これまで、(1)、(2)、(3)と書きついできた、「賢治が愛したバラ」シリーズですが、今回でやっと一段落をつけることができそうです。
先日、岩手バラ会会長の吉池貞蔵さんが、私の質問に対して丁寧なお返事を送って下さいました。おかげさまで、これでだいたい私が当初疑問に思っていたことは解決したのです!
吉池さんのお手紙の主要部分、私の質問に対して箇条書きでお答えいただいているところを引用させていただくと、以下のとおりです。
- 「(花巻病院院長宅のバラは)賢治が手植えしたものである」という件
このことについては、元花巻バラ会会長(現顧問)である佐藤昭三氏が、同封(下記に掲載)の「花巻市の断片と花巻バラ会」の文中、「宮沢賢治とばら」の中でも書いておりますので、佐藤昭三氏に、今回の事は、誰れから聞いたのかと、おたずねしましたところ、昭和30年代後半頃に花巻病院院長の佐藤隆房氏から直接聞いたとのことでした。
- 「宮澤賢治がそのバラを愛していた」という件
これについては、(賢治が)どうゆう経過でこの品種を選んだのか等については全くわかりません。
- 「そのバラ苗を鈴木省三氏にお送りしてみようという話…」の件
私がこの話を聞いたのは昭和60年頃と思います。
何故、こんな頃にそんな話しがでたかと申しますと平成2年10月に花巻で「第10回日本ばら会展」を開催することになり、何か県外から見える方々にバラにまつわる花巻の話題を提供できないかと検討した際に賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラが話題となり、その方向に進んだように思います。
そこでバラ会員数名で、佐藤隆房宅のバラを見に行き、たしかに現在は市販されていない品種であることを確認し、増殖することになったが品種名がわからないという話になり、それでは現在、バラの品種にくわしい鈴木省三氏に聞いたらどうかと言うことになり、鈴木氏に判定をお願いしたわけです。
- 「賢治の生家にも植えられていたという話…」の件
この件について前述の佐藤昭三氏に伺いましたらば「生家には植えていなかったでしょう」とのことでした。
小生もそのように思います。その理由は校本宮澤賢治全集第12巻(下)p222の〔花卉植付・開花期一覧表〕を見るとバラの開花期が4月中旬~5月末となっていますが、この時期には岩手ではバラは開花しませんので多分暖地の資料を参考にして作られたものと思います。自分で栽培していればこのような表記はしないものと思います。
- 「宮澤賢治もイギリスから直輸入した記録がある」の件
これについては佐藤昭三氏の同封の記事にもありますように、「横浜の輸入商『植木』から取り寄せて…」と佐藤隆房氏が話したとのことですので、直輸入ではないと思います。
下記は、「第10回日本ばら会全国大会記念」としてまとめられた資料で、1991年に出されたものと推測されます。著者は、当時の花巻バラ会の会長である佐藤昭三氏です。
というわけで、結局グルス・アン・テプリッツというバラは、賢治が昭和4年(1929年)頃に、横浜の輸入商から取り寄せて、佐藤隆房氏の新居の庭に手植えしたものだったというわけですね。
そのバラが枯れることもなく、花巻の空襲にも耐え、平成の時代にまで生き延びてくれていたことが、まず第一番目の幸運でした。
さらに、たまたま平成の初めに花巻で日本ばら会の全国大会が開催されることになり、地元のバラ会の方が佐藤隆房氏の昔の談話を思い出してくれたことが、二つめの幸運でした。
そして、その苗が「バラの神様」こと鈴木省三氏のところに送られ、ここでまたさらに偶然が重なったことには、このバラは鈴木氏にとっても子供の頃の思い出深い品種だったので、鈴木氏は1995年に、賢治と自分をつないでくれたそのエピソードを、コラムに書いて紹介して下さいました。
この話が、鈴木氏のバラ界における絶大な影響力と、おそらく1996年の賢治生誕百年ブームにも乗って、一挙に全国のバラ愛好家の方々の間に広がったものと思われます。
振り返ってみれば、さまざまな幸運の連鎖のおかげで、「グルス・アン・テプリッツ=賢治が愛したバラ」というお話が、現代の私たちにもたらされた感じです。
賢治が佐藤隆房氏宅にバラを植えたのが「昭和四年」という点についてだけ、実は私にはまだ疑問が残っているのですが、しかしこれで話の全体像はつかめました。
今回の「賢治とバラ」をめぐる冒険では、たくさんの方々にお世話になりましたが、とりわけ、最初の出会いを与えていただいたノンフィクションライターの最相葉月さん、直接グルス・アン・テプリッツを見せていただいて地元での経緯を教えていただいた花巻温泉バラ園園長の高橋宏さん、今回のお手紙を下さった花巻バラ会元会長の吉池貞蔵さん、そして間接的ながら情報をお寄せいただいた、バラ研究家の野村和子さん、花巻バラ会元会長の佐藤昭三さんに、ここで厚く御礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。
ミント
以前コメントさせていただきました。続報を読むことができて大変うれしいです。私も図書館の本で自分なりに調べていて、昨日うれしい文章を見つけることができたのでお知らせいたします。上記の内容に登場する佐藤隆房先生が昭和17年に出された「宮沢賢治」と言う本にたくさんのエピソードが紹介されていました。その中に「真夏の一日」という項目で病気療養中の賢治が昭和4年の真夏に先生の自宅に遊びに来て庭で2人楽しく過ごしたことが書いてあります。秋になって賢治から立派な薔薇の苗20本が届けられたとか。体力が弱っていた賢治がたくさんの薔薇を自ら植えるのは無理かもしれないと思えるのですが。昭和7年に先生宅の薔薇を囲んで9人の女性が写っている写真がありますが私には何本もの薔薇の鉢植えを並べているように思えます。この中にグルス・アン・テプリッツもあるのでしょうね。20本のうち2種が残っている・・。ほかにどんな薔薇が贈られたのでしょうか、気になります。こうして知りたいと思っていたことがこのページで詳しく教えていただけて感激です。ありがとうございました。
hamagaki
ミント様、忘れずにいて下さって、さっそくにコメントをお寄せいただき、ありがとうございます。
ご指摘いただいた佐藤隆房著『宮沢賢治』(冨山房)のなかの「真夏の一日」という一章は、偶然ながら私も最近、ふと気がついて読んでみていたことろでした。
> 体力が弱っていた賢治がたくさんのバラを自ら植えるのは無理かもしれないと
> 思えるのですが。
というミント様のご指摘のとおり、私も昭和4年という時期の賢治には、とうていこれは不可能だろうと感じつつ読んでいました。現在の私の推測では、これは佐藤隆房氏の記憶違いで、昭和4年ではなくて昭和3年など別の年だったのではないかと思っています。
この詳細については、また稿をあらためて書きたいと思っています。
昭和7年の、院長宅の薔薇を囲む賢治の近親の女性たちの写真も貴重ですね。この写真は、本からスキャンしてまた近いうちに記事でも紹介させていただきます。
ところで、私のようなバラの素人にはわからないのですが、この写真は「薔薇の鉢植えを並べている」可能性があるのでしょうか。写真が不鮮明でよく見えませんが、たしかに言われてみれば、地面から生えているにはちょっと密集しすぎているような感じもします。
佐藤隆房氏が言うところの「賢治がバラを手植えした」というのは、地面に植えたのか鉢に植えたのか、いったいどちらだったのかという問題にも関わりますので、この辺の見方について、ご教示いただければ幸いです。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
ミント
こんばんは。同じ頃に同じ本を読んでいたなんて何だか不思議ですね(勝手に済みません)。
私は賢治の細かい所は勉強不足なのでよくわからないので、佐藤先生の記憶違いとは思いませんでした。バラの苗は賢治がカタログなどで注文して届けられたのだと思ったのです。そして植え方を賢治が何らかの形で指導したのでは、と。鉢植えの仕方かあるいは地植えの方法を紙に書くか、実際に1本デモンストレーションしたかもしれません。あとは誰かに頼んだとは考えられないでしょうか。
写真については私の勝手な解釈なのであまり参考にはならないかと・・・。
庭園とあるのですが私は背景の様子からして和風の庭園と思いました。和風の庭にこれだけバラをかためて植えるでしょうか。当時の着物事情はぜんぜん解らないのですがバラの咲く初夏では羽織は暑くて来ていられないのでは?(改まった席で無理してきている可能性もありますが)。私は季節は秋ではないかと思いました。輸入された高価なバラを花巻の冬を無事に越させるためには鉢植えで管理するほうがいいのではと考えたのではないでしょうか。
パソコンは苦手なのでうまく画像を処理できないのですが拡大してみると、私には9本くらいあるように感じます。そして右側の女性の足元には鉢の丸い縁のようなものが見えるような・・・。中央下あたりにも鉢の丸みが何個かあるような・・・。済みません、私もバラには詳しくないので勝手な解釈をして色々想像しています。