イーハトーヴォ海岸地方の人情

 「ポラーノの広場」に、次のような箇所があります。

次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり岩石の標本をとったり古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったりそしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。海岸の人たちはわたくしのやうな下給の官吏でも大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました。沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました。夜にはわたくしの泊った宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたりしてくれました。たびたびわたくしはもうこれで死んでいゝと思ひました。けれどもファゼーロ! あの暑い野原のまんなかでいまも毎日はたらいてゐるうつくしいロザーロ、さう考へて見るといまわたくしの眼のまへで一日一ぱいはたらいてつかれたからだを踊ったりうたったりしてゐる娘たちや若ものたち、わたくしは何べんも強く頭をふって、さあ、われわれはやらなければならないぞ、しっかりやるんだぞ、みんなのために、とひとりでこゝろに誓ひました。
そして八月三十日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました。

 ここは、「ポラーノの広場」の中でも、とりわけ素敵なところの一つです。

 「イーハトーヴォ」=「岩手」ですから、「イーハトーヴォ海岸」というのは「岩手海岸」、すなわち「三陸海岸」のことです。
 上の引用箇所は、レオーノキューストが勤務先のモリーオ市博物局から出張を命じられて出かける場面で、キューストは「あのイーハトーヴォの岩礁の多い奇麗な海岸へ行って今ごろありもしない卵をさがせといふのはこれは慰労休暇のつもりなのだ」と考えて、ほくほくします。
 その喜びのままに彼は旅立ち、岬と岩礁が美しく連なる海岸地方で、地元の人々の心づくしの歓待を受け、「わたくしはもうこれで死んでいゝ」と何度も思うほど、感動するのです。

 宮沢賢治も、生涯で何度か三陸地方を旅していますが、その際に彼は地元の人々の人情に触れて、上のような感動を味わったことが、はたしてあったのでしょうか。「珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれ」たり、沖の岩礁に渡るのに「船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれ」たり、「宿の前でかゞりをたいていろいろな踊りを見せたり」してもらった体験が、実際にあったのでしょうか。

 賢治の三陸旅行というと、何となく孤独で陰鬱なイメージがあり、上記のような明るさとは対照的な感じもするのですが、今日は賢治の三陸体験と、上の「ポラーノの広場」の描写との関連について、考えてみたいと思います。

 ところでまず最初に、「三陸海岸」という言葉が指す範囲について、ここであらかじめ確認しておきます。「イーハトーヴォ海岸」という賢治の呼称からは、「岩手県の海岸線」を指しているという解釈も可能ですが、上の引用のように、レオーノキューストの旅は「サーモ」から始まっており、鮫町は青森県に属することから、岩手の海岸だけに限定せず、これはもう少し広くとらえておく必要があると思われるのです。

 米地文夫氏らは「地名「三陸海岸」に関する地理学的、社会学的問題(第3報)」において、一般に「三陸海岸」の範囲については、次の三つの見方があると指摘しています。

A:八戸市鮫角から金華山まで
B:八戸市鮫角から石巻まで
C:下北半島尻屋崎から阿武隈川河口まで

 Aは、「外洋に面した北上山地東海岸」に相当します。Bは、「北上山地が太平洋に臨む海岸」を指し、Aの金華山より西方においても、石巻の万石浦まではリアス式海岸が続いているという地理的特徴を踏まえたものです。Cは、もともと「三陸」という言葉は、「陸奥」「陸中」「陸前」という三つの「陸」に由来しているので、その全ての太平洋岸を合わせると、この範囲になるわけです。
 その上で米地氏らは、Bの範囲が地理学的・社会学的に最も妥当だと論じておられますので、本記事でもこれに倣うこととします。これは賢治が、イーハトーヴォ海岸の描写を北端の「サーモ」から始めていることとも合致します。

 ところでこのBの範囲が、「リアス式海岸」の存在に着目していることから、今回は賢治の旅行との関係上、これを少しだけ拡張させていただこうと思います。
 石巻の万石浦までは、上記のようにリアス式海岸が続いているのですが、そのすぐ西方の石巻市中心部には北上川の沖積平野があり、ここでリアス式海岸はいったん途切れます。しかし、そのさらに西方の松島湾は、もともとリアス式海岸だったのが、沈降して多島海になったものですから、ここも元来の地形としては、三陸海岸と一続きだったのです。
 そこで本記事では、石巻西方の松島湾や塩釜の七里ヶ浜も含めた範囲を、広義の三陸海岸と考えておくことにします。そうすれば、下記の賢治の旅行の➀も、何とか「三陸旅行」に含めることができるのです。

 さて、以上を前置きとして、賢治の生涯における三陸旅行としては、下記の四つがありました。

① 盛岡中学の修学旅行(1912年5月)

② 東海岸実業視察団(1917年7月)

③ 真冬の単身三陸行(1925年1月)

④ 妹たちとの八戸旅行(1926年8月)

 これらの旅行中の賢治の行動や体験について検討したいのですが、賢治自身が記録をつけているわけではありませんので、旅行中の彼の作品・書簡や、他の人による記録や記憶に頼ることになります。

 以下では、上の➀~④に挙げた賢治の旅行を、順に見ていきます。

 まず➀は、賢治が盛岡中学4年、14歳の時の旅ですが、修学旅行団は北上川を船で下って石巻に出て、さらに松島~仙台をまわりました。この旅行において賢治は、石巻の日和山から、生まれて初めて海を見るという体験をしました。

10 まぼろしとうつゝとわかずなみがしら
きほひ寄せ来るわだつみを見き。

(歌稿〔B〕)

われらひとしく丘に立ち
青ぐろくしてぶちうてる
あやしきもののひろがりを
東はてなくのぞみけり
そは巨いなる塩の水
海とはおのもさとれども
伝へてきゝしそのものと
あまりにたがふこゝちして
たゞうつゝなるうすれ日に
そのわだつみの潮騒えの
うろこの国の波がしら
きほひ寄するをのぞみゐたりき

(「〔われらひとしく丘に立ち〕」)

 初めて見た海は、期待に反して「あやしく」「恐ろしい」もので、賢治を喜ばせるものではなかったようです。
 またこの旅行中に、賢治は団体から一人離れ、塩釜の南東の七里ヶ浜で療養している伯母平賀ヤギを訪ねたのですが、行き会う人々はまるで賢治を冷笑するように見えて、心細く道を急いだのでした。

塩釜にて無理に先生の許可を得その夜の八時半迄に仙台に行く事を約して只一人黄き道を急ぎ申し候 曇れる空、夕暮、確かなる宛も無き一漁村に至る道、小生は淋しさに堪へ兼ね申し候 無意識に小生の口に称名の起り申し候 肥れる漁夫鋭き目せる車夫等に出合ふ度に小生の顔を見つゝ冷笑する如き感を与へられ不快なる心もて塩釜より約一時間両び海を見黒き屋根の漁夫町を望み申し候 波の音は高く候へき。

(父あて書簡4)

 以上のように、この旅行における賢治は、海岸地方の人々の人々の人情によって心温まる体験をしたとは思えません。
 しかし、「ポラーノの広場」におけるイーハトーヴォ海岸地方の描写の最後は、「小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました」で締めくくられているのです。この行程は、賢治も修学旅行で松島から塩釜まで船で行き、伯母を見舞った後、塩釜から仙台までは汽車で行ったことと一致しており、キューストの旅のこの部分には、この時の旅行の体験が反映しているのではないかと思います。

 次に②は、賢治が盛岡高等農林学校3年の時に、花巻の財界の有力者による「東海岸実業視察団」の一員として、釜石から宮古方面を訪れたものです。
 この2年前の1915年に、岩手軽便鉄道が花巻から仙人峠まで開通し、それまで岩手県内陸部と三陸の間の大量輸送は、八戸や石巻廻りの海運に頼るしかなかったのが、これによって多くの人や物の往来が可能になったので、花巻の財界人たちは新たなビジネスチャンスを探るべく、三陸を視察することにしたのです。
 団長は岩手軽便鉄道株式会社社長の三鬼鑑太郎、以下花巻警察署長の笹井初之進、岩手県の最高納税者で後に貴族院議員になる瀬川弥右衛門、後の町長の梅津善次郎、花巻銀行・岩手軽便鉄道・花巻電気株式会社取締役の梅津東四郎、花巻町会議員の佐藤金太郎、宮沢商会の宮沢直治など、錚々たる顔ぶれの中で、20歳で学生の賢治だけが、一人浮いている感じです。この時点ではまだ、賢治が卒業したら家業の質屋を継ぐことになっていましたから、父政次郎としては、有力者との顔つなぎをさせておこうという意図もあったのかもしれません。

 視察団の道中の様子を伝える『岩手日報』の記事によれば、一行は7月25日朝8時半に花巻駅を軽便鉄道で出発すると、すぐに「門出祝い」としてワインの栓を抜き、昼前に遠野駅に着くや、町長と警察署長が出迎えて、駅構内に設けたバラックでビールとサイダーの歓待を受けました。
 徒歩で登る仙人峠の頂上でも、花巻電気会社から差し入れのビールとサイダーで喉を潤し、夕方に釜石に到着すると、やはり町長、警察署長、町会議員らが出迎えて、釜石湾内に停泊する船に乗り込み、またビールとサイダーの饗応を受けました。
 さらに夜は釜石の料亭三笠楼において、11時まで歓迎宴会という一日でした。

 二日目は、三陸汽船に乗って北に向かい、まず大槌港では町長が出迎え、商業組合からビールとサイダーを寄贈され、山田港では町長や警部補が扁船で出迎え、上陸して警察派出所楼上で昼餐を振る舞われました。
 宮古に着くと、やはり町長・警察署長の出迎えを受けて、三陸汽船宮古支店長所有の海を見下ろす豪華絢爛な別荘「対鏡閣」にて、酒池肉林の大宴会がありました。
 宮古町の隣の鍬ヶ崎は、江戸時代から交通の要衝で遊女屋が多く集まっていたとのことですが、明治から大正にかけては東日本有数の花街として繁栄し、大正初めには芸妓54人、娼妓54人、料亭29軒、遊郭12軒を数えたということです。一行は、「鍬ヶ崎美人」による歓待や踊りを、大いに楽しみました。
(以上の『岩手日報』の記事の内容は、奥田弘著『宮沢賢治研究資料探索』pp.110-119を、参考にさせていただきました。)

 賢治は、二日目の夜までは視察団と行動を共にしていましたが、いったん皆と一緒の旅館に荷を解いた後、盛岡中学時代の後輩の岡田与志松の家に移り、宿泊しています。
 これ以後、賢治は視察団とは離れ、三日目は岡田与志松の案内で浄土ヶ浜に行っています。
 そのおそらく翌日、一人徒歩で小国峠を経て遠野を目ざし、花巻には7月29日夜か30日に帰り着いたと推定されています。

 この旅行中の賢治の作品としては、次の短歌があります。

556 房たれし
かんざしなどをおもふことも
海行くときはゆるされもせん
     ※

557 たよりなく
蕩児の群れにまじりつゝ
七月末を 宮古に来る。
     ※

558 ひとびとは
釜石山田いまはまた
宮古と酒の旅をつゞけぬ。
     ※

559 宮古町 夜ぞらをふかみ
英吉の
山彙はるかに妻を恋ふらし。
     ※

560 うるはしき
海のびらうど 褐昆布
寂光ヶ浜に敷かれ光りぬ。
     ※

561 寂光のあしたの海の
岩しろく
ころもをぬげばわが身も浄し。
     ※

562 雲よどむ
白き岩礁
砂の原
はるかに敷ける褐の海藻
     ※

563 寂光の
浜のましろき巖にして
ひとりひとでを見つめゐるひと。
     ※

563a564 基督の
さましてひとり岩礁に
赤きひとでを見つめゐるひる
 ※

564 べられし昆布の中に
大なる釜らしきもの
月にひかれり。

 上の『岩手日報』の記事に紹介されているように、視察団一行はまさに酒に明け暮れており、賢治が短歌558で「酒の旅」と書き、557で「蕩児」と呼んだのも、無理もないことです。
 556の「房たれしかんざし」は、普通は一般人が差すものではないでしょうから、花街の女性のものと思われます。賢治が、このような女性の装身具に関心を示すというのは珍しく感じられますが、彼とて旅先では、ちょっと浮かれた気分になることもあったのでしょうか。

 さて、この視察団の一員として各地を訪れた際に、確かに一行は行く先々で、町長や警察署長を筆頭とした盛大な歓迎を受けています。これは、賢治個人を迎えてくれたわけではありませんが、「ポラーノの広場」に言うところの、「大へん珍らしがってどこへ行っても歓迎してくれました」とい表現には、お釣りが来るほど該当しています。
 また、やはり「ポラーノの広場」には、「いろいろな踊りを見せたりしてくれました」とありますが、二日目夜の鍬ヶ崎の大宴会におて芸妓たちは、様々な踊りを披露してくれたことでしょう。とりわけ、鍬ヶ崎芸妓の十八番と言われていたのは、下の「大漁踊り」です。

 YouTubeの上記動画の説明としては、次のような文章が記されています。

「大漁踊り」とは、岩手県宮古市鍬ヶ崎地区にかつて存在した花街のお座敷で踊られていた鍬ヶ崎芸妓の十八番です。
戦後の世の移ろいとともに失われてしまった踊りを、日本舞踊家 泉流家元・泉秀樹さんの協力のもと復興。
復興した大漁踊りは、2020年2月8・9日公演の第2回みやこ市民劇「鍬ヶ崎エレジー」の劇中で披露され、鮮やかな色の衣装を身にまとった芸妓役5名が踊りました。

【舞踊復興プロジェクト】大漁踊り(みやこ市民劇劇中映像)

 これは、「ポラーノの広場」の雰囲気から想像するような、地方的な民俗舞踊とはかなり趣を異にしてはいますが、しかし賢治がかつて三陸地方において「いろいろな踊り」を見たのだとすれば、確かに一つの候補になる体験でしょう。

 次の③は、1925年1月の厳冬の三陸海岸の一人旅で、この旅行中に書かれた(あるいはこの時の体験をもとにした)作品には名作も多く、従来からいろいろと論じられてきました。
 この旅行の日程は、下表のように推定されています。

日付 時間 賢治の行動と「作品」
1/5 花巻農学校で?「異途への出発
21:59 花巻駅発(東北本線下り)
1/6 02:27 尻内駅(現八戸駅)着
04:50 尻内駅発(八戸線下り)
06:05 種市駅着、その後は徒歩または乗合自動車で南下
夜明け 海沿いを歩きつつ:「暁穹への嫉妬」(→「敗れし少年の歌へる」)
日中 さらに南下
下安家の旅館に宿泊
1/7 夜明け 海岸を歩く親子を見る:「〔鉛のいろの冬海の〕
下安家か堀内で?発動機船に乗船
午後 ネダリ浜で?割木の積み込みを見る:「発動機船 一」、「〔水平線と夕陽を浴びた雲〕[断片]」?
羅賀で?蛸の樽の積み込みを見る:「発動機船 第二」、「発動機船[断片]」?
夜遅く 宮古港に入港:「発動機船 三
1/8 00:00 宮古港から三陸汽船で出航
午前 山田港か大槌港で?下船、その後は徒歩で南下:「旅程幻想
釜石の叔父・宮沢磯吉宅に宿泊
1/9 午前 鈴子駅から田中鉱山線に乗り大橋駅下車
徒歩で仙人峠を越えつつ、釜石方面を振り返る:「
午後 仙人峠駅から岩手軽便鉄道で花巻へ

 上記の作品を見る限りでは、この旅行における人との接触は、釜石の叔父宅でのものが推測されるだけで、地元の人々との交流は確認できません。「〔鉛のいろの冬海の〕」でも、「発動機船 一」でも、「発動機船 三」でも、賢治は人々を注意深く観察していますが、関わりは何も描かれていないのです。

 したがって、この③の旅行の体験が、「ポラーノの広場」の「イーハトーヴォ海岸地方」の描写に反映している所見は、残念ながら何も見出せません。
 しかし、三陸海岸の北端に到着して、そこから順々に南下していくという行程は、「汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ち」、「だんだん南へ移って行きました」という、「ポラーノの広場」の記述と同じです。
 この部分だけは、③の体験が童話に生かされているのかもしれません。

 最後に④は、農学校を辞めて単身生活を始めていた賢治が、次妹のシゲ、その息子で1歳の純蔵、三妹のクニを連れて、八戸を訪ねた2泊3日の旅行です。
 この旅行の内容は、堀尾青史がシゲ・クニからの聞き書きをまとめた『校本全集』の年譜と、「「文語詩篇」ノート」のメモ以外には、手がかりがほとんどありませんが、堀尾の記述を再掲した『新校本全集』の年譜には、次のようにあります。
 まずは、旅行第一日目です。

八月 「「文語詩篇」ノート」に記されたメモによると、「31」(歳)「1926」として、「八月 夕、萱、路、(T)来ラズ 九戸海岸、」「鮫駅 海光ノ中ニテ物思ヘル女」とある。
 この月、妹シゲ、その長男純蔵、末妹クニをつれ、八戸方面へ小旅行を試みる。くたびれた白い麻の服を着、幼な子をあやしたり抱いたり、車窓を過ぎる風景を説明しながら八戸、鮫駅着。陸奥館に入る。服装からしていいお客と見られず、二階の少し粗末な一室に通され、宿帳の職業欄に「教師」と書く。夜の食膳ではウニに卵をからませた「カゼ」という料理がおいしかった。

(『新校本宮沢賢治全集』第十六巻年譜篇p.318)

 車中の賢治は「幼な子をあやしたり抱いたり、車窓を過ぎる風景を説明しながら……」という様子で、けっこうリラックスして機嫌の良さそうな感じです。
 上記では泊まった旅館が「陸奥館」とされていますが、当時の鮫には「陸奥館」という旅館はなく、これは「石田屋」だったのではないかと推定されています(「病める女性とともに(1)」参照)。

 二日目は、年譜には次のように記されています。

 翌日は種差海岸へいく。大岩に烈しく波が打ち寄せ、浜の草原には立派な馬が駆けた。岩の上で釣りをする人があり、一時間ほどして見るといつのまにか潮が満ちて、岩は海中に没しそうになりながら、それでもまだ釣っているのであった。夕方、陸奥館に帰るとお茶代が利いたのか部屋がかえられていた。

 最後の三日目も、賢治たちは海岸で過ごします。

 三日目、朝早く砂浜に出ると漁師のおばさんが、海でとったばかりの大きなアワビを六、七個持っており、頼むと五〇銭でわけてくれたので安いのに驚く。今日は舟を頼んでウミネコの繁殖地蕪島を見にゆくのである。屈強の男がふたり舟をこいで島へのりつけて上る。一面雑草の中に数知れぬウミネコがおり、春やってきて産卵し生まれたヒナたちを加えて何千羽かわからない。男たちが雑草を根こそぎぬいて放りなげると、休んでいた鳥たちは一斉に舞い上がりミュウミュウと空をまっ暗に覆ってとびまわった。やがて騒ぎがおさまり、再び舟にのって帰る。あす、また別のところへ行こうかと相談したが、妹たち、特にシゲは子どもをかかえ、おみやげのアワビの鮮度も心配なので帰ることにする。宿の勘定は気前よくはずみ、宿では玄関先でお盆にいろいろのお返し物をのせてさし出した。その中には鯨のひげで作った小楊子などもあった。賢治はていねいに礼を言って出る。

 上記で、滞在を延長しようかという話になった時に、帰ろうと言わざるをえなかったのは妹たちのようなので、延長を望んでいたのはおもに賢治だったのでしょう。「宿の勘定は気前よくはずみ」というところを見ても、やはり賢治は終始機嫌が良かったように見えます。

 上の賢治たちの行動の中で、「舟を頼んでウミネコの繁殖地蕪島を見にゆく」ということで、「屈強の男がふたり舟をこいで島へのりつけて上る」というところは、「ポラーノの広場」の「沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました」という箇所を連想させます。
 現在は、蕪島は本土と陸続きになっていますが、これは1942年に海軍が八戸港の軍港としての防衛を強化するために埋め立て工事を行った結果であり、当時は離れ小島だったのです。
 「ポラーノの広場」では、「十六人もかかって櫓をそろへて漕いで」とあり、漕ぎ手の人数は賢治の舟の二人とは大きく違いますが、その点は「発動機船 第二」の、次の箇所の方に似ています。

近づいて来る伝馬には
木ぼりのやうな巨きな人が
十人ちかく乗ってゐる
ここまでわづか三十間を
ひるもみんなで漕いだのだから
夜もみんなで漕ぐのだとでも云ひさうに
声をそろへて漕いでくる

 また、浜辺で「漁師のおばさん」が、獲れたてのアワビを安く分けてくれたエピソードなどは、イーハトーヴォ海岸地方の人々が素朴な歓待をしてくれたという話に、共通する雰囲気を感じます。宿屋の仲居さんが、最後にたくさんのお土産を持たせてくれて、賢治がていねいに礼を言ったというところもそうです。

 以上をまとめると、レオーノキューストによる夏の旅行の行程には、➀1912年修学旅行の塩釜までの航海と仙台までの汽車の旅、③1925年冬に三陸北端から順々に南下した記憶が、反映しているのではないかと思われます。
 「どこへ行っても歓迎してくれました」と、「いろいろな踊りを見せたりしてくれました」の背景には、②1917年東海岸実業視察団での体験があり、「沖の岩礁へ渡らうとするとみんなは船に赤や黄の旗を立てゝ十六人もかかって櫓をそろへて漕いでくれました」というところには、④妹たちとの三陸旅行の蕪島と、③冬の三陸の発動機船から見た伝馬船の漕ぎ手たちの記憶が、生かされているのではないかと考えます。

 生涯で四度にわたって三陸を訪ねた賢治にとって、そこはただ単純に楽しいだけの場所ではなく、さまざまな複雑な思いの込められた土地だったと思うのですが、「ポラーノの広場」で描かれる「イーハトーヴォ海岸地方」の明るさと、地元の人々の人情の厚さは、おもに最後の妹たちとの小旅行の際の、楽しかった思い出によるところが大きかったのではないかと感じた次第です。

1922年頃の蕪島
1922年頃の蕪島(Wikimedia Commonsより)