうちで土神の方は、「修羅」を象徴する存在と解釈できることも、多くの研究者によって指摘されてきました。怒りっぽく乱暴なところはもちろん「修羅」の特徴ですし、詩「春と修羅」との関連では、土神の棲んでいるのが「湿地」であること、怒りに燃えると「歯噛み」をして「その辺をうろうろ」すること、通り過ぎる木樵から姿が見えないこと、最後ではその泪が雨のよう降るところなどが、「春と修羅」に共通した描写と言えます(栗原敦氏などによる)。

 今回、私としてはこれに加えて、実は「修羅」を象徴しているのは「土神」だけではなくて、「狐」もまた「修羅」の一側面を表しているのではないかということを、考えてみたいのです。
 すなわち、粗暴で相手と闘い争う、修羅の「闘諍的側面」を土神が体現しているのに対し、その「諂曲的側面」――相手に取り入るために媚びへつらい、自分を良く見せるためには事実を「曲げて」嘘もついたりする部分――を、「狐」が体現しているのではないかと考えるわけです。
 このような観点が、「土神ときつね」という作品を理解する上でどんな意味を持つかということは、また別途考えるとして、とりあえず今回はこの解釈を、「賢治の内の修羅の諂曲的側面」を考える上での、補助線として利用してみたいと思います。

 上述のように、生身の賢治を対象として、「どこに諂曲があるのか」と直接探してみても、なかなか見つけるのは難しいのですが、ここで賢治と「諂曲」との間に、この「狐」を置いてみると、見えてくるものがあるように思います。
 もちろん賢治は、この狐のように嘘をついて人を騙したりすることはなかったでしょうが、それでも下記のような例を見ると、調子に乗ってちょっと大言壮語してしまうことは、あったのかもしれません。
 「小岩井農場」の清書後手入稿で、「春と修羅補遺」に「〔小岩井農場 第五綴 第六綴〕」として分類されている草稿の、次の箇所を見てみます。

  ※※※※※※※※ 第五綴
鞍掛が暗くそして非常に大きく見える
あんまり西に偏ってゐる。
あの稜の所でいつか雪が光ってゐた。
あれはきっと
南昌山や沼森の系統だ
決して岩手火山に属しない。
事によったらやっぱり
石英安山岩かもしれない。
これは私の発見ですと
私はいつか
汽車の中で
堀籠さんに云ってゐた。
(東のコバルト山地にはあやしいほのほが燃えあがり
 汽車のけむりのたえ間からまた白雲のたえまから
 つめたい天の銀盤を喪神のやうに望んでゐた。
 その汽車の中なのだ。
 堀籠さんはわざと顔をしかめてたばこをくわいた。)
堀籠さんは温和しい人なんだ。
あのまっすぐないゝ魂を
おれは始終をどしてばかり居る。
烈しい白びかりのやうなものを
どしゃどしゃ投げつけてばかり居る。
こっちにそんな考はない
まるっきり反対なんだが
いつでも結局さう云ふことになる。
私がよくしやうと思ふこと
それがみんなあの人には
辛いことになってゐるらしい。

 ここで賢治は、同僚教師の堀籠文之進と何とかして親しくなりたいと思って、いろいろ話しかけたりしているのですが、なかなかうまく行きません。引用部の終わりの方で、「温和しい」堀籠さんに対して賢治が、「おれは始終をどしてばかり居る。/烈しい白びかりのやうなものを/どしゃどしゃ投げつけてばかり居る」というところなどは、土神がぜひとも樺の木と仲良くなりたいのに、粗暴で攻撃的な印象ばかり与えて逆効果を招いているところと、そっくりに感じられてしまいます。
 この部分は私にとって、賢治の「土神的な側面」、すなわち「修羅の闘諍的側面」を、表しているように思えます。

 これに対して、その前の方で「鞍掛山は南昌山や沼森の系統に属し、岩手山の系統とは異なっていて、石英安山岩があるかもしれない」という地質学的な知見を得意気に堀籠さんに披露し、「これは私の発見です」と言って自慢までしているところからは、私はあの「狐」の樺の木に対するおしゃべりを、連想してしまうのです。
 鞍掛山が岩手山よりも地質学的にかなり古いという説は、「国立公園候補地に関する意見」においても、「ぜんたい鞍掛山はです/Ur-Iwate とも申すべく……」などと書かれており、賢治の十八番の一つでした。これは、現代の地質学から見ても正しいということですが、しかしこれを「私の発見です」とまで主張するのは、ちょっと賢治の勇み足ではないでしょうか。
 科学の分野で「自分の発見」と言うためには、それを学会で発表するなり、論文にして学術雑誌に投稿するなりして、その分野の研究者コミュニティに承認される必要がありますが、賢治はそういう手続きを踏んだわけではなさそうです。確かに、彼は独力でこれを「発見」したのかもしれませんが、それより前に別の研究者が、すでに発見し報告していた可能性もあります。
 こういう風に、思わずちょっと「話を盛って」しまい、相手の気を引こうとしているところが、「土神ときつね」における「狐」のおしゃべりに似ているように、私は思うのです。
 そして、あの「狐」が象徴するのが「修羅の諂曲的側面」だったとすれば、賢治は自分自身の行動のうちで、こういう部分を「諂曲的」だと捉えて、反省し、自己嫌悪を抱いていたのではないかと、私は推測するのです。

 もしも、このような読み方が成り立ちうるのなら、「小岩井農場」の下書稿段階では、樺の木に対して「土神」と「狐」が対照的なアプローチをしつつ争っていたように、堀籠さんの気を引こうとする賢治が「修羅の二側面(=闘諍性と諂曲性)」を露呈して、葛藤していた様子が記録されているのだと、考えることができます。
 ただし、「小岩井農場」のそのような側面は、その後の推敲によって抹消され、最終的にはもっと抽象化された形で、人間一般における「愛」のあり方として昇華され、理論化されることになります。

 長詩「小岩井農場」の推敲は、元あったその九つの「パート」のうち三つも抹消するような大規模なものでしたが、上記のような視点からその作業の意味を考えてみると、それは一方では、賢治が「主観的な愛」を「客観的な愛」へと昇華しようとした過程であり、そしてもう一方では(それと表裏をなす動きとして)、「主観的な〈幻想〉観」を「客観的な〈幻想〉観」へと転換した過程だと言うことができるのではないかと私は思うのですが、これについてはまたいつか、別稿で考えてみたいと思います。