想像上の〈みちづれ〉

 柴山雅俊氏の『解離性障害』(ちくま新書)に、次のような箇所があります。

ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
(中略)
  《幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

 素足の子どもたちの幻視は「想像上の友人イマジナリイコンパニオン」がありありとした実在感を獲得したものであろうか。子どもたちは、すでにとりあげた「配偶者シユジユゴス」にみられる「友」「伴侶」「天使」「天の衣」などのイメージと重なる。彼らはまさに、時空を遠く離れたところからやってきた賢治の同伴者コンパニオンである。

 引用されているのは「小岩井農場」の「パート九」の一節ですが、柴山氏は、ここに幻視として登場する子どもたち――ユリア、ペムペルらを、賢治の「想像上の友人イマジナリイコンパニオン」と解釈しています。
 「想像上の友人(Imaginary Companion, 以下ICと略)」とは、幼児が一定期間にわたって架空の(想像上の)遊び相手を持ち、様々な形で交流を行うという現象のことで、たとえば田尻由起氏(「幼児期のICに関する研究 ─ 回顧調査からの検討」2004)は、次のように説明しています。

幼児期の子どもは,自らの想像(創造)した世界で自発的,能動的に遊び,それらに熱中する。そのような遊びの中で,架空の誰か(空想上の友達)を作り出し,それと遊び,話すようになる時期がある。それは現実とは区別されているが,ごっこ遊びや他の遊び同様,自発的意思に基づいた現象となっている。この乳幼児期の子どもの遊びにしばしば登場する仲間,遊び友達を一般にImaginary Companionという。

 ICの出現は、一人っ子や長子など単独で遊ぶ時間が長い子に多いとされ、一般に思春期までには消失するものですが、一部には青年期や成人期以降も存続している場合もあります。
 文学作品でも、ICと解釈できる存在が登場する例は多くあり、たとえばジブリで映画化もされた『思い出のマーニー』にも、そういう側面があります。

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 孤立感を深める少女アンナにとって、マーニーは自分を孤独から救い出し、勇気づけてくれる存在でしたが、賢治にとってのユリアとペムペルも、まさにそのような役割を果たしていました。

 前回も述べたように、「小岩井農場」を書いた頃の賢治は、同僚の堀籠文之進に対して「自分と一緒に歩んでほしい」と強く願う一方(=「〈みちづれ〉希求」)、しかしその思いがかなえられないことから、強い葛藤と孤独感を覚えていました。「小岩井農場」の「パート四」で彼は、何とかしてこの孤独感を振り払い、開き直ろうとしています。

いまこそおれはさびしくない
たつたひとりで生きて行く
こんなきままなたましひと
たれがいつしよに行けやうか
大びらにまつすぐに進んで
それでいけないといふのなら
田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ
それからさきがあんまり青黒くなつてきたら……
そんなさきまでかんがへないでいい
ちからいつぱい口笛を吹け
口笛をふけ 陽の錯綜
たよりもない光波のふるひ
すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
またほのぼのとかゞやいてわらふ
みんなすあしのこどもらだ

 ここで賢治は、堀籠が自分と一緒に歩んでくれないことに関し、「こんなきままなたましひと/たれがいつしよに行けやうか」と自ら認めて、一人で生きていこうと決心します。もしそれでうまく行かなければ、「田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ」というのは、もう教師なんか辞めたっていいということでしょうか。
 しかしこうやって何とか割り切ろうとしても、「それからさきがあんまり青黒くなつてきたら……」との不安がよぎり、やはり奥底の孤独感は拭えません。

 まさにその心の揺れのさなかに、「すきとほるものが一列わたくしのあとからくる」という形で、幻の子どもたちが登場するのです。彼らは堀籠の代わりに、同伴者コンパニオン=〈みちづれ〉として賢治に付き添い、その孤独感を慰藉してくれます。
 そして賢治は彼らと会えたおかげで、「血みどろ」の孤独から救われたということが、「パート九」に記されています。

きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになつて遁げなくてもいいのです

 思えば賢治は、「小岩井農場」の9日前の日付を持つ「手簡」という作品においても、やはり「白びかりの巨きなすあし」をもった存在に対して、懸命に呼びかけていました。

あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出やうと思ひます。
どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一諸にふんで下さい。

 ここでも賢治は、「あなた」と呼びかける存在と、「一諸に往来」することを強く願っています。すなわち、同伴者コンパニオン=〈みちづれ〉を、求めていたのです。

 前回の記事で書いた賢治の「〈みちづれ〉希求」は、もしも現実にかなわなければ、「想像上の〈みちづれ〉イマジナリイコンパニオン」として可視化されてしまうほど、彼にとって切実かつ差し迫ったものだったと思われるのです。