先日の「賢治が愛したバラ(4)」へのコメントでミントさんが紹介して下さっているとおり、花巻共立病院長の佐藤隆房氏の著書『宮沢賢治』(冨山房)には、「昭和四年に賢治がバラを届けてくれた」という話が出てきます。p.205の「真夏の一日」という章です。
97 真夏の一日
昭和四年の真夏のある日、昨年発病した肋膜炎も大分よくなって、元気になった賢治さんは、カラーもワイシャツも着けず、カーキー色の小倉の折り襟の農民服に、ゴムのダルマ靴をはき、つばの広い麦藁帽子をかぶって私の家を訪れました。
私の家というのは羅須地人協会のある、賢治さんの桜の住居からほど遠くないところにありました。私も当時身体の具合を悪くして、うかない顔をしているところへ、この仲よしが来たので大喜びでした。(この後、佐藤隆房氏宅の庭の池で賢治が元気に遊んだり、レコードの話をしたり、「北原白秋なんて甘いもんですよ」と賢治が威張って言ったり・・・という描写が続いて、章の最後は次の文章で閉じられます。)
秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十本を届けてくれました。その薔薇は今も大切に培養されていて、年ごとに美しい色を咲かせます。
上記の文章は、「昭和四年」のこととされていますし、賢治が桜町の院長宅に薔薇を届けて、それが現在(執筆は昭和17年)も花を咲かせつづけているということですから、これは、佐藤隆房氏が佐藤昭三氏に語った「賢治が佐藤隆房氏の新居の祝いにバラを手植えしてくれた」というという話(「賢治が愛したバラ(4)」参照)と、同一のエピソードだと考えていいでしょう。
しかしここで、また一つ新たな問題が出てきてしまいます。
この時の賢治の健康状態について佐藤隆房氏は、「昨年発病した肋膜炎も大分よくなって」と記していますが、実際には「昭和四年(1929年)」というと、もっと病状は重篤だったようなのです。
新校本全集の「年譜篇」によれば、昭和4年という年は、病気のために外出などはまずできない状態でした。この年の春には、黄瀛の訪問を「5分間だけ」という条件で寝たままで受け、4月28日の日付で、「これで二時間/咽喉からの血はとまらない」との作品が記されています。夏の間も病床の面会記録が残っているだけで、10月12日には堀籠文之進が1時間ほど見舞いに来て、「面やつれして本当に気の毒に耐えず」と自らの日記に書いています。12月頃の宛先不明の書簡下書(書簡252)には、「但し夏以来床中ながらかれこれ仕事はできまして」とありますが、つまりこの年の後半になっても、賢治にとっては「病床で書き物をする」のが精一杯だったようなのです。
このような年の「真夏の一日」に、佐藤隆房氏が描写したような出来事があったとは到底思えません。したがってこれは隆房氏の勘違いで、別の年のことだったのではないでしょうか。
ではどの年だったのかと考えてみると、前後どちらの可能性もありえますが、私は前年の昭和3年(1928年)だったのではないか、という気がしています。
昭和3年の8月10日頃には、賢治は病気に倒れてしまうのですが、6月に大島から帰ってきた後、倒れるまで「真夏」の間は、元気に各地を動きまわっていましたので、この間のことではないかと思うのです。
昭和3年説を採る理由の一つは、「カーキー色の小倉の折り襟の農民服に、ゴムのダルマ靴をはき、つばの広い麦藁帽子」というスタイルが、羅須地人協会時代の賢治の、典型的な格好だからです。また、「羅須地人協会のある、賢治さんの桜の住居」という表現も出てきますが、昭和4年以降には羅須地人協会は存在しませんし、桜にある宮澤家別邸も「賢治さんの住居」ではなくなっています。
それからもう一つ、「北原白秋なんて甘いもんですよ」というようなちょっと大口を叩くような言い方は、大病を経た後、非常に謙虚になってしまった賢治の口からは、聞かれないように思うからです。
あと、佐藤隆房著『宮沢賢治』には、この賢治のバラを囲んで昭和7年に撮影したという下のような写真が掲載されています。何かのパーティのようですが、賢治の母親のイチさんも招待されているんですね。
この写真に関してミントさんが、先日のコメントで興味深い提起をして下さいました。これらのバラは地面に植えられているのではなくて、鉢植えを集めて並べているのではないか、というのです。
ミントさんがそのように考えられた理由としては、和風の庭園にここだけ密集してバラを植えるのはやや不自然であること、右から2番目の女性の足元(着物の裾)に、植木鉢の円い縁が見えるように思えること、高価な輸入のバラに花巻の寒い冬を無事に越させるには、鉢植えで管理する方が安全と思えること、などを挙げておられます。
私も、言われてみれば確かにそのように思えてきます。そういえば9月に行った花巻温泉バラ園でも、グルス・アン・テプリッツは普通の庭園ではなくて温室で栽培されていました。
となると、「賢治が手植えした」というのは、地面に植えたのではなくて鉢に植えたということだったのかもしれないわけですね。
上の写真が撮られた「昭和7年」は、賢治の死の前年です。昭和6年9月に再び倒れてから亡くなるまで、まず外出などできない病状が続いていた賢治ですが、この日、母のイチが帰宅すると、佐藤院長宅の美しいバラの話を、母から聞かせてもらったでしょうか。
数年前に自分が贈ったバラは、本当に見事に成長していました。
そしてこの中の一部の株は、平成の時代に入ってから接ぎ木をして増やされ、「賢治のバラ」として、全国のあちこちにも広がっていくのです。
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