「花巻ばら会」のSさんという方からメールをいただきました。
Sさんはこの1月24日に、現在は花巻ばら会の長老でいらっしゃる伊藤弥典さんから、お話をお聴きする機会があったということで、例の「賢治のバラ」に関わる事柄で伊藤弥典さんがお話し下さったことについて、知らせて下さいました。
前々回の「賢治が愛したバラ(4)」で私の質問にお答えいただいた、岩手バラ会会長の吉池貞蔵さんが、Sさんに「グルス・アン・テプリッツのことなら伊藤弥典さんが詳しい」とおっしゃったので、伊藤さんに連絡をとったのだそうです。
伊藤弥典さんのお話によれば、やはり昭和3~4年頃、共立病院の佐藤隆房院長の自宅の新築祝いに、賢治は数本のバラを横浜の植木会社から取り寄せたのだそうです。そして賢治はそのバラを、佐藤氏宅の2階の窓から見えやすいようにと、窓辺の下に自ら植えたのだそうです。(ここで「昭和3~4年」とあるのは、実際には昭和3年のことだったろうということについては、「賢治が愛したバラ(5)」で述べました。)
時は移って戦後、いったんは佐藤院長宅で瀕死状態になっていたそのバラを接ぎ木して復活させたのが、花巻ばら会会員の高橋健三さんと伊藤弥典さんでした。伊藤弥典さんは、当時すでに「リンゴの接ぎ木の第一人者」と言われていたそうで、その「ワザ」によって、瀕死の「賢治のバラ」を蘇らせてくれたのだということです。そういえば私も、先日「花巻温泉バラ園」に行った時に、園長の高橋宏さんから、「接ぎ木の名手」として伊藤弥典さんのお名前を耳にしていました。
あと、じつはこのお話にはもう少しだけ「つづき」があって、それはとてもワクワクするようなことなのですが、ちょっとした事情があり、今回は残念ながら割愛させていただきます。
しかし、今年の夏くらいには、ご紹介できるかも?というお話です。乞うご期待。
ところで、Sさんの素晴らしいサイトの中のこちらのページは、平成17年の花巻の「秋のバラ会」において、佐藤昭三顧問や吉池貞蔵さんや伊藤弥典さんら、「歴史の生き証人」とも言うべき方々からSさんがじかに、賢治とバラの関連についてお話をうかがった直後に書かれたものだそうです。
私が関心をいだくよりはるか以前から、すでにこのような情報も Web 上で公開されていたのですね。バラの写真も見事ですので、皆様ぜひご覧下さい。
それから、Sさんがご指摘しておられることで、私も以前から感じていたことなのですが、「グルス・アン・テプリッツ(日光)」を紹介する時に、最近は枕詞のように「宮澤賢治が愛したバラ」と言われ、私のエントリのタイトルもそうなっているのですが、このバラを賢治が「愛していた」という証拠は、じつは何一つ存在しないのですね。賢治がこれを植えたのは確かなようですが、それが咲いたところを賢治が見たかどうかさえも、まだ本当はわかっていないのです。
Sさんによれば、「賢治が愛したバラ」と言うよりも、「賢治が選んだバラ」と言う方が、より「正確」だとのことで、これには私も全く同感です。
しかしそれにしても、いろいろと不思議なご縁が広がっていくものです。
ナポレオン
こんばんは、初めまして。薔薇の栽培やその指導を仕事としている者です。
薔薇に関するいくつかのブログを訪問させてもらっている内に、Web検索でこちらにたどり着きました。
わたしのHPでも「日光」のことで賢治の名前を出しているのですが、彼がどんな栽培をしたのかが現在のところわかりません。(「第3回水やりについて 水培2」という頁です)。この人物については、実に多くのファンを持っているにもかかわらず、恥ずかしながらやっと最近になって強い関心を持つようになったばかりで、それだけに彼の薔薇栽培法が少しでもわかれば大いに自分の参考にできると思いました。そこで、これほどのすばらしいサイトをお持ちの方ならご存じではないかと思い、もしよろしければ該当する資料や参考文献をご教示いただけるとありがたいのですが。
初訪問なのにお願いをしてしまい、申し訳ありません。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
hamagaki
ナポレオン様、はじめまして。当サイトをご訪問いただきましてありがとうございます。
さっそく貴サイト「Rose Sanctuary」を拝見させていただきました。薔薇に対する深い愛と情熱があふれるページに、感嘆いたしました。
さて、宮沢賢治がどのようにバラの栽培をしていたかという問題ですが、残念ながらこれについては私の知るかぎりでは十分な資料が残っておらず、彼がどの程度バラの栽培を行っていたのかは、不明なのです。花の中でも、ダリアや菊は、かなり熱心に育てていた時期があるようですが、バラに対しては、それらに比べると関わり方は少なかったのではないかとも思われます。
賢治は、農学に関しては当時の最高学府の一つで学び、また花卉栽培についても、多数の専門の洋書や種や苗を海外から取り寄せて研究していたわけで、多くの作物や花の栽培法については一流の知識を持っていたはずなのですが、バラについて具体的にどうだったのかは、調べてもまだよくわからないのです。
私が現時点で把握している限りで、賢治とバラの関わりを示す作品や資料は、せいぜい以下のようなものです。
1.1927年3月15日の日付を持つ「〔こんやは暖かなので〕」という詩の一節
「(ばらを十五本植えた/そのばらが芽を出さない)」とある。
2.1927年3月16日付の元教え子菊池信一宛書簡[227]
「ばらの苗が来て居ります。廿日なればみんなも集まってゐませう。お知らせま
で。」とある。
3.「MEMO FLORAノート」のA15頁
「薔薇園」への注文メモと思われる書き付けがある。
4.佐藤隆房著『宮沢賢治』(冨山房)のp.207
「秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十種を届けてくれました。」とある。
1.と 2.は、時期から見て、同じバラの苗のことかと思われます。4.は、結局この佐藤隆房氏宅のバラが戦後まで生き残り、花巻バラ会のメンバーがその品種を鈴木省三氏に問い合わせたところ、「日光」と判明し、この品種が「賢治のバラ」と呼ばれる由来になります。
しかしいずれも、賢治がバラをどのように栽培していたかということを示してくれるような内容ではありません。
お問い合わせのお役に立てず申しわけありませんが、「賢治のバラ」に関しては私もこれからまだ引き続き調べていきたいと思っています。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
ナポレオン
こんばんは。御返事をありがとうございました。誠実で丁寧な内容に、感激しました。
「賢治が愛したバラ」(1)~(6)をあらためて再読させてもらいました。
①まだ賢治についてほとんど何も知らないに等しいわたしですが、こちらのサイトのおかげで、彼がどのように植物を手にし、植え付けていったかの推測ができました。不完全ですが。彼が園芸・農業の基本教育を受けたこと、稲作に懸命に取り組んだり、ダリアその他の園芸植物についてもおそらくは当時の基本に則った植え方をし、育てたのだろうと思います。そして多分、薔薇も。今後自分なりに調べてみます。
②>つるだから、グルス・アン・テプリッツではない。
とは断定できないと思います。1911年もしくはそれ以前に、クライミングのスポーツ種がこの薔薇から誕生して世に出ていますから。もちろん、花はすべての面で元薔薇にそっくりです。しかし、それだけではテプリッツのつる種だったかどうかはわかりませんね。
③故鈴木氏はわたしの街でも日本鋼管(現JFEスチール)の工場花壇づくりの時にお招きし、指導していただいたものです。わたしども薔薇愛好家たちにとっては今でもたいせつな方です。記事を拝読していて氏の偉大さを思い浮かべていました。
④ご婦人方の写真についてですが、ミントさんが言われるようにわたしもこれは鉢植えだとすぐに解りました。モノクロであり、鮮明でもありませんが、鉢を寄せて並べたときに見える薔薇の姿です。わが園のみならず、わが町の催しなどで数十回も並べてきましたから地植との違いを肌で知っています。
⑤最相葉月さんの『青いバラ』も、ぜひ読むつもりです。読後感をその内わたしのHPの「本の紹介」頁に載せる予定です。そのときにはお知らせしたく思います。目を通していただければ幸甚です。
――ともかくも、たいへん愉しく読ませていただけましたし、今後も賢治の詩を味わいたく思うと同時に、彼の薔薇に限らず行ってきた栽培の内容を自分なりに知ろうと努めるつもりです。ほんとうにありがとうございました。
お手間をかけてしまいましたので、わたしでお役に立つことがあれば何なりとお申し付けください。お返しをさせていただきます。
ではまた、おじゃまさせてもらいます。
hamagaki
ナポレオン様、お返事ありがとうございました。私はバラについては全く知識がありませんので、専門的見地からのご教示をいただけて、本当に有り難く存じます。
まず、②「つるだから、グルス・アン・テプリッツではないとは断定できない」という点、ご指摘ありがとうございます。
これは「賢治が愛したバラ(2)」において、元教え子の菊池信一が初めて下根子桜の賢治の家を訪ねた時の記録に関することですが、そうすると、1926年6月の時点でも、賢治がこの品種を植えていた可能性は否定できないことになり、考察の対象はぐっと広がるわけですね。
そして何よりも、④「ご婦人方の写真のバラは、鉢植えだろう」という件です。これは、「賢治が愛したバラ(5)」に載せた写真のことで、すでにミントさんからもご指摘いただいていたことですが、今回のナポレオン様のご教示で、さらに確信を持たせていただきました。
これが「鉢植え」であるとすれば、佐藤隆房氏がその著『宮沢賢治』において、「秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十種を届けてくれました」と書いてある「薔薇の苗」は、「秋になり」という季節との関連からも、この時点ですでに鉢植えであった可能性が高くなってきます。そうすると、「賢治が佐藤隆房邸の庭に手植えした」という伝説の信憑性は下がってしまいますが、賢治が「横浜植木」に注文したバラ苗を、どのような形で植えたのかという問題を考える上では、大きな参考になります。
私は実は、上のコメントの 1.2.に挙げた「(ばらを十五本植えた/そのばらが芽を出さない)」「ばらの苗が来て居ります」という1927年3月の賢治による記述と、その翌年と推測される「佐藤隆房氏に贈られたバラ」が、同じものの可能性があるのかどうかということが、気になっているのです。
さて、最相葉月さんの『青いバラ』は、私は本当に面白く読ませていただきました。最相さんが鈴木省三氏のもとを何度も訪ね、「バラを育てる」という営みについて対話を深めていかれるところが、感動的でした。
ナポレオン
こんばんは。さっそくですが、
>「秋になり」と鉢植え
のことですが、わたしはこの時代の薔薇苗業者等についてはほとんど知りません。ただ、薔薇苗には通常春苗と秋苗(大苗とも言います)とがあり、どちらが20種に該当したかによっても話は違ってきます。そこで現代では秋苗は秋に掘り上げたり鉢から抜いて冷蔵施設へ入れ、出荷まで4℃ほどで冷蔵します。ですから当時そのような冷蔵設備があったかということと、冷蔵でなくとも秋苗として秋に市場・注文者へ販売されていたか、の二点がわたしは気になります。横浜植木は現存する会社なのでしょうか?
また、わたし自身で佐藤氏の『宮沢賢治』を読んでみます。記述から何かわかるかもしれません。そのときにはお知らせしましょう。
それにしても、あなたの几帳面な推理論考を、わたしが混ぜ返してややこしくしてしまっているのでなければいいのですが。
hamagaki
いえいえ、混ぜ返してややこしくしているなどと、とんでもありません。いろいろとご教示をいただくことで、とても勉強になります。
さて、前回の私のコメントは言葉足らず申しわけありませんでした。あらためて補足して説明させていただきます。
佐藤隆房氏の著書『宮沢賢治』の中で、賢治から贈られたバラに触れた部分は、「真夏の一日」と題された章にあって、賢治がある夏の日に佐藤氏の新居に遊びに来た時のエピソードが書かれてあり、その最後に、「秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十種を届けてくれました」と出てきます。この文章の続き方の印象からすると、賢治が薔薇を届けたのは「秋」と言ってもそれほど遅い時季のことではなくて、秋に入ってまもなく=9月頃?という感じなのです。
9月頃だとすれば、届けられたバラは、時季からして現在言われるところの「大苗(秋苗)」でも「新苗(春苗)」でもなくて、鉢植えにされたバラだったのではないかと、私は思ったのでした。4年後?に写真に撮られたバラが鉢植えだったとすれば、このように最初から鉢植えで贈られた可能性がさらに高まると感じたので、前回のコメントのような書き方をしました。
それから、賢治がバラを注文したと言われる「横浜植木株式会社」は、何と現在も営業を続けている会社なのです。実は私は少し前に、この会社あてにメールを出して、「宮沢賢治が御社にバラを注文したという話があるので、もしも当時の注文書などが残っているならば、調べて教えていただけませんか」という厚かましいお願いをしてみたのでした。
担当の方からのお返事は、「お尋ねの件、当社から野菜の種子をお買い求めになった納品書は残っているようですがバラについては調べて見ませんと解りかねます。古いカタログ、資料等全て横浜開港資料館に寄贈しまして当社では管理をしておりませんが一度関係者に聞いて再度ご返事をさせて頂きます。上、取り急ぎご返事迄。」というものでした。
ということで、私としては「横浜植木」の「再度」のお返事を待つとともに、一度できれば「横浜開港資料館」という所に出向いて、資料を閲覧させていただこうと思っているところです。ここで当時のカタログ等を見ることができれば、ナポレオン様の挙げておられる「当時秋苗として秋に市場・注文者に販売されていたのか」という問題の答えもわかるはずです。
また、横浜に行くことができれば、ご報告いたします。
ナポレオン
こんにちは。好意的なお返事をいただき、ありがたく思っています。
たった今、宮沢賢治に関するデータベースを閲覧していて、その一つ一つのデータから、彼の大きさ特に花巻の皆さんたちの愛情と誇りが感じられた次第です。
わたしは、アマチュアながら自分で詩を書き、その世界をたいせつにしています。それは今後老いていく途中で完成したいと思っている世界です。そんな動機を芽生えさせてくれたのは、かつて中原中也でした。……今そこに、賢治が加わろうとしています……それは、わたしが、――面はゆいのですが――森の言葉に心を居させたいとの願いに呼応するように、彼には「野の言葉」を見出し、感じたからです。ありのままの野の身だしなみと生きる存在を扱う力の強さややさしさには、深い森も呼応しています。
ともあれ、データベースから、わたしはそのあまりの広がりと、遡っての豊かで深く、また実感を得にくくなりつつある世界も含んでいるありさまに、正直戸惑うとともに、「薔薇に絞って向き合ってみよう」と決断しました。
Hamagakiさんのこのサイトに頼りながら、彼の薔薇を見つめていきます。おそらく、彼が教壇に立っていた時代の内容の中に「栽培」が見えるものと感じておりますし、「ばらが芽を出さない」と記したときのためいきが聞こえるからです。
当時、薔薇苗は横浜港から入荷していたはずですし、現在親しい種苗販売会社二社へ訊いてみたところ、1920年代には冷蔵設備はなく、欧米から届く苗はすべて鉢植えにしてあったろうということです。
そしてわたしどもにとっては「20種」と「20本」とでは意味がまるで違ってくるのですが、あの時代おそらくは後者の意味で用いられた20だったろうと言えるのではないでしょうか。
横浜には弟が住んでいますので、いずれ資料館へわたしも訪ねてみます。来月上京するつもりですがそのときには京都へ寄らねばなりませんので、次の機会になりましょう。
あなたの誠意と行動力に敬服しつつ、また。
hamagaki
ナポレオン様、こんばんは。
宮沢賢治の詩に、「野の言葉」が見出されるという点、私もまさに、そのとおりと共感します。
野や山や高原や、彼を取り巻く世界に、賢治は危ういほど溶け込んで一体となり、あふれるように言葉を紡ぎ出していった時代があります。
またそれとはまったく別の視点から歌われた詩も厖大な数があって、「そのあまりの広がりと、遡っての豊かで深く、また実感を得にくくなりつつある世界も含んでいるありさまに、正直戸惑う」のは、私自身もそのとおりです。
私ももちろんアマチュアで、詩も作れず読むばかりですが、賢治の残してくれた広い世界に、戸惑いつつ踏み迷いつつも、徘徊することを楽しみにしています。その徘徊の跡を、恥ずかしながらブログなどにしている者です。
今回お出会いさせていただいたのも何かのご縁と思いますが、今後もナポレオン様の詩の世界が広がってゆかれることを、心よりお祈りしています。
P.S. ところで、佐藤隆房氏の言う「薔薇の苗二十種」とは、「二十本」の意味ではないかという件、私も同感です。賢治は、ばら二十本を贈ったのだろうと思います。
ナポレオン
すっかりご無沙汰してしまいました。お元気ですか?
薔薇を栽培する者にとり春は忙しく、とりわけ5月はそんな季節です。最相氏の『青いバラ』もできるだけ集中して読もうとしてなかなか時間が取れず、今頃になってやっとわたしのHPで「本の紹介」としてupできたところです。お忙しいことと思いますが、時間があるときお読みになってください。
また、日本図書センターの『宮澤賢治研究資料集成 第三巻』を購入し、読んでいます。残念なことに佐藤隆房氏の元の本からの抄出掲載で、賢治と薔薇のことは省かれています。なので、今後あらためて本を手に入れるか図書館等で読めればと期待しています。しかしそれも忙しくていつになるやら……。これはつまらぬぼやきです。
今後も彼の詩に向かい合い、自分の中でよい意味の影響としていきたく考えています。そして『集成 第三巻』でもかいま見える多くの人々の話にも、関心を持っていたいとも。思えばわたしの薔薇の仕事も、つくった人々とそれを育てる人々の仲介のようなものですから。
まずはお知らせまで。明日以降、またこちらのサイトのその後の内容をゆっくりたっぷり拝見させてもらいます。
hamagaki
ナポレオン様、お久しぶりです。お忙しい季節なのですね。
わざわざコメントをお寄せいただいて、ありがとうございます。
さっそく、貴HPの「本の紹介」で、『青いバラ』に関する文章を拝読いたしました。私ももう1年も前にこの本を読み、その時は私なりに、著者の調査ぶりの凄さや、思いもかけず現れてくる「人のつながり」の妙や、根底に流れるロマン的な情緒に、感動をしたものでした。
しかし、ナポレオン様のように薔薇のご専門の方が読まれると、さらに奥深い世界が開示されていたことが、貴HPの文章から伝わってきました。また、本棚からこの本を取り出して、パラパラとめくっては、薔薇の世界にひたってみているところです。
それから、文中では拙ブログのことまで触れていただきまして、恐縮です。
この『青いバラ』という一冊の本を通じて、それから今後さらに宮澤賢治を通じて、ナポレオン様とつながりが生まれたことを、幸甚に存じます。
私の方でも、「賢治のバラ」に関しては、これからも情報を集め、このブログにて整理していきたいと思っています。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。