「旅程幻想」詩碑

1.テキスト

 旅程幻想
             一九二五、一、八、
さびしい不漁と旱害のあとを
海に沿ふ
いくつもの峠を越えたり
萓の野原を通ったりして
ひとりここまで来たのだけれども
いまこの荒れた河原の砂の、
うす陽のなかにまどろめば、
肩またせなのうら寒く
何か不安なこの感じは
たしかしまひの硅板岩の峠の上で
放牧用の木柵の
楢の扉を開けたまゝ
みちを急いだためらしく
そこの光ってつめたいそらや
やどり木のある栗の木なども眼にうかぶ
その川上の幾重の雲と
つめたい日射しの格子のなかで
何か知らない巨きな鳥が
かすかにごろごろ鳴いてゐる
                   宮 沢 賢 治

2.出典

旅程幻想(下書稿(二)手入れ)」(『春と修羅 第二集』)

3.建立/除幕日

2019年(平成31年)3月11日 建立 / 3月16日 除幕

4.所在地

岩手県岩手県上閉伊郡大槌町本町8-8 大槌駅前

5.碑について

 2011年3月11日の東日本大震災によって、三陸沿岸部は深刻な被害を受けましたが、中でも岩手県上閉伊郡大槌町では、死者854人、行方不明者423人という、甚大な人的被害がありました。
 震災前の大槌町の人口15,277人(2010年国勢調査)に占める、この死者+行方不明者の割合は、実に8.36%にも上り、老若男女あわせた全町民のうち、実に12人に1人が犠牲になられたことになります。ちなみに、この8.36%という数字は、宮城県女川町の8.68%に次いで、全国の市町村で二番目に高いものでした。(上記データはいずれも「東日本大震災における死者・行方不明者数及びその率」より、2016年3月11日現在の数)
 それに加えて、大槌町を走るJR山田線は、壊滅的なまでに寸断されてしまいました。その後、他の地区では鉄道が徐々に復旧再開されていく中でも、この宮古―釜石の区間は、ずっと不通の状態が続き、町内に、「大槌」、「吉里吉里」、「浪板海岸」という3つの駅を持つ大槌町民の足は、奪われたままだったのです。

 2019年3月、そのような状況にやっと終止符が打たれ、従来のJR山田線沿岸部(宮古―釜石間)が開通するとともに、この路線は三陸鉄道に移管されました。これによって、三陸鉄道の「北リアス線」(久慈―宮古)と、「南リアス線」(釜石―盛)が、ついに一本につながったのです。
 下のGoogleマップで、青色部分が旧北リアス線紫色部分が旧山田線沿岸部赤色部分が旧南リアス線です。久慈から盛まで行く直通列車も、上りが1日3本、下りが1日2本運行され、全部で4時間30分ほどかかります。

 上の地図で、青いマーカーを付けたのが大槌駅ですが、ここを8年ぶりに列車が走るという記念すべき日の1週間前、2019年3月16日に、駅前でこの「旅程幻想」詩碑は除幕されました。クラウドファンディングによって広く資金を集め、大槌町では2つめの賢治詩建立を実現したのは、今回も佐々木格さんを会長とする「大槌宮沢賢治研究会」の皆さんでした。
 詩碑の下部には、下のような言葉が刻まれており、「大槌宮沢賢治研究会」の方々が、賢治に託する思いが込められています。

2011年3月11日 東日本大震災で大槌町は壊滅的
被害にみまわれ多くの貴い命を失った 生き残った私たち
は亡くなられた人たち これから生まれてくる子どもたち
に どう生きるかを示す責任がある 私たちは宮沢賢治の
「利他の精神」がその道しるべになると考える ここに大槌
と関わりの深い詩碑「旅程幻想」を建立し顕彰する
2019年3月11日 大槌宮沢賢治研究会

 これは、同じく「大槌宮沢賢治研究会」が建立した「暁穹への嫉妬」詩碑にも刻まれている言葉ですが、「生き残った私たち」の「責任」を自らに問いかけ、その答えを賢治の「利他の精神」に見出す姿勢に、やはり深い感銘を禁じえません。
 このようにして、賢治の作品や生き方に真摯に向かい合う大槌町の方々には、頭が下がるばかりです。

 さて今回、大槌町に建立された詩碑のテキストに、「旅程幻想」が選ばれたのは、この作品の舞台が大槌町であるという説があるからです。
 この作品は、1925年(大正14年)の1月に、賢治が三陸地方を旅した時に書かれた連作のうちの1つですが、この作品と同じ1月8日の日付のある「発動機船[断片]」では、宮古港を午前0時に三陸汽船で出航して南下中の深夜の海が描かれ、翌1月9日付けの「」は、釜石の叔父宅に一泊した後、また花巻に向けて帰途につくところです。ですからこの「旅程幻想」は、汽船を降りた港から釜石に向けて歩いている途中の情景であると推測されます。ただ、その具体的な場所までは、まだわかっていません。
 「大槌宮沢賢治研究会」の方々によれば、作品中にある「放牧用の木柵」というのは、むかし大槌町の東部にあった牧場を指しているのではないかということで、また6行目の「この荒れた河原の砂」とは、大槌町内を流れる「小鎚川」の河原ではないかと、推測しておられます。

 まだ確実なところはわかっていませんが、しかし賢治がこのあたりの道をずっと歩いてきて、河原で一人寂しく休憩したのは事実で、作品からはそんな賢治の姿が、浮かび上がってくるかのようです。
 ちなみに下の写真は、その舞台の1つの候補である「小鎚川」にかかる橋の上から、川上の方を眺めたところです。