賢治が愛したバラ(2)

 加倉井さんの「賢治の事務所」の「緑いろの通信6月12日号」には、先月の篠山セミナーの折に会場に飾られていたという、美しい「グルス・アン・テプリッツ」の写真が掲載されています。記事の中では、当ブログの「賢治が愛したバラ(1)」についても触れていただきましたが、前篇から少し間が空いてしまって申しわけありません、今回がその続篇です。
 あらためて確認しておくと、この件に関する私自身の問題意識は、「生前の賢治が、グルス・アン・テプリッツというバラを愛していた(あるいは栽培していた)」という話は、どこに由来し、いかにして広まったのか、ということです。


1.賢治側の資料から見る

 まず、宮澤賢治自身が書き残したもの、あるいは直接に生前の賢治を知る人が書いた資料等から、賢治とバラの関連を見てみます。

 賢治が、園芸あるいは花卉栽培ということをある程度本格的に行っていたのは、(1)羅須地人協会時代(1926年4月~1928年8月)および、(2)病臥からの回復期(1930年3月~秋頃)という二つの時期に、大きく分けて考えることができます。さらに(1)は、その植栽場所の観点から、a.下根子の居宅周囲における花卉栽培、b.花巻共立病院や花巻温泉遊園地における花壇造成、という二つに分けることができます。
 花巻農学校教師時代にも、賢治が率先して学校内に花壇を作っていたことが生徒たちの証言から明らかになっていますが、そこに植わっていたのは、「実習の時間に生徒と野外に出かけ、コブシやミズキ、ニシキギなどの木を掘ってきて植樹した」ものが中心で、店で購入するような花卉は植えていなかったようなので(伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』)、今回の考察から除外します。

(1) 羅須地人協会時代

 (1)のa.に関しては、元教え子の菊池信一が1926年6月に下根子を訪ねた時の様子を、次のように書いています。

特徴の著るしい先生のペンになる地図をたよりに国道を折れ更に小芝の生々しい路に出ると、もう先生の理想郷が直感された。路にそうて短い落葉松がまばらに植付けられ、それもきれた向ふの端には銀どろが精よくのびて、風もないのに白い葉うらが輝いてゐた。更に西向に突出た玄関へと連る道の北側には空地に型どつた三角形の花壇があり、ひなげしであったか赤と黄が咲き乱れてゐた。玄関の横には大きな黒板が掲げられ、内は森として静まり返つてゐた。(中略)蔓ばらは数本植付けられて壁に誘引せられ、庭松の下蔭にはチューリップの球根が風乾されてゐた。

 ここからは、賢治が居宅のまわりに「蔓ばら」を数本植えていたことがわかりますが、「蔓」であることから、残念ながら「グルス・アン・テプリッツ」ではありません。もちろん、上の記載以外にもいろいろ植えていた可能性はありますが、今のところ私が確認できた範囲では、これ以上の詳細はわかりません。

 (1)のb.に関しては、「花壇工作」「病院の花壇」などの作品や、元教え子の冨手一あてに送った書簡、さらに「MEMO FLORA ノート」に記載された花壇図案やそこに植えようと企画した花の名前などが、参考になります。

 「花壇工作」は、賢治が花巻共立病院の花壇の作成に取りかかる様子を描いた短篇で、1926年9月頃のことと推測されていますが、この中には次のような会話が出てきます。

そのとき窓に院長が立ってゐた。云った。
(どんな花を植えるのですか)
(来春はムスカリとチュウリップです。)
(夏は)
(さうですな。まんなかをカンナとコキア、観葉種です、それから花甘藍と、あとはキャンデタフトのライラックと白で模様をとったりいろいろします。)

 一方、「病院の花壇」という詩は、花壇を作った翌春に、黒っぽいヒアシンスが咲いてしまって病院としては縁起が悪いので、賢治はそれらを切ってキャンデタフトを播こうと考えているという内容です。
 どちらの作品にもバラは登場せず、賢治が病院に作った花壇には、バラは植えられていなかったのではないかと思わせます。

 次に、花巻温泉株式会社園芸部に勤務する冨手一あての1927年4月書簡[228]は、温泉敷地内に造成する「南斜花壇」の詳細な計画を記したもので、花壇に植えるための36種もの草花をリストアップしてあります。アンテルリナム(金魚草)に関しては10品種、千重咲ペチュニアに関しては7品種もが挙げられていますが、このリストにはバラは一つも入っていません。

 一方、いわゆる「MEMO FLORA ノート」は、上記の分類では(1)の時期に記載された部分と(2)の時期に記載された部分が混在していると考えられています。このノートには有名な「涙ぐむ眼の花壇」を含めて8種類もの花壇図案が描かれていますが、伊藤光弥氏はこれらの花壇は、(1)の時期に書かれたものと推測しておられます花壇No.7(洋々社『イーハトーヴの植物学』)。
 これらの図案には、花壇のそれぞれの区画に植えるべき花の種類も書き込まれていて、それを通覧すると、‘No.7’と題された花壇(右写真)には、‘Tea rose’との記載があります(右端の中ほど)。
 「ティー・ローズ」は、日本でも明治以来愛好されていたバラで、賢治の書きこみを見ると、これを花壇中央に植えてテーブル状に刈り込むという案のようです。しかし、この花壇が実際に作られた証拠は残っていませんし、何よりもこのティー・ローズというのは「グルス・アン・テプリッツ」とは異なった系統です。

「薔薇園」注文メモ やはり「MEMO FLORA ノート」のA15頁と呼ばれるページには、賢治が花の種や苗を注文するために書きつけたと思われるメモがあります(右写真)。この左上端に、「薔薇園」との文字が見え、その下には「¥ 10.00」「菊混合100 3.50」「種子 3種 .90」「バラ 10種 2.00」、そして合計を表す横線が引かれ、「6.40」と記されています。「薔薇園」は、「しょうびえん」と読むのですが、大正時代から東京の芝公園にあったバラ園で、欧米から輸入したバラを販売するバラ専門店でもありました(最相葉月『青いバラ』)。
 この書き付けは、賢治が薔薇園にバラ10種を含む花卉を注文するための覚え書きと思われ、時期としては(1)すなわち羅須地人協会時代のものと推測されます。賢治はこれらのバラを自宅用に買おうとしたのか、それとも他所に造成する花壇用に買おうとしたのかが問題ですが、一度に10種ものバラや他の種子も注文しようとしていることからは、自宅用ではなくて比較的大規模な花壇用なのではないかと、私は思います。
 さらに、上記のように花巻共立病院の花壇や花巻温泉の南斜花壇には、バラの植栽が計画されていなかったことを考えると、このバラは同じ頃に花巻温泉に賢治が造成した「日時計花壇」「対称花壇」のためのものだったのではないかと思われます。
 しかし、この10種のバラの具体的な品種名は書かれていませんので、ここに「グルス・アン・テプリッツ」が含まれていたかどうかについては、不明です。

 羅須地人協会時代の最後に、賢治が1928年6月の東京~大島旅行において使用したと思われる「MEMO FLORA 手帳」呼ばれる手帳があります。この中には、賢治が上野の帝国図書館で園芸関係の本を閲覧してメモしたと推測される部分があり、ラテン語の学名で64種もの草花の名前が羅列されていますが、この中にもバラの仲間の名前は一つもありません。
 このリストの目的について伊藤光弥氏は、「大島の伊藤に園芸の知識を手ほどきするための下調べだったとも考えられるし、あるいは花巻に戻って草花栽培を再開するための準備だったかもしれない」と推測しておられますが、いずれにしても当時の賢治がバラ栽培に関心を持っていた証拠は、このノートには認められません。

(2) 病臥回復期

 大島から帰って間もなく、1928年の8月に結核性の肺炎を発症した賢治は、いったん入院してから豊沢町の実家に戻り、一時は生死の境をさまようほどの状態にも陥ります。しかしその後徐々に回復して、1930年の春頃には床から起きて軽作業もできるようになりました。
 「MEMO FLORA ノート」の余白には、この年の3月26日から31日までのものと推測される簡単な日記が書きつけられていて、そこにはパンジーやミニオネット(モクセイソウ)の種を播いたという記載があります。
 さらに、4月4日の高橋武治あて書簡[260]には、「もう私も一日起きてゐて、またぞろ苗床をいぢり出してゐますから、どうかご安心下さい。」との記載があり、4月8日付けの冨手一あての書簡[261]に至っては、賢治は次のように書いています。

先頃は立派なヒアシンスをありがたう存じました。いゝ時候になりました。小生又もや苗床を作って花の仕度をしました。結局園芸から手は切れさうもありません。
就いて突然ですがあなたの処でダリヤの球の余るのはありませんか。もし余分があれば一種一球づつお譲りを得たいのですが。尤も高価なのは手が出ません。ありふれたものでいゝのです。私の方ではこの夏、ヒアシンス色分二百球、ダッチアイリス五種四十球、水仙十八種五十球、オーニソガラムその他百球などできますが、それらと交換でも願へるなら特に有り難い次第です。今春は中菊は三十種洋菊は十六種とりました。例のサガ菊はやめました。ご返事はお葉書で下さい。よければこちらから誰か頂きに上げます。まづは。

 4行目に出てくる「あなたの処」とは、冨手一氏の勤務先である花巻温泉の花壇でしょうね。それにしても、開花を待ち望むたくさんの花々を書き連ねた文面からは、病気が回復してまた園芸に精を出せる賢治のよろこびが、生き生きと伝わってくるようです。

 一方、この年に使用していた「銀行日誌手帳」と呼ばれる手帳には、4月から6月に至る草花の栽培日記と栽培品種のリストが記されています。これを見ると、この年に賢治が実際にどんな花を育てていたかがわかるのですが、伊藤光弥氏の解読による109種(!)にもおよぶ草花のリストの中に、バラの類は一つもありません。
 また、「銀行日誌手帳」と同じ頃に使用されていた「布装手帳」には、やはり21種の草花の名が記されていますが、やはりここにもバラは含まれていません。

 この年の10月24日付けの冨手一あて書簡[278]には、「県下菊花品評会」の事務局をしていた冨手から、品評会の審査員を依頼されたことの返事として、「光栄だが、医師の勧めで外出は控えているので、出品者として参加したい」ということを書き送っています。この時期には、品評会に出したいと思えるような菊も育っていたのですね。

 翌1931年になると、いったん回復した賢治は東北砕石工場の技師として、東北各地への営業活動に忙しく飛びまわるようになります。並行して園芸もある程度は続けていたでしょうが、具体的な記録は残っていません。しかし、1930年に比べると、それに注ぎ込める時間は大幅に減少してしまったと思われます。

 結局のところ、病臥回復期にも、賢治がバラを育てていたという証拠は見つからないのです。


 全体を総括すると、賢治の側の資料から言えることとしては、彼が何らかの形でバラを取り扱ったのは、羅須地人協会時代に花巻温泉の花壇造成のために「薔薇園」に10種のバラを注文したという可能性がある、ということぐらいしかありません。

 このあたりの領域に関する研究書としては、伊藤光弥著の『イーハトーヴの植物学』(洋々社)および『宮沢賢治と植物』(砂書房)がありますが、いずれにおいても賢治とバラとの関係は言及されていません。また、洋々社の『宮沢賢治』シリーズの第16号(2001)には、今回の私の課題にとっては格好の「賢治の愛した植物」という題名の特集が組まれていますが、ここにも賢治が何らかのバラを愛していたという記載はありませんでした。


2.バラ側の資料から見る

 ところがこの問題は、バラ愛好者の側から見ると、まったく違った様相になっているのですね。

 ネットで「宮沢賢治 グルス・アン・テプリッツ」と入力して検索を行うと、たくさんのページがヒットします。たとえば、下記のサイトやショップにおいて、「グルス・アン・テプリッツ」は、「賢治が愛したバラ」として紹介されています。

 私はこれらのサイトの作者の方々にメールを出して、「このバラを賢治が愛していたということをどこで知ったのですか?」と質問をしてみたところ、返ってきたお返事は全て、「図鑑などの記載で知った」ということでした。
 ある方は、「書店に並んでいる薔薇図鑑や薔薇の栽培本、グルスアンテプリッツの記載があるもののほとんどに、宮沢賢治うんぬんと書いてあります」と教えて下さったので、昨日私は実際に本屋に行ってみました。バラに関する書籍で「グルス・アン・テプリッツ」という品種が掲載されているものとしては、下記の5種類の図鑑がありましたが、教えていただいたとおりその5冊全てに、このバラ品種と賢治との関係について、記載があったのです。下記で、書名の下の文が、賢治に言及している部分の抜粋です。

 つまり、この話は「バラ愛好家」の間では、非常に「有名」な事柄だったんですね。しかし一方の「賢治愛好家」の間では、どうでしょうか。少なくとも私は知りませんでしたが、皆さんはどうですか?


3.鈴木省三氏と謎のX氏

 上の5冊の図鑑のうちで、最も説明が詳しいのが、『オールド・ローズ 花図譜』の、「鈴木省三によると、岩手県花巻の宮沢賢治設計の花壇で栽培されていたものが、この「日光」であったという。」との説明ですね。「日光」とは、グルス・アン・テプリッツの和名です。
 鈴木省三氏と、グルス・アン・テプリッツ(および賢治)の関わりは、すでに「賢治が愛したバラ(1)」に書いたとおりですが、もう一度おさらいをすると、鈴木氏がグルス・アン・テプリッツと「再会」した時のことは、最初葉月著『青いバラ』に、次のように記されていました。

 再会したきっかけは、一九五六年(昭和三十一)、花巻温泉にある宮沢賢治のつくった南斜花壇の跡地をバラ園にしたいという依頼を受け、鈴木がその設計を担当したことだった。その後、花巻から、賢治がこよなく愛したバラだと送られてきた一株のバラを見た鈴木は、これこそあの記憶の中のバラだと気づき、早速自宅の庭の書斎に一番近いところに植えたのである。

 さてここで、上記の文章において、私がとくに注目しておくべき重要な点と考えるのは、「鈴木がその(=花巻温泉バラ園の)設計を担当したことだった。」とあって、「その後、花巻から、賢治がこよなく愛したバラだと送られてきた・・・」と続くところです。
 つまり、鈴木氏が花巻温泉バラ園の設計作業を行っている過程においては、彼は「宮澤賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」という話は、まだ知らなかった様子なのです。この文章が示しているのは、鈴木氏がバラ園の設計を終えて、何らかの時間間隔をおいてから、突然グルス・アン・テプリッツが自宅に送られてきたこと、そしてその時彼は初めて、賢治がこのバラを愛していたという話を知った、ということです。

 この事実経過は、次の二つの事柄を示唆してくれます。

 一つは、鈴木氏がグルス・アン・テプリッツを受け取った時点で、「賢治がこれを愛していた」という話は、日本におけるバラ育種の第一人者さえも知らない情報だったということ。これは、上に見てみたような現在のバラ界の状況とは雲泥の差で、少なくともこの話が広まったのは、鈴木氏のエピソードよりも後だった、ということが言えます。

 もう一つは、花巻から鈴木氏にグルス・アン・テプリッツを送ったのは、鈴木氏にバラ園設計を依頼した直接の当事者ではなかった可能性が高い、ということです。
 もしも、バラ園設計依頼者が、依頼の時点で「賢治が愛したバラ」の話を知っていたとしたら、バラ園の企画を鈴木氏に考えてもらうにあたって、これほど興味深い話を出さずにいるとは思えません。知っていながらそれを隠しておいて、終わってから突然バラの株とともに送りつけるというのはあまりにも不自然ですから、花巻温泉バラ園の担当者たちも、やはり当時は「賢治が愛した」という話を知らなかったのではないかと思われます。
 そうなると必然的に、その後鈴木氏にグルス・アン・テプリッツを送ったのは、誰か関係者とは別の人物だったということになります。これが誰なのか、現時点では不明ですが、ここでかりに「X氏」と名づけておきましょう。

 さて、1956年の時点で、バラ界の第一人者鈴木省三氏も、賢治の地元花巻のバラ関係者さえも、「賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」という情報を知らなかったとすれば、この話がその後のバラ界に広がっていった出発点は、ほかならぬこの「鈴木氏とグルス・アン・テプリッツとの再会」というエピソードそのものにあるのではないかと、私は考えます。
 「バラ育種の神様」とまで呼ばれた鈴木氏には、バラに関する著書も多数あり、それらはこの分野で最も権威あるテキストとして、その後に各種図鑑が執筆される際にも重要な参考文献とされています。鈴木氏が、「宮沢賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」ということを自らの著書に書けば、この話はバラ界には広く浸透するでしょう。
 しばらく前までは専門家も知らなかった情報が、現在は日本中のバラ愛好家の間でかくも「有名」になっているという現象を、最も無理なく理解できる仮説は、「鈴木氏がこの話の起点だった」ということだろうと思います。

 そしてもしそうであれば、花巻から鈴木省三氏へ、「賢治が愛していた」という説明とともにグルス・アン・テプリッツを送った人物=「X氏」こそが、「宮澤賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」という話の、真の出所だったことになります。

 はたして、このX氏とは誰だったのでしょうか?

 X氏が、当時の花巻温泉バラ園の直接の担当者ではなかったと思われることについては、すでに述べました。それでは、関係者以外で、当時の人々がほとんど知らなかったと思われる「賢治が愛したバラ」に関する情報を持っていた人物とは、いったいどんな人なのでしょうか。
 おそらくそれは、生前の賢治の近くにいた人物だろうと思われます。上に見てみたように、「賢治が愛したバラ」に関して、賢治関係の資料に残されている記録は、今のところ全く見あたりません。もし資料に残っていないのならば、それを鈴木省三氏に伝えることができたX氏とは、そのことを「直接に知っていた人物」以外にありえません。文書による「記録」が存在しなければ、あとは人間の頭の中の「記憶」しかないからです。
 「園芸」を通じて、生前の賢治と最も親しく関わった人物と言えば・・・?

 ・・・と、ここまで書けば、私が誰を想定しているか、賢治ファンの方々にはすでにおわかりでしょう。
 あくまでも憶測にすぎませんが、この考察における第二の仮説として、私がこのX氏の正体と推理しているのは、上にも何度か出てきた賢治の元教え子、冨手一氏なのです。


4.冨手一氏と賢治の記憶

 冨手一(とみて・はじめ)氏は、1906年に稗貫郡湯本村大畑に生まれ、1922年3月に第一回卒業生として稗貫農学校を卒業しました。卒業証書番号は「第一号」だったということです。
 賢治が教師として着任したのは1921年12月ですから、実質的に冨手氏が賢治の教えを受けたのは最後の3ヵ月だけですが、卒業後1924年に花巻温泉株式会社の園芸部に就職してからは、その仕事の上で、賢治の指導をさまざまに仰ぐことになります。温泉敷地内の土壌改良、並木の植樹から始まって、すでに触れた「南斜花壇」「対称花壇」「日時計花壇」の企画設計と実際の造成も、賢治と日々をともにする共同作業でした。
 また、冨手氏が菊花品評会の事務局をしていた時には、賢治にその審査員を依頼したり、出身地の湯本小学校では、講師として賢治を招いて、農事講演会を企画したりもしています。
 しかし、賢治の没後1938年には花巻温泉会社を辞職し、いったん北海道に渡って新天地で開墾を行っています。その後時局の悪化に伴い、1940年にまた花巻に戻りました。
 戦後は、花巻市大畑に開墾してリンゴ園を経営し、県農業会の農業技術員も兼ねていたということです。
 亡くなられたのは1990年ですから、ごく最近まで生きておられたわけですね。

 生前の賢治が花巻温泉内に作った上記の3つの花壇の設計図は、冨手氏が自分の手もとにずっと大切に保管しておられたそうですが、このことについて、冨手氏の印象的な言葉があります。「先生は、この設計図は会社ではなくて私が保存しておくようにと、かたく言われました。」というのです(『イーハトーヴの植物学』)。
 この「会社ではなくて」という箇所に、深い意味があるのでしょうね。賢治の具体的な意図は不明ですが、たとえば「悪意」という作品に見られるように、ある時期から賢治は温泉会社の遊興施設建設に対して、一種の反感を持っていたということにも、関連しているではないかと思います。
 もうしそうであれば、賢治の死後まもなく冨手氏が花巻温泉会社を辞めてしまい、北海道に渡ったというその後の経緯にも、ひょっとしたらこれは関わってくることなのかもしれません。

 さて、冨手氏と花巻温泉バラ園の因縁を考える上で、私が最も注目したい事柄として、「賢治祭前夜祭」の企画ということがあります。
 この催しは、花巻温泉のバラ園が開園してから、そのバラ園において毎年9月20日に開かれていたものですが、その始まりは、「賢治を記憶し続けるために」という目的で、冨手氏が中心となって呼びかけたものだったというのです。当夜は会場のバラ園で、賢治の詩の朗読、賢治の愛した鹿踊り、鬼剣舞などが演じられたのだそうです(『証言 宮澤賢治先生』農文協)。
 私としては、ほかならぬこのバラ園において、「賢治を記憶し続けるため」の催しを開催するというところに、冨手氏が恩師と一緒に作った花壇が消滅してしまったことに対する寂しさと、この「場所」への思い入れが現れていると感じるのです。

 花巻温泉会社によって思い出の花壇が取り壊され、そこに新しくバラ園が作られると聞いた冨手氏は、その新たな設計者である鈴木省三氏に、何かを引き継ぎたかったのではないでしょうか。「先代花壇」の設計者で、自らの恩師だった賢治の心にあったバラを、同地の新しい花壇の設計者に贈り、賢治の記憶を伝えようとしたということは、冨手氏の行動として十分にありえると思うのです。

 上に見たように、現時点で賢治自身がバラを扱った可能性があるのは、羅須地人協会時代に花巻温泉内の花壇の造成のために、「薔薇園」に注文したかもしれない「10種」だけでした。冨手氏は、そのバラを賢治とともに直接手植えし、恩師がそれらに注いでいた愛情を感じることができた、ほぼ唯一の弟子だったはずです。
 彼は、自らの責任として、その話を日本バラ界の第一人者に継承しておきたかったのではないでしょうか。


 もしも今回の私の推測のように、X氏=冨手一氏だったとすれば、少なくとも日本のバラ愛好者の間には、冨手氏のおかげで、「賢治の記憶」がこれほどまでに広く長く生きつづけることになったわけですね。