以前に「賢治が愛したバラ」のシリーズ((1), (2), (3), (4), (5), (6))を記事にした際に、「花巻ばら会」の佐香厚子さんからは、いろいろと貴重なご教示をいただいたのですが、このたび、「花巻ばら会」が創立50周年を迎えたということで、佐香さんからその創立50周年記念誌をお贈りいただきました。
下写真が、その立派な記念誌の表紙です。
表紙に描かれているのは、花巻ばら会の象徴とも言える、「賢治のばら」こと「グルス・アン・テプリッツ」ですが、このイラストも佐香さんが描かれたのだそうです。
「50年」と言うと、私の人生ともほとんど重なり合う期間ですが、今から50年前には東海道新幹線が開業して東京オリンピックが開かれ、また花巻では岩手県の空の玄関口・花巻空港が開港したということで、戦後の経済成長を体現するような時期だったわけですね。
『花巻ばら会創立50周年記念誌』の中身を拝見すると、この50年の歴史を彩ったさまざまな貴重なバラの写真が紹介されていますが、私として特に興味を引かれるのは、やはり何と言っても「賢治ゆかりのばら」のエピソードです。
花巻ばら会名誉会長の佐藤昭三さんは、当時の経緯を回顧する文章を寄せておられるのですが、ここには私が7年前に「賢治が愛したバラ」シリーズを書いた時点ではわからなかった、より詳しい情報が記されているのでした。
以下に、佐藤昭三さんによる「賢治ゆかりのばら」という文章より、一部を引用させていただきます。
花巻ばら会が昭和三十九年六月四日に設立され、その総会で佐藤隆房先生を会の顧問に推挙することが決まり、その就任の承諾を得る役を副会長の私が指名されたのであった。
当時の私のメモによれば、「六月五日午後花巻病院顧問」とあり、私が直接院長にお目にかかっている。顧問就任は問題なく快諾されて、市内のばら事情の会話の中で、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」という先生のお話に初耳のことなのでその経緯を尋ねた所「住まいを桜に移したときにばらの苗二十本をお祝いにくれた」のが咲いているから一度見に来るようにとのお誘いをいただいたのだった。
その時に、ばら会創立記念の第一回ばら展を八、九日の両日開催予定していることを報告して、「賢治ゆかりのばら」として会場に特別展示することになり、お庭の貴重な花を採取することをお許しいただいた。その後展示会前日、ばら会員数名で桜町のお宅に伺った。すでに開花が進んでいたがお庭の管理人の案内で「賢治ゆかり」のばらを拝見した。品種名を記した名札が皆無で、同行した会員の知識では判別ができず、よく咲いていると思しき中から数種の二十輪ほどを切り花として頂戴し、フラスコに活けて、八日からばら展会場に特別出品「賢治ゆかりのばら」として市民や入場者に初めて公開してご覧いただいた。
つまり、生前の賢治が佐藤隆房氏にばらを贈っていたという話を、佐藤昭三氏が初めて知ったのが1964年6月5日、そしてそれらのばらの花が初めて一般公開されたのが、同年6月8日だったのです。
すなわち今年は、「賢治のばら」の話が世に知られ、その花が実際に公開されてからも、ちょうど50周年にあたるわけなんですね。
また、この「賢治のばら」のエピソードは、花巻ばら会が佐藤隆房氏に顧問就任を依頼した縁から、ふとした雑談の折りに偶然にも判明したことだったというのも、「不思議なめぐり合わせ」を感じるところです。
ちなみに下写真は、この1964年6月8日・9日に開催された「花巻ばら会・第一回ばら展」に「宮沢賢治ゆかりのバラ」が特別出品された時のものです。
これこそが、その後有名になる「賢治のばら」が初めて世に出た機会であり、まさに貴重な記録と思います。
さて、しかしまだこの時点では、「賢治のばら」の品種が何であるのか、その名前はわかっていませんでした。その品種特定をめぐる次の動きは、花巻ばら会の「25周年」という節目を契機として、訪れたのです。
以下は、再び記念誌掲載の佐藤昭三さんの文章から、「賢治ゆかりのばらの品種判明」より引用させていただきます。
花巻ばら会設立後二十五年を経過した平成二年、日本ばら会の要請により第十回の全国大会を主催することになったが、地方の小都市での開催は初めてのこと、全国から参加するばら愛好家に何かばらにまつわる花巻の話題を提供できないかと検討したときに、賢治が佐藤隆房先生に贈ったばらをお見せすることはどうかという事になった。そこで会員数人で隆房先生宅に伺いその中の一株が明白な特徴があり、市販されている品種でないことを確認した上でこれを増殖することにし、同行した高橋健三会員に要請して接木によって複数の新苗が育てられた。
大会開催中、見事に開花した二鉢に「賢治のばら」の解説をつけて展示公開することができた。このように新苗が育てられたが、品種名が不明のまま「ゆかりのばら」では納得ができず、吉池貞蔵会員(現会長)は「ミスターローズ」と呼ばれた国際的なばらの育種家鈴木省三氏に相談し、苗を贈り、氏はその苗を自ら自宅の庭で育てられた。三年後、見事に咲いた真紅の花はビロードの花弁で甘い芳香が高くて花の女王にふさわしい気品があり、強い印象を与えた。
このばらの名称は和名は「日光」、正式には「グルズ・アン・テプリッツ」という花名であることが分かった。鈴木氏が少年の頃、自宅の庭にあった父が最も大事にしていたばらで、名前も知らずに親しんだ少年時代のばらと運命的な再会だったことを知った。
品種名判定を依頼した鈴木省三氏が、自らの少年時代の思い出のばらと「再会」することになったという逸話は、これまでもご紹介してきたことですが、これもまた「不思議なめぐり合わせ」を感じてしまうところですね。
上の内容から推測すると、「賢治ゆかりのばら」の品種が判明した時期は、「日本ばら会第十回大会」が1990年なわけですから、それから鈴木省三氏のもとに贈られたばらが3年後に開花したとすれば、1993年あたりということになります。
一方、「賢治が愛したバラ(3)」では、京成ばら園で鈴木省三氏の秘書をしていた野村和子氏からの情報として、「賢治のバラが初めて開花した時の写真の日付は1987年だった」という話をご紹介しましたが、この情報とは矛盾してしまうことになります。
どちらが正しいかということは、現時点でははっきりわかりません。ただ、「賢治が愛したバラ(4)」でご紹介した、佐藤昭三氏の文章「宮沢賢治とばら」は、「第10回日本ばら会全国大会記念」としてまとめられたもので、1990年か1991年に書かれたものと思われますが、この文中には「グルス・アン・テプリッツ」という品種名は登場しないことから、この時点ではまだ品種名は判明していなかったのではないかと思われます。したがってそれが判明した時期は、今回の佐藤氏の文章のように、1993年頃だったという可能性が高いのではないかと、個人的には感じています。
それにしても、今回の記念誌を拝見して、「花巻ばら会」がまさに「賢治のばら」と深い縁で結ばれつつ、50年の歴史を歩んでこられたのだなあと、あらためて実感させていただきました。
記念誌をお贈り下さった佐香厚子さんに、ここにあらためて御礼申し上げるとともに、花巻ばら会の益々のご発展をお祈り申し上げます。
【関連記事】
・「賢治が愛したバラ(1)」
・「賢治が愛したバラ(2)」
・「賢治が愛したバラ(3)」
・「賢治が愛したバラ(4)」
・「賢治が愛したバラ(5)」
・「賢治が愛したバラ(6)」
グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園にて)
signaless
先日発売された『別冊NHK趣味の園芸 バラ大図鑑』(NHK出版)には、賢治のバラ「グルス・アン・テプリッツ」のことが詳しく書かれています。
それによれば2000年にこの品種が、世界ばら会連合(WFRS)によって殿堂入りしたこと、明治40年代に渡来し、「日光」の名で親しまれ、当時のカタログには優秀なバラとして顧客の歓迎を受けたと記載されているとのことなどが書かれています。
ヨーロッパはもちろんインドやパキスタンなど暑い所でも丈夫なため、発表後1世紀以上経った今でも世界中で愛培されているとのこと。
もしかして明治の終わり頃から大正~昭和初期には、日本でも広く親しまれた品種だったのかもしれませんね。
hamagaki
signalessさん、韮崎お疲れ様でした。
さっそくにグルス・アン・テプリッツに関する情報を、ありがとうございます。
100年以上前からある品種なのでしょうが、最近になって「殿堂入り」をするとは、世界的にも注目が高まっているのでしょうか。
日本では、上記のような経緯で花巻ばら会が鈴木省三氏に送るまで、いったんはほぼ忘れ去られていた品種だったようなのに、不思議なめぐり合わせですね。
この「殿堂入り」には、賢治のエピソードを契機とした日本における人気の高まりも、一役買ったのだろうかと思ったりします。
賢治の時代の「グルス・アン・テプリッツ」に関しては、賢治が注文したと思われる「横浜植木株式会社」の当時のカタログを、以前に閲覧しに行ったことがあります。
https://ihatov.cc/blog/archives/2007/04/post_458.htm
この頃には、毎年のカタログに必ずグルス・アン・テプリッツは収録されていて、やはり広く親しまれた品種だったのかと感じました。