旅程幻想 詩群

1.対象作品

『春と修羅 第二集』

338 異途への出発 1925.1.5(下書稿(三))

343 暁穹への嫉妬 1925.1.6(下書稿手入れ)

348 〔水平線と夕陽を浴びた雲〕[断片] 1925.1.7(下書稿)

351 発動機船[断片] 1925.1.8(下書中断稿)

356 旅程幻想 1925.1.8(下書稿(二)手入れ)

358 峠 1925.1.9(下書稿手入れ)

「春と修羅 第二集補遺」

発動機船 第二(下書稿手入れ)

「口語詩稿」

発動機船 一(下書稿手入れ)

発動機船 三(下書稿(二)手入れ)

「文語詩未定稿」

〔鉛のいろの冬海の〕(下書稿手入れ)

敗れし少年の歌へる(下書稿手入れ)

2.賢治の状況

 この1月5日から9日までのあいだ、賢治は下記のような行程で、三陸地方への旅行をしたようです(木村東吉氏の推定などによる)。

1/5  東北本線下り 21時59分発の夜行列車で、積雪の花巻を発って北へ向かう(「異途への出発」)。
1/6  未明に八戸で八戸線に乗り換え、6時5分に種市に到着。
徒歩または乗合自動車で三陸海岸を南下する途中、暁の空に百の岬が明けた(「暁穹への嫉妬」)。
 夜は下安家(しもあっか)の旅館に宿泊した。この宿は、現在の「小野旅館」(右写真)の前身との説が有力である。現在の小野旅館は右のように三陸鉄道高架下にあるが、当時は100mほど東の安家川河口付近に建っていた。
 「文語詩篇ノート」の1925年の項には、「安家 寒キ宿ノ娘、豚ト、帳簿ニテ/濁ミ声ニテ罵レル」などの記載があるが、この夜の情景と推測される。
1/7  同じく「文語詩篇ノート」の上記の下欄に、「暁早ク家族ヲ整ヘテ海辺ヲ急ギ来シ白キモンパノ家長・・・」等の記載があり、文語詩「〔鉛のいろの冬海の〕」の題材となっている。これも、この日の明け方の下安家の情景と推測される。
 午後に、付近のいずれかの港から発動機船に乗った。夕方まだ明るいうちの情景は、「〔水平線と夕陽を浴びた雲〕」「発動機船 一」に、かなり暗くなってからの情景は「発動機船 第二」に、夜遅くに宮古港に入港する直前の情景は「発動機船 三」に描かれている。
 この日、賢治がどこの港から乗船したかということについて、以前の年譜等では、羅賀港からとする説が有力であった。「発動機船 三」の中の、「羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ」という一節が、賢治自身のことではないかと考えられたためである。
 しかしその後、木村東吉氏は、おもに次の二つの根拠から、賢治の乗船は羅賀ではなく、それより北の下安家・堀内・大田名部のいずれかの港であったとの説を提唱している。
 まず、「発動機船 第二」では「鉛いろした樽」の積み込みの情景が描かれ、「発動機船 三」で「青じろい章魚をいっぱい盛った/樽」が描かれているが、当時の三陸において、樽詰めの蛸の出荷は、おもに羅賀港から行われていたということである。そうすると「発動機船 第二」の舞台が羅賀ということになり、賢治の乗船はそれよりも北の港になる。
 さらに、「〔水平線と夕陽を浴びた雲〕」と「発動機船 一」には、「まっしろな珪〔岩〕の・・・」あるいは「石灰岩の岩礁」という描写が出てくるが、このような白い岩は北三陸海岸では、太田名部の通称「ネダリ浜」(右写真)にしか見られない。このことからも、賢治が乗船したのは、前夜宿泊の下安家からこの太田名部ネダリ浜までの間で発動機船が発着していた港、すなわち下安家・堀内・大田名部の三つのうちのいずれかであったと推定している。
1/8  ひきつづき、午前0時宮古港発の三陸汽船に乗り継ぎ、未明の海を「発動機船[断片]」に描写。釜石までは行かずに山田港または大槌港で下船。
 日中は海沿いを歩いてさらに南下し、河原で休んで遠雷を聞く(「旅程幻想」)。夜は釜石の叔父宮澤磯吉家に宿泊。
1/9  釜石の鈴子駅から田中鉱山線に乗って、終点の大橋駅で下車。ここから徒歩で仙人峠を越え、背後に遠く釜石湾を望む(「」)。
 仙人峠から、岩手軽便鉄道に乗って花巻に帰る。

 この旅は、出発からしてただならぬ雰囲気に包まれています。
 「異途」の「異」とは、「異国」の「異」と同じく、「見知らぬ」「よそよそしい」「不気味な」などという意味でしょう。そのような途へ、目的はわかりませんが、「みんなに義理をかいてまで」旅立って行きます。
 この作品の背景に流れている感情には、今回の旅行への思いだけでなく、翌年に花巻農学校を自主的に退職して、未知なる生活に入ろうとする、やむにやまれぬ気持ちの萌芽もあったのではないかと思われます。

 思えばこの三年前にも、ちょうど同じ年頭の時期に、やはり賢治はみずからの前途に対する気持ちを、詩に託しました。
 『春と修羅 〔第一集〕』の巻頭を飾る、「屈折率(1922.1.6)」です。

 「…/わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ/このでこぼこの雪をふみ/向ふの縮れた亜鉛の雲へ/陰気な郵便脚夫のやうに/(またアラツディン 洋燈とり)/急がなければならないのか」

 この時も、道の険しさと行く手の昏さは暗示されていますが、一方には自分の行程を、「魔法のランプ」を探索する旅に喩えてみようとする若々しい気概もありました。
 今回の「異途への出発」では、周囲を見わたしても「七つ森」のように慣れ親しんだものは何ひとつなく、あたりの描写は見知らぬ惑星か未来都市のものと変わりません。シュールレアリスムの絵のような情景です。

 これにつづく「暁穹への嫉妬」では、すでに賢治は明け方の太平洋岸に出ていますが、ここに記されているのは賢治らしい自然への感情移入です。暁の星から孤独な自分に注がれるまなざしに心をときめかせ、その星を溶かしてしまう空に対して嫉妬するのです。この恋愛に似た感情は、文語詩「敗れし少年の歌へる」に至って、少年の失恋の歌へと転生します。

 この次の「発動機船」シリーズでは、賢治は生き生きした好奇心を持って、船や港で働く人々を見つめています。中でも、「発動機船 一」や「水平線と夕陽を浴びた雲」に描かれている娘たちは、働く女性への讃歌として、「曠原淑女の漁業版」といった趣です。

 「旅程幻想」において賢治は、釜石に至るリアス式海岸を歩いて南下していると思われますが、ここでまた彼は不安や孤独をかみしめているようです。冬の日射しは弱く空はつめたく、どこか遠くで雷が鳴っているのかもしれません。「発動機船」シリーズでもそうでしたが、この地方が前年に深刻な不漁と旱害に襲われたという事実が、賢治の脳裏を去ることはありません。

 旅の最後が近づき、「峠」において後ろを振りかえった賢治の目には、美しい釜石湾(「二十世紀の太平洋」)が映り、ここで彼は、何かに別れを告げようとしたのでしょう。詩の終りの二行には、旅から現実の花巻への帰還を前にして、あらたなものに向けて身の引き締まるような心境にある賢治がいます。


  さて賢治が、凍てつくような真冬の三陸へ、はるばるとやって来た本当の目的は結局わかりません。しかしここで一つ目につくのは、旅行のわずか2ヵ月前にあたる1924年11月に、八戸(尻内駅)から北三陸の種市までを結ぶ「八戸線」が開通していた、ということです。思えば、賢治が1923年8月にサハリンを旅したのも、1922年11月に旭川-稚内間の「宗谷線」が開通し、1923年5月に稚内とサハリンの大泊を結ぶ「稚泊連絡船」が就航した直後でした。
 かりに実際的な目的は他にあったとしても、賢治の心の底には、このように未知の土地へといざなう交通が開けたと聞くと、思わず行ってみたくなるという心理があったのかもしれません。

 この旅における作品には、詩碑になっているものが多く、普代村の「敗れし少年の歌へる」、「発動機船 一」、田野畑村の「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」、大槌町の「暁穹への嫉妬」、「旅程幻想」、仙人峠の「」を見ることができます。


賢治の行程(木村東吉氏らの推定による)