「〈みちづれ〉希求」の挫折と苦悩

 長詩「小岩井農場」には様々な側面があり、様々な解釈が可能でしょうが、その初期形における重要なモチーフの一つは、「農学校の同僚の堀籠文之進と仲良くなりたいが、うまく行かない」という賢治の悩みでした。
 もっとも、この堀籠をめぐる葛藤に関する記述は、後の推敲によって削除され、全く痕跡をとどめない状態にされてしまうので、出版された『春と修羅』に掲載されている形態を見るかぎりは、そのようなモチーフはうかがい知れません。しかし賢治が、この日の小岩井農場散策を途中で取りやめ、引き返すという決断をしたのも、実は堀籠に対する気持ちによるところが大きく、早く花巻に戻って農学校に寄れば、日直をしている堀籠と一緒にチョコレートを食べられるかもしれない、と考えたからだったのです。

 もちろん、賢治が引き返した直接のきっかけは、よく知られているように「雨が降り出したから」だったのですが、「下書稿」や「清書後手入稿」を見ると、彼は雨が降り出すかなり前から、「もう柳沢へ抜けるのもいやになった」と記し、何時の列車に乗れば農学校に寄るのに都合がいいかなどと、しきりに考えているのです。

五時の汽車なら丁度いゝ。
学校へ寄って着物を着かへる。
堀篭さんも奥寺さんもまだ教員室に居る。
錫紙のチョコレートをもち出す。
けれどもみんながたべるだらうか。
それはたべるだらう、そんなときなら
私だって愉快で笑はないではゐられないし
それにチョコレートはきちんと、
新らしい錫紙で包んであるから安心だ。

 賢治はこんなことを考えながら、しかし引き返す決断はできないまま歩みを進めていたところに、急に雨が降ってきたので、これ幸いとばかりに「引っ返せ 引っ返せ」と自分に掛け声をかけ、Uターンをしたのです。
 この一連の流れを見ても、当時の賢治にとって堀籠に関する悩みが、どれほどのウェイトを占めていたのか、ということがわかると思います。

 実際にこの1922年5月21日(日)、小岩井農場から予定を早めて花巻に戻った賢治が、農学校に立ち寄って堀籠文之進とともにチョコレートを食べたのかどうかはわかりません。しかし賢治にとって、堀籠との関係をめぐる葛藤は、その後も続いていたようです。
 それを物語るのは、『新校本全集』の「年譜篇」の1923年3月4日の項に記されている、二人の間の特異な出来事です。

 同僚堀籠文之進と一関へハイキング。途中一切英会話。一関で上演中の歌舞伎を見物し、10時を過ぎる。汽車もなく、飲み屋で休み、月夜を幸い帰る。
 途中、たまたま信仰の話に及んだとき、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか。わたくしとしてはどうにも耐えられない。では私もあきらめるから、あなたの身体を打たしてくれませんか」といい堀籠の背中を打った。
 「ああこれでわたくしの気持ちがおさまりました。痛かったでしょう。許してください」といい、平泉駅につき待合室のベンチで休み、夜明けとともに下り列車に乗り、花巻まで一睡する。

 職場の同僚である堀籠の背中を打つというこの賢治の行動は、前回の記事でも引用したような、「穏やかで、温和で、謙虚な」賢治の人柄のイメージからすると、かなり意外なものです。このような行動の背景には、何らかの強い「感情」の存在を、想定せざるをえません。
 この時二人は、「信仰の話」をしていたということで、賢治が「どうにも耐えられない」と言った理由は、おそらく堀籠が、自分は賢治と同じ信仰を持つことはできないと、はっきり言明したか何かだったのでしょう。日蓮系の教団では、周囲の人に「折伏」をして、少しでも多くの信者を獲得することを特に重視しますので、この時賢治が「一人の信者を獲得し損ねた」ことは、かなり残念な結果だったことでしょう。
 しかし、当時の賢治にとって堀籠が、単なる折伏の対象としての「一人」にしか過ぎなかったとは、到底思えません。もしそれだけのことだったなら、賢治が周囲の人に日蓮の教えを勧めた際には、相手が断るたびごとにその人の背中を叩いていたはずですが、もちろん実際はそんなことはありません。ですから、ここで賢治に堀籠の背中を打たせた「感情」は、堀籠という個人に対して、特別に向けられていたものだったということになります。

 その感情とは、「どうしてもあなたは私と一緒に歩んで行けませんか」という賢治の言葉に表れているように、「自分と一緒に歩んで行く人を求める」という思いでしょう。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニがカムパネルラに言った、「どこまでもどこまでも一諸に行かう」という願いと同型なのが印象的で、これは賢治にとって、重要なテーマだったのだろうと推測されます。
 このような、「生涯の同伴者を求める」という賢治の強い感情のことを、ここでは「〈みちづれ〉希求」と名づけておこうと思います。〈みちづれ〉という言葉は、賢治が「無声慟哭」において、トシにとっての賢治自身のことを、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」と呼んだことからとっています。

 思えば、宮澤賢治という人は、『春と修羅』の時期の少し前から、〈みちづれ〉を強く希求しては失うという挫折を、下記のように毎年経験していました。

  • 1921年7月: 保阪嘉内との別れ
  • 1922年11月: トシの死
  • 1923年3月: 堀籠文之進への諦め(上述)

 このような悲痛な体験の連続は、彼に深い喪失感と孤独感をもたらしたでしょうが、これらの苦悩の直視と昇華こそが、『春と修羅』という詩集の、実は中心的・本質的なテーマだったのではないでしょうか。

 前回も見たように、詩「春と修羅」で抉り出された「自らの《修羅》性」とは、童話「土神ときつね」において類型化されているように、土神の象徴する「修羅の瞋恚的側面」と、狐の象徴する「修羅の諂曲的側面」という二面に分けて考えることができます。そして、そのどちらの側面も、「小岩井農場」の初期形に描かれたように、堀籠に対する過剰で一方的な「〈みちづれ〉希求」と、現実との齟齬において、自覚され記載されたものでした。

 長詩「小岩井農場」は、当初は堀籠に対するこのような心理的=《修羅》的葛藤を主要なモチーフとしていましたが、推敲の過程でそこに含まれる個人的要素は削り取られ、最終的にはただ「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛=宗教情操」に昇華すべきだという理念のみが、高らかに謳われることになります。推敲後の「小岩井農場」では、堀籠の名前すら出ず、ただ「さびしい」とか「さびしくない」とかいう抽象的な言葉だけが残され、そのさびしさの内実は不明なままに最後の「宗教情操」をめぐる大団円に至るので、具体的な意味がわかりにくくなっていますが、もとはこの作品のテーマも、「〈みちづれ〉希求」の処理をめぐる苦悩だったわけです。

 また、トシの死後の「無声慟哭」の章と、「オホーツク挽歌」の章の諸作品が、「トシに向けた〈みちづれ〉希求」の挫折と、その後の苦悩を描いたものであることも、言うまでもありません。そしてここでも賢治は、「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉に集約されるように、「個別的(主観的)な愛」を超克して、「普遍的(客観的)な愛」に昇華しなければならない、という結論に至ります。

 詩集『春と修羅』の最後の章である「風景とオルゴール」では、個別の人間に対する「〈みちづれ〉希求」を昇華する一つの方向性として、「自然への愛」への志向が描かれています。「過去情炎」では、賢治は梨の木に対して「待つてゐたこひびとにあふやうに」接し、「一本木野」では、自然の中を歩く恩恵を「こひびととひとめみること」とでも取りかえると言った後、「わたくしは森やのはらのこひびと」と宣言します。

 以上のように、賢治は己れの過剰な「〈みちづれ〉希求」が招来する苦悩を、詩集『春と修羅』の諸作品を書きつつ推敲しつつ必死で乗り越えて、ついには己を新たな段階に導き入れたように見えます。したがって、彼の生涯のうちで、そのような葛藤が作品のテーマとなっていた時期は、せいぜい数年間にすぎません。
 しかし、若き日の彼がこのような経験をしたことが、その後も含めた彼の作品に、独特の奥深さと陰翳をもたらしてくれたことは、確かだと思います。

 それから、賢治のこの感情は独特なもので、作品の記述などから想像するに、それはおそらく世間一般の「友情」とか「家族愛」などをはるかに超越する強度だったと、考えざるをえません。この「独特さ」を無視して、賢治の具体的行動や作品の描写を、普通人の心理に当てはめて解釈しようとすることから、「保阪嘉内に対する感情は同性愛だった」とか、「トシとの間には禁断の愛があった」などという俗説が生まれてしまうのだと思います。『宮沢賢治の真実』で今野勉氏は、堀籠文之進に対する感情も同性愛として論じておられますが、保阪嘉内の場合も含め、彼らを〈みちづれ〉として求めた賢治の感情を、「性欲を伴った愛」と解釈すべき根拠は、わかっている範囲では何も見出せません。

 私としては、賢治のこの独特の感情に何か名前があった方が、上記のような俗な誤解を招きにくくなるのではないかと思い、とりあえず「〈みちづれ〉希求」と呼んでみた次第です。