「新!読書生活~知への旅立ち(2)」に書いたように、去る6月4日に私は最相葉月さんからご著書を2冊もいただいてしまったのですが、その1冊である『青いバラ』(新潮文庫)は、さっそく帰りの新幹線の中で、おもしろく読ませていただきました。
青いバラ 最相 葉月 (著) 岩波書店 (2014/9/17) Amazonで詳しく見る |
文庫本で600ページもあるこの本は、たしかに一つのノンフィクション作品なのですが、その内容を一言で表現するというのは、なかなか至難です。
ある時著者は、従来は不可能とされていた「青いバラ」を、日本のメーカーが遺伝子工学によって作り出そうとしていることを知りました。ここがすべての出発点ではあったのですが、そこから著者の旅は、古今東西の文学や伝承の世界、錬金術、西洋におけるバラ育種の歴史、日本におけるその歴史、そして植物色素の生化学や遺伝子工学によるその改変方法に至るまで、バラに関してはあらゆる方面に及びます。
それは文中で引用されている『千一夜物語』のシンドバッドの冒険のようでもあり、また先日の荒俣宏さんとの対談で最相さんは、「細部にのめりこむことの喜び」という言葉を語っておられましたが、まさに極端な「のめりこみ」と、その快楽があふれています。
一方、このような時空を駆けまわる旅の節目ごとに著者は、日本におけるバラ育種の第一人者であり、海外の専門家からも「ミスター・ローズ」と呼ばれていた鈴木省三氏(右写真)のもとを訪ね、日本のバラの歴史、人間とバラとの関係、「青いバラ」をどうとらえるべきかということなどについて、意味深い対話を重ねていきます。
結局、青いバラをめぐる作者の旅は、文中で引用されているノヴァーリスのロマン的長編『青い花』のように、老人に導かれつつ続けていく、はるかな「内面の旅」という意味あいを帯びて現れてくるのでした。
長年にわたり日本のバラ界を先導してきた鈴木省三氏は、すでに85歳を越えて一線を退いていますが、その貴重な知恵をこの世に残そうとするかのように、最相さんを何度も自宅のバラ園に招き入れては、この花について優しく説いて聞かせてくれます。その慈愛に満ちた姿は、賢治の言葉でいえば、「師父」というイメージですね。
しかし本の末尾が近づくと、著者は鈴木氏を入院中の病室に訪ねるようになってしまいます。そして最後が鈴木氏の葬儀で終わるところは、ノンフィクションでありながら、まるで一つの大きな物語が閉じられるような印象でした。
さて、最相葉月さんがこの本に添えて、先日私に下さったお手紙によれば、現在までの多岐にわたる取材活動の中で、最相さんはしばしば宮澤賢治に「ニアミス」をするという体験をしておられるのだそうです。この『青いバラ』の277ページには、最相さんが貼っておいて下さった小さな付箋が付いていたのですが、そこにその「ニアミス」の一つが触れられていました。
鈴木省三氏がまだ子供の頃、お父さんが一株200円もする赤く美しい花を買ってきたということです。これが鈴木氏と、バラの花というものとの初めての出会いで、その時に見たバラが何だったのか、鈴木氏自身もその後ずっとわからなかったのだそうですが、最初の出会いから40年もたってから、ふとしたきっかけでその思い出の花は「グルス・アン・テプリッツ」という品種だったことが判明しました。そして、この運命的な再会を仲介したのが、奇しくも宮澤賢治だったというのです。
1956年、鈴木氏は花巻温泉株式会社から、賢治が設計した「南斜花壇」の跡地をバラ園にしたいという依頼を受け、その企画設計を担当することになりました。その後、花巻から鈴木氏のもとに一株のバラが送られてきて、そこには「賢治がこよなく愛したバラ」との説明が付けられていたということです。そのバラを見た鈴木氏は、これこそ自分が40年前に初めて見たバラだと気づき、その株を自宅庭の書斎に一番近い場所に植えたということです。
鈴木省三氏の父は、駒込動坂に当時あった「ばら新」というバラ園で、「グルス・アン・テプリッツ」―日本名では「日光」―というバラを買い求めて来たとのことですが、最相さんは、賢治も上京の折に、この「ばら新」に立ち寄ったのだろうかと推測しておられます。
大正時代、「ばら新」は芸術家の間でも有名で、森鴎外の短編小説「天寵」にもこの店の名は登場し、また画家の村山塊多も、「ばら新」のバラを描いているのだそうです。
ということで、こんなすばらしいエピソードがあったのならば、賢治の側の資料からも、彼が愛した「グルス・アン・テプリッツ」に関する記述がないか当たってみようと思ったのですが、ちょっと調べてみたところでは、賢治自身が書いた一次資料の中には、この品種名は見あたらないのですね・・・。
[ この項つづく・・・]
はやし よしこ
青いバラの話は、よく聞きますが、賢治もお好きだったんですね。
珍しい、思い出のバラのお話も、たいへん面白く読ませていただきました。
hamagaki
はやし よしこ様、こんにちは。
「青いバラ」を求める人々の努力が、今も営々と続けられているように、「賢治のバラ」を探究する関係者の方々の営みも、実は今も続いています。
また、私も何か情報を得ましたら、当ブログにてご紹介させていただきます。
最相葉月さんに関しては、最近出された『星新一 1001話をつくった人』という評伝が素晴らしかったです。お勧めの本です。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
かぐら川
はじめまして。
nenemuさんの《イーハトーブ・ガーデン》の「グルース・アン・テプリッツ」(2007.08.16)に、コメントを書かせてもらった際、「テプリッツ」に関して浜垣さんの2006.10.07の記事《後ろ手を組み、野を歩く姿》の中の、ベートーヴェンとゲーテの絵を、リンク参照させていただきました。
ご報告と、お礼に、書き込みさせていただきました。
賢治の豊富な話題に息をのむ様な気持で――まだ記事のほんの一部ですが――読ませていただきました。
hamagaki
かぐら川様、はじめまして。書き込みをありがとうございます。
nenemuさんの「イーハトーブ・ガーデン」から、テプリッツに関する話題を拝見させていただきました。
その後ちょっと調べてみたところでも、ゲーテとベートーヴェンのこのエピソードは、テプリッツにおいてのことだったようですね。
それにしても私自身、一方では賢治のバラについて関心を持ったり、また一方で賢治の銅像のポーズの話からベートーヴェンとゲーテを題材とした絵に触れたりしておきながら、この両者が「テプリッツ」という温泉町を共通項としていることには、今回のご指摘まで気づきませんでした。
貴重なご教示をいただき、ありがとうございました。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
それから余談ですが、日記お書きになっている、玄侑宗久『慈悲をめぐる心象スケッチ』に関して。
私も、これはプロの仏教者の立場からの、賢治に対する「挑戦状」と思いました。
優しい言葉に包んではありますが、かなり手厳しい指摘で、他にはない貴重なものとはいえ、この角度から切り込まれると、賢治もちょっと可哀相かな・・・、と思ったりしました。
かぐら川
さっそく、コメントお書きくださり有り難うございました。
あらためて上の「賢治が愛したバラ(1)」を、読んでいましたら、最初読み飛ばしていた“鈴木省三氏の父は、駒込動坂に当時あった「ばら新」というバラ園で、「グルス・アン・テプリッツ」―日本名では「日光」―というバラを買い求めて来たとのことですが、最相さんは、賢治も上京の折に、この「ばら新」に立ち寄ったのだろうかと推測しておられます。”の部分が、いろいろ想像をかき立ててくれました。
浜垣さんのバラ論考を熟読していませんし、最相さんの本もまだ読んでないのですが、仮に賢治が「バラ新」を訪れたとしたら
それはいつの上京の折になるのだろう?という問いが浮かんできました。。
net上の情報によると「ばら新」は、駒込動坂988番地ということですが、この地番は明治当初のもののようで、明治40年の地図を引っぱり出してみましたが、そこには900番台の地番は全く存在していません。その後の(明治後期の)の新地番を知りたいところですが、宮本百合子さんの小説「道灌山」によれば「ばら新」は、動坂の広い通り沿いにあったように読めます。
http://www2.tcn.ne.jp/~urakawah/wamei2.htm
http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/4028_12724.html
(「動坂」は、私がその足跡を追っている富山県出身の明治期の作家“三島霜川”が一時居住していたところで、その付近を歩いたこともあり、興味のある地域なのです。)
田舎者とはいえそうした私の多少の土地鑑によれば、“賢治と駒込”ですぐ思い出すのは、1926(大15)年12月に賢治が高村光太郎をそのアトリエ(*)に訪れたことです。
*本郷区駒込千駄木林町25(現・文京区千駄木五丁目22-8)〕
とすれば、1928(昭3)の大島からの帰りに寄ったとすれば、多少とも「バラ新」は、馴染みのある土地にあったかも・・・ということになるだろう、ということです。
ちょっとした余談雑談でした。
なお、お暇な折に賢治の東京を追いかけた雑文を日記にいくつかかいていますので、笑読いただければ幸いです。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20041203
hamagaki
かぐら川様、貴重なご教示をありがとうございます。
グルス・アン・テプリッツが「賢治のバラ」と呼ばれるようになった契機は、賢治が花巻共立病院院長の佐藤隆房氏に贈ったバラの中に、この品種が確認されたということにあり、その確認をした鈴木省三氏が、このエピソードを紹介したことで、一気に有名になったようです。さらに、賢治は佐藤氏に贈ったそのバラを、「横浜植木」という輸入商に注文して購入したと佐藤氏が言っていたと、「花巻バラ会」の前会長さんが証言しておられます(「賢治が愛したバラ(4)」)。
しかし、賢治がこのバラの実物を一度も見たことないままにカタログ注文したのか、どこかで実際に見たことがあったのかと考えてみると、後者の可能性は十分に考えられ、その場合には、賢治のバラ体験の場所としては、「ばら新」は有力な候補地だと思います。
賢治が佐藤隆房氏にバラを贈ったのは、1928年(昭和3年)秋のことと推測されますので、大島旅行の途中に「ばら新」に立ち寄っていて、そこでグルス・アン・テプリッツを目にしていたことも考えられますね。
ちなみに、最相葉月さんの『青いバラ』によれば、「ばら新」は現在の文京区本駒込3丁目17番地、都立駒込病院の裏あたりにあったということです。
かぐら川様の「東京の賢治」に関する文章は、だいぶ以前に何かを検索している時に見つけて、すぐさまブックマークして、拝読させていただいておりました。私は東京にはほとんど土地勘がないのですが、読ませていただいていると、不思議にあちこちの風景が感じられるように思いました。
はやし よしこ
「趣味の園芸」で、10月のバラの育て方が掲載されていました。
ブルームーンというバラが、写真入りで載っていました。
育てるのが難しいそうです。
専門的に詳しいわけでは、ないので、青バラと名前が似ているだけなのか、わかりません。
hamagaki
はやし よしこ様、書き込みをありがとうございます。
最相葉月さんの『青いバラ』によれば、<ブルー・ムーン>とは、下記のような品種だそうです。
おそらく写真で見られたらおわかりのとおり、ふつうに言う「青色」ではありませんが、美しくて気品を感じますね。
はやし よしこ
遅くにすみません。
母の介護の話に息づまると、気持ちが晴れるので、パソコンに向かってしまいます。
写真の、ブルー・ムーンも、確かに、青い色というより、水色と薄紫の間みたいでした。
目の不自由な方に、色の説明をしてくださいと頼まれたことがあるのですが、とても、わたしには、難しく、できる時に少しづつしている状態です。
こんな微妙な説明は、どうすれば良いのだろうと、ふと、思ってしまいました。
めくらぶどうの美しさと言葉の印象とのギャップに戸惑った時を思い出します。
コメントありがとうございます。
はやし よしこ
量が多かったようで、エラーでました。
コメント、ありがとうございました。
夜、遅く、すみません。
確かに、青い色ではなく、水色と薄紫の間のような色でした。
こばやしとしこ
賢治の愛したバラ「日光」は、栃木県真岡市の井頭公園の植物園にも育っています。
花巻ご出身で、賢治を愛する方が園の責任者だった時、移植なさって、栃木・賢治の会の会員の方も育てている方もあります。
時を経たお話ですが、たまたま今日拝読したので、投稿しました。
hamagaki
こばやしとしこ 様
ご教示ありがとうございます。
栃木県でも、賢治を愛する方々の力で、バラが育てられているのですね。
私は、バラについてはまったく知識がなかったのですが、花巻温泉バラ園で「日光」を見て、その高貴な雰囲気に心動かされました。
またつい昨日には、賢治セミナーで三陸地方へ行ってきたのですが、そこで栃木・賢治の会の方にもお会いすることができました。
機会があれば、真岡市の井頭公園にもぜひ行ってみたいと思います。
このたびは、ありがとうございました。
こばやしとしこ
実は、私は三陸の賢治セミナーで、初めて浜垣先生にお会いしたものです。
セミナーは本当に濃密な時間でした。有難うございました。
私はバラの栽培には自信がありませんが、同行したAさん他2・3名ががバラを育てています。
今度お会いしたら、バラのお話もしたいと思います。