賢治が愛したバラ(3)

 先日、ノンフィクションライターの最相葉月さんからメールをいただきました。「賢治のバラ」の問題に関して、新たな進展があったということなのです。

 これまで、「賢治が愛したバラ(1)」「賢治が愛したバラ(2)」というエントリに私が書いていた概略を一応おさらいしておきますと、「生前の宮澤賢治が『グルス・アン・テプリッツ』という深紅のバラを愛していた」という「エピソード」は、バラ愛好家の間では非常に有名な事柄になっているのに対して、従来の賢治研究関連文献には記述が見当たらないということが、私がこの話に関心を持ったきっかけでした。
 6月に「大菩薩峠の歌」のことで最相さんにお世話になった際、上記の逸話を収録したご著書『青いバラ』をいただき、その後もお問い合わせをしたり個人的に調べてみた結果、このエピソードは、日本のバラ界の第一人者である故・鈴木省三氏の体験談が発端になっているようであることが、何となくわかってきました。
 すなわち、1956年に鈴木氏が花巻温泉南斜花壇跡地のバラ園の設計を行った後、しばらくして誰かが、「これは賢治が愛したバラです」と言って一本の苗木を鈴木氏に送り、鈴木氏がその苗を育ててみた結果、グルス・アン・テプリッツが咲いたということなのです。
 しかし、鈴木氏にバラの苗木を送った人物というのがいったい誰だったのか、その人は何を根拠にして、一本の苗木を「賢治が愛したバラ」だと言いえたのか、という謎は私にとって残ったままでした。

 今回、最相さんから教えていただいた情報をご紹介する前に、まず私自身がその後調べえた事柄を述べておきます。

 8月には国会図書館に行って、丸一日かけてバラ関係の蔵書を点検し、「賢治がグルス・アン・テプリッツを愛していた」という話が、いつ頃からどのような文献に記載されているのか、調べてみました。
 2000年以降のバラ図鑑などを見ると、これはもう必ず紹介されるエピソードになっているのですが、さかのぼっていくとその上限は意外と新しく、私が数十冊を調べえた範囲では、「京成バラ会」の会報である『薔薇の海 第36号』(1995)に、鈴木省三氏の談話として載っている「賢治の薔薇が咲いた」というコラムが、最初でした。
 下にそのコピーを掲載します。

鈴木省三「賢治の薔薇が咲いた」

 この文章が、「賢治のバラ」という話の文献的初出ではないかと私は思うのですが、内容からいくつか新たな「発見」もありました。
 一つは、このバラが花巻でもともと咲いていたのは、賢治が設計・植栽をした花巻温泉南斜花壇ではなくて、「花巻共立病院院長宅」だったこと。鈴木氏が訪れた昭和31年の時点では、「荒れはてた南斜花壇に、薔薇は一本もなかった。」と記されています。
 もう一つは、鈴木省三氏に「宮沢賢治の薔薇」を贈ったのは、鈴木氏にとって「知り合い」だったということ。それまで私は、鈴木氏にバラを送ったのは、賢治の元教え子で南斜花壇を賢治と一緒に作った、冨手一氏だったのではないかという推測をしてみていたのですが、その見当は外れていたようです。

 それにしても、鈴木省三氏は上の文章で、この話を初めて公に披露するかのような口調で述べておられます。実際これは、当初予想していたよりはかなり新しく広まった逸話のようで、国会図書館に収められている図書を見ても、1995年以前のバラ図鑑やバラ栽培に関する本には、そもそも「グルス・アン・テプリッツ」という品種自体がほとんど収録されていませんでした。それ以前で「グルス・アン・テプリッツ」に関する記載があった本としては、『世界のバラ』(鈴木省三著,1956)、『ばら花譜』(鈴木省三・籾山泰一著, 1983)、『ばら・花図譜』(鈴木省三,1990)の3冊のみがありましたが、いずれも鈴木省三氏が執筆していながら、賢治との関連について言及はありません。
 一方、1995年以降では、『バラ図鑑:日本と世界のバラのカタログ 最新版』(鈴木省三監修,1997)に、さっそく「宮沢賢治もイギリスから直輸入した記録がある」として紹介されています。この本は、1992年に刊行された『日本と世界のバラのカタログ』の改訂版なのですが、1992年版には「グルス・アン・テプリッツ」という品種そのものが収められていなかったのに、扱い方に大きな「変化」があります。

 私が思うには、やはりその変化は、上の文章が出された1995年を境に起こったのではないでしょうか。それまでは、「グルス・アン・テプリッツ」という品種そのものが日本ではいったん忘れられかけていたのが、鈴木省三氏の影響力と、1996年の賢治ブームなども相まって、バラ愛好者の間にこの品種の人気が再び広がったのではないかと思うのです。


花巻温泉バラ園「グルス・アン・テプリッツ」 私の方はその後、去る9月24日に花巻温泉バラ園を訪ね、園長の高橋宏さんに「賢治のバラ」についてお話を伺ってみました。
 高橋さんのお話は、次のようなものでした。

今から20年前頃、賢治生家と花巻共立病院院長宅にあったバラが、賢治が手植えしたバラだろうという話が出て、品種名がわからなかったので、鈴木省三氏に送って教えを乞うた。その後、鈴木氏からグルス・アン・テプリッツだという連絡があり、花巻でも接ぎ木をして広めた。その子孫が、今も花巻温泉バラ園にある。

 鈴木省三氏にバラを贈ったのが誰かということについては、高橋園長はご存じありませんでしたが、地元のバラ界とのつながりが、よりはっきりと感じられました。


 さて、長々とお待たせしましたが、最相葉月さんから今回ご教示いただいた情報です。
 最相さんはその後、故・鈴木省三氏の奥様にお手紙を出し、「賢治のバラ」の由縁についてご存じないかお尋ねしてみたのだそうです。しかし奥様には憶えがないということで、その手紙は鈴木氏が京成ばら園の研究所にいた時代に秘書をしていたという野村和子さんに転送され、野村さんから最相さんに回答が寄せられたとのことです。

花巻温泉バラ園の名札 そのお答えによれば、鈴木省三氏のもとに「賢治のバラ」を送り、その品種名を問い合わせてきた人は、現在「岩手バラ会」の会長をしておられる吉池貞蔵さんだったということです。
 そして、そのバラを鈴木氏が育てて、初めて花を付けた時に撮影した写真の日付は、1987年だったということです。
 上の鈴木省三氏の文章に、花が咲くまで「3年」かかったと書かれていたことからすれば、花巻からバラが送られてきたのは、1984年頃のことと推測されます。

 これで、当初私がいだいていた疑問の大半は解決したわけで、最相葉月さんには心から感謝をしているところであります。あとは、まだご存命であるという吉池貞蔵さんに、花巻共立病院院長宅(と賢治生家)にあったバラを採取した時の状況についてお聴きすることができれば、思い残すところはありません。
 現在、「日本バラ会」を通じてお問い合わせをしてみているとことです。


 最相さんの『青いバラ』という本そのものが、バラをめぐる壮大な「巡礼」のような趣をおびている感じなのですが、私も東京へ花巻へ、バラに関して小さな旅をした数ヵ月でした。

青いバラ 青いバラ
最相 葉月 (著)
岩波書店 (2014/9/17)
Amazonで詳しく見る

 ちなみに、すべての話の出発点となった、最相葉月さんと荒俣宏さんの対談の模様は、「新!読書生活 第6回」のページに掲載されており、「大菩薩峠の歌」の話題も後半に登場します。