足摺岬の「雨ニモマケズ」詩碑

 8月11日から12日にかけて、高知県の足摺岬の奥の牧場に先月建立された、「雨ニモマケズ」詩碑の見学に行ってきました。

 先週から台風が、まさにちょうどこのあたりを目ざして来ているところだったので、無事に行き着けるかと心配していたのですが、当初の予想よりも台風の接近が遅れてくれたおかで、天候は大丈夫でした。
 瀬戸大橋が架かってからは、京阪神から四国に入るまではあっという間なのに、やはり足摺まで行くとなると、四国の中での移動が大変です。高知まで土讃線の振り子列車に揺られながら山を越え、そこからさらにJRと土佐くろしお鉄道をまたぐ、「特急あしずり」に乗ります。
 下の写真は、土佐くろしお鉄道の土佐佐賀あたりで、車窓から見た海の様子です。青空ものぞいてはいるものの、遠くの雲は台風の接近を匂わせて何となく不穏で、海には白い波しぶきがかなり目立っています。

土佐佐賀あたりの太平洋

 「あしずり」に乗って約2時間で終点の中村(四万十市)に着き、そこからはバスに1時間ほど揺られて、土佐清水市です。この日は、詩碑を建てられた西村光一郎さんが、土佐清水のバスターミナルまで車で迎えに来て下さっていたので、市街地からさらに海沿いと山中の道を20分あまりで、「足摺牧場」に着きました。

 地図で見ると下のような、南海に臨む位置です。右下の「+」を押してズームしていただくと、より詳細な場所がわかります。

 足摺牧場の入口です。

足摺牧場入口

 牧場に入ると、まず「宮澤賢治詩碑建立趣意書」があります。

「宮澤賢治詩碑建立趣意書」

 そして、背後に太平洋も見渡せる場所に立つ、3基の詩碑。

足摺牧場の三詩碑

 中央の背の高いのが宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑、向かって左側が岡本弥太の「櫻」詩碑、右側が西村和三郎の「山靈賛歌」詩碑です。
 碑の建立者は、その西村和三郎の次男であり、現在は地元の幼稚園の園長をしておられる西村光一郎さんで、今回はわざわざ私のために、案内の労をお取り下さいました。
 ここにあらためて、西村さんのご厚情に深く感謝を申し上げます。

 さて、このたび並んで詩碑が建てられたこの3人の詩人の間に、いったいどんな縁があったのかということですが、まず左側の碑の岡本弥太については、鈴木健司氏の論考「詩集『春と修羅』の同時代的受容」(蒼丘書林『宮沢賢治という現象』所収)に、次のように紹介されています。

 岡本弥太は、全国的にみれば一部の詩人や研究者にのみその名を知られる存在かもしれない。だが、土佐の地において弥太は「南海の賢治」と称される詩人で、郷土の生んだ最も著名な詩人であり、弥太祭や弥太賞といった催しも行われている。弥太は明治三二年一月、高知県の岸本村(現、香我美町岸本)に生まれた。賢治が明治二十九年八月生まれであるから三歳年下、学年としては二級下にあたる。弥太は高知市立商業学校を卒業、その後一時神戸に職を得るが、二三歳の時郷里に戻ってからは終生土佐の地を離れることなく、二〇年にわたり小学校教師としてその職を尽くし、昭和一七年一二月、結核によって満四三歳の生涯を閉じた。

 弥太の詩人としての活動は、25歳からのいくつかの同人誌発行の後、全国的な詩誌である『詩神』や『日本詩壇』への投稿・掲載とともに、生前の唯一の詩集『瀧』を、昭和7年に34歳で刊行しています。
 「南海の賢治」という呼称は、その作風から付けられたものでしょうが、生前の賢治との直接の交流はありませんでした。しかし弥太は、賢治が『春と修羅』を出版した直後からずっとその作品に注目し、高知の古本屋で埃をかぶった『春と修羅』を見つけた際には、「奪ひとるやうに」購入したのです。
 下記は、鈴木氏の上掲論文から、弥太が「イーハトーヴォ」創刊号(昭和14年)に寄せた、「春と修羅の我が思い出」という文章の一部です。

 私が故人の名前を知ったのは例の詩話会から出てゐた詩誌日本詩人誌上、多分大正十三年ではなかつたかと思ひます。春と修羅のあの薊の押絵のある麻表紙の詩集の奥付が大正十三年四月二十日発行となつてゐますから――あの詩集の紹介者は佐藤惣之助氏でなかつたかと記憶してゐるが、或は 川路柳虹氏だつたかも知れない。豊富絢爛な未来派的官覚異装を讃えた詩評で、この東北の天才を評するに決して不当でなかつたやうに思ひますが、今のやうな広汎深刻な人性的意味の探求では決してなく、自分にはハルトシユラといふおどろくべき野生のちからを持つた Dawn man 的意味の現出に官覚的驚異を感ずるの外はなかつたやうに印象されてゐます。
〔中略〕
 私はこの人の詩集を出版後三四年たつてから私の辺鄙な土地の町の古本屋の埃のなかから偶然拾ひ出しました。貳円四拾銭の定価のものを符牒どほりの六拾五銭で、奪ひとるやうに買ひ(多分僕が買はなかつたらこの詩集は何年も宮沢さんの死ぬ時まで、その通りだつたのかも知れません。この辺鄙でその真価を知る人は寡いのですから。)その晩徹宵でこの詩集のあの重い手ざはりと活字に吸ひとられて仕舞ひました。松の針と無声慟哭のところへ来てとうとう涙を滾して仕舞ひました。

 ということで、花巻から遠く離れた南国の地に、ひそかに賢治に共鳴する同時代の詩人がいたというわけです。その作風には、賢治を思わせるような斬新な語法も見られたということですが、上の詩碑に刻まれている「櫻」は、平易で静かな、そして哀しい作品です。教師として、教え子の出征を見送った情景を回想するものでしょうか。

   櫻
                岡本彌太
おたっしゃでゐて下さい

そんな風にしか云えないことばが
さくらの花のちる道の
親しい人たちと私との間にあった
そのことばに
ありあまる人の世の大きな夕日や
涙がわいてきた

私はいまその日の深閑と照る
さくらの花のちる岐路に立ってゐる

おたっしゃでゐて下さい
私はその路端のさくらの花に
話しかける
さくらは
日の光に美しくそよいでゐる

 さて、向かって右側の詩碑の西村和三郎は、この岡本弥太を通じて賢治の作品を知り、やはり賢治のことを深く敬愛するようになったという詩人です。
 和三郎は、1913年(大正2年)に高知県土佐清水市に生まれ、高知師範学校(現高知大学)を卒業後、26年間小学校の教師をしながら詩作に励みました。教師を退いてからは、高知県議会議員を一期務め、1967年(昭和42年)に足摺岬の奥の未開の地を購入して、牧場を始めます。山中にて、ランプの灯りで清貧の生活を送り、1996年に亡くなりました。
 詩人としては、郷土の先輩である岡本弥太に師事し、生前に詩集『五月狂想』『修羅の恋歌』を刊行しています。

 この間、故・宮澤賢治に対する敬慕の念を強くした和三郎氏は、1940年(昭和15年)にはるばる花巻を訪ね、この時に宮澤清六氏や菊池暁輝氏と会ったということで、菊池氏と一緒に撮った写真も残っています。この縁で、翌年に清六氏から賢治遺言の『国譯 妙法蓮華経』を贈られて、以後は毎日法華経の勤行を欠かさず、土佐清水の町を団扇太鼓を叩きながら唱題して歩いた時期もあったということです。

 下の写真は、和三郎氏が所蔵していた『国譯 妙法蓮華経』です。和三郎氏はこれを「お飾り」などにはせずに、毎日座右に置いて読経に使っていましたので、特に「如来寿量品」の部分などは手垢にまみれ、後にこれを見た清六氏は、「ここまで読み込まれた版は見たことがない」と言ったということです。

西村和三郎氏旧蔵『国譯 妙法蓮華経』

 詩碑に刻まれている「山靈賛歌」は、和三郎氏が足摺の山中を開墾して「足摺牧場」を作っていた頃の一コマかと思われます。

   山靈賛歌
                西村和三郎
伐りゆくほどにゆくほどに
秘めし山霊の相にして
自からなるマンダラの
たからの苑ぞあらわるる
  とわの園生を開くべく
  いのち傾け老いゆかん
汗みどろなる肩よせて
石にいこいて語りしは
夢みるごとくちかいしは
そも現し世のことならじ

 「道を求めるのにひたむきで一途だった」という人で、土佐清水市の市街地から、当時はまだ電気も来ていない山の中に移り住んだわけですから、ご家族にとっては大変な面もあったでしょうが、子どもたちにはよく賢治の童話を読んで聞かせてくれたということです。

 おそらく1980年頃のことかと思われますが、宮澤清六氏が講演のために、当時はまだ高校生だった宮澤和樹さんを連れて、高知を訪ねられたことがあったそうです。この時に、和三郎氏とともに二人に会った次男の光一郎さんは、「いつか足摺の地に賢治の詩碑を建てたい」という願いを、清六さんと和樹さんに語られました。

 そして、今回やっとその西村光一郎さんの長年の念願がかなって、宮澤賢治・岡本弥太・西村和三郎という3人の詩碑が、和三郎の開いた「足摺牧場」の一角に、建立されたわけです。賢治の「雨ニモマケズ」は、その前半部が刻まれ、花巻の羅須地人協会跡にある元祖賢治詩碑に後半部が刻まれているのと合わせて、これで「一対」になるのだと、光一郎さんは話して下さいました。

 2019年7月15日に行われた除幕式には、はるばる花巻から宮沢和樹さんと、碑文の揮毫をした宮沢やよいさんのご夫婦も臨席し、総勢150名もが集まる盛会となりました。式では、西村光一郎さんが園長を務める「しみず幼稚園」の園児らによる「ポランの広場」の合唱や、「雨ニモマケズ」の朗読や、餅まきもありました。
 宮沢和樹さんは挨拶の中で、この足摺牧場の風景を評して、「賢治が愛した種山ヶ原に似ている」と述べられたということですが、緑の草原に牛や馬がくつろいでいる様子はまさにそのとおりですし、その草原から遠くに帯のように青く見えるのは、種山ヶ原の場合には「海だべがど、おら、おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」なのに対して、こちらはほんとうの海、黒潮の流れる太平洋が広がっているのです。
 今のところ下記リンクからは、7月16日に「テレビ高知」で放映されたニュース番組で、この詩碑の除幕式を伝える様子が視聴できます。西村光一郎さんや宮沢和樹さんも出ておられます。

宮沢賢治の詩碑 高知県土佐清水市に完成」(KUTV)

 8月11日の午後は、詩碑を見学させていただいた後、足摺牧場にある西村光一郎さんの弟さんのお宅で、上の貴重な『国譯 妙法蓮華経』を見せていただいたり、清六さんや和樹さんとのエピソードを聞かせていただいたりしました。その後、また牧場から土佐清水のバスターミナルまで車で送っていただき、再びバスに1時間ほど揺られ、四万十市の中村駅前に戻りました。

 晩ご飯は、四万十市内の居酒屋で、四万十川の天然鰻や、カツオの塩たたきなどをいただきました。

四万十川のウナギの白焼き

カツオの塩たたき

 ポン酢醤油のかわりに塩で食べる「カツオの塩たたき」は、高知市あたりでは粗塩をざらっと振ってあるのですが、四万十市など高知県西部では、「塩だれ」の中に少し漬け込んでから食べるのが特徴です。薬味は、たっぷりのタマネギ、青ネギ、ニンニクのやや厚めのスライスに、大葉の繊切り。何と言っても高知で食べると、たたきの一切れ一切れが無茶苦茶でかくて豪快(厚さ2cmくらい!)なのがいいです。

 夜は駅前のホテルに泊り、翌朝に中村駅からまた「特急あしずり」に乗りました。ちなみに、中村駅の売店コーナーで売っているお弁当は以前にも買ったことがあるのですが、安くてボリュームもあって美味しいです。
 下の「華かん彩り弁当」は、400円から480円くらいで中身が違う何種類かあり、これはご飯の上に小ぶりの鯖の塩焼きが半身まるごと!入っていて、さらにコロッケや卵焼き、こんにゃくの煮物、ごぼうサラダ、ししとうの煮物、春雨の酢の物なども入って、430円でした。

中村駅の弁当