定稿用紙上の下書稿

 宮沢賢治は、自らの詩の創作スタイルに合わせた専用の「詩稿用紙」を使って、推敲の作業を行っていました。A4版より少し小さい厚手の紙に、余白を広めにとって、縦の罫線を22行~26行印刷したものです。この用紙を使えば、テクストの周囲に厖大な推敲字句を記入でき、保管しておいて後日また取り出しさらなる推敲を加えるという、彼特有の詩作作業を行う上で、とても都合が良かったのです。
 この詩稿用紙にはいくつかの種類があって、赤色の罫線が印刷された「赤罫詩稿用紙」が一種、謄写版で自作した「黄罫詩稿用紙」が計八種、そして没年に作成した赤罫の「定稿用紙」一種が、存在しています。

 それぞれの用紙の呼称は、賢治自身が付けたものではなく、後年に研究者が分類して名づけたものですが、「赤罫」「黄罫」という即物的な名称に対して、最後の「定稿用紙」だけは、この用紙の使用目的を名前にしているところが、一つだけ異質です。

 とは言っても、上記の「使用目的」も、作者自身がそう言っているわけではありません。賢治が「定稿」という言葉を使用しているのは、「文語詩稿 五十篇」および「文語詩稿 一百篇」の原稿を挟んでいた厚手和紙表紙に記されていた、次の文言においてのみです。(強調は引用者)

文語詩稿 五十篇
   本稿集むる所、想は定りて表現未だ足らざれど
   も現在は現在の推敲を以て定稿とす。
    昭和八年八月十五日     宮澤賢治

(『新校本全集』第七巻校異篇p.6)

文語詩稿 一百篇、昭和八年八月廿二日、
  本稿想は定まりて表現未だ定らず。
  唯推敲の現状を以てその時々の定稿となす。

(『新校本全集』第七巻校異篇p.178)

 飽くなき推敲作業によってテクストを変化させ続け、「永久の未完成これ完成である」という言葉も残した宮沢賢治という詩人において、その変化の流れを断ち切って固定してしまう「定稿」という概念は、どうにも相応しくないものではあります。しかし、その死まであと1か月ほどという時期に至り、彼も自分の推敲作業が終焉を余儀なくされていることを、認めざるをえなかったのでしょう。
 そこで上記のように、1933年8月15日と22日の時点で、一つの段階のテクストを「定稿」と決めるという、苦渋の決断をしたのです。「表現未だ足らざれど……」などの表現に、彼の悔しさが滲んでいる感じがします。

 詩稿用紙の話に戻ると、現在「定稿用紙」と呼ばれている用紙を賢治が印刷所に注文作成したのは、弟清六氏の証言によれば1933年の夏だったということです。そして、ここで賢治が「定稿」と指定したテクストは、上記のように8月15日と22日付けで、いずれもこの新たに刷り上がった用紙に記入されているのです。
 となると、この用紙は賢治が文語詩の「定稿」を清書するために準備したのだと、解釈するのも自然なことであり、研究者がこの用紙の名称を「新赤罫詩稿用紙」などとせずに、「定稿用紙」としたのも、十分に理解できることです。
 この用紙は、賢治の創作史において、特別な重みを持っているのです。

 上述のような文語詩創作の流れに立てば、「文語詩稿 五十篇」および「文語詩稿 一百篇」に属する作品の、定稿用紙に記入された形態を「定稿」と呼ぶことは、作者の意思を反映したものとして、当然の扱いと言えます。賢治自身がそれを「定稿とす」と、記しているからです。
 しかしここで問題が複雑化するのは、賢治が「定稿用紙」に記入したのは、上記のような意味を込めた文語詩だけでなく、「春と修羅 第二集」や「第三集」に属する口語詩も、多数あったということです。
 『校本宮澤賢治全集』や『新校本宮澤賢治全集』においては、口語詩の場合でも、賢治が「定稿用紙」に記入した形態は、これを「定稿」と呼ぶことにしています。ただしかし、口語詩の場合は、賢治が上の文語詩について述べたような意味において、特定のテクストを「定稿」と見なしていたわけではなさそうです。
 『新校本全集』の「校異篇」の凡例にも、次のように書かれています。(強調は引用者)

五、《逐次形》は、本文形の成立までの段階を、推定される順に稿ごとに説明を加える。(1)(2)等を用いて稿の順序と呼称を示し、それぞれについて、用紙・用具・推敲過程を説明する。その際、「本文」篇巻頭凡例十四に示す定稿用紙に清書されたものを一応「定稿」とよぶが、文語詩の場合と異なり、著者に「口語詩定稿」として特にまとめて決定稿化する意図があったわけではないと思われる

(『新校本全集』第三巻校異篇p.xiv)

 すなわち、賢治は口語詩の最終形を「定稿」とは見なしていなかったと思われるが、『全集』の慣例として、「口語詩についても定稿用紙に記入されている形態を定稿と呼ぶ」ことになっているのです。

 ところが、ごく少数ですが、上のような「慣例」の例外となっている作品原稿があります。
 「春と修羅 第二集」所収の「〔向ふも春のお勤めなので〕」は、珍しいことに、定稿用紙に記入された形態が、二つ残されているのです。二種のテクストは、『新校本全集』では、それぞれ「下書稿(四)」と「定稿」と呼ばれています。もしも、「定稿用紙に記入されている形態を定稿と呼ぶ」という慣例を機械的に適用するならば、前者は「定稿(一)」、後者は「定稿(二)」と呼ぶべきかもしれませんが、しかし定稿が二つあっては語義矛盾をきたす感があるので、たとえ定稿用紙に書かれていようとも、前者は「下書稿」と呼んだというわけでしょう。この判断は、やむをないものかと思います。
 ちなみに、定稿用紙上の形態が二つも残された理由について『新校本全集』の編集者は、「おそらくは清書中に気が変って、ここで中断し、改めて次稿を清書したものかと思われる」と推測しています(『新校本全集』校異篇p.128)。

 上の例は、「定稿」用紙に書かれていながら「下書稿」と呼ぶのも、まあやむをえないかと思われる例ですが、同じく「春と修羅 第二集」所収の「〔いま来た角に〕」の下書稿(四)は、定稿用紙に記入されている形態が一つしかないにもかかわらず、「定稿」ではなく「下書稿」と呼ばれているという、特殊な例です。
 この稿が、定稿用紙に書かれているのに下書稿と分類されている理由について、『新校本全集』には明確な説明はなく、「校異篇」のこの項には、次のように記されているだけです。

(4)下書稿(四)
 本稿は、定稿用紙一枚の表裏の罫を用い、ブルーブラックインクで一応清書し、のちにブルーブラックインクで大幅に手入れされたもの。

(『新校本全集』第三巻校異篇p.101)

 「一応清書」とありますから、大雑把な「下書き的」な書き方だったことを理由に、「下書稿」にしたというわけではなさそうです。残された理由としては、「大幅に手入れ」がなされているので、「定稿」とせず「下書稿」としたということではないかと想像します。
 実際のところ、この定稿用紙上の第一形態のテクストは49行あるのですが、後から手入れが加えられているのは、5~20行、22行、23~27行、31~33行、34行、35行、36行、38行、39行、40行、44行、49行、という総計33行に及んでおり、全体の4分の3ほどに手入れがなされているわけです。

 他の作品でも、定稿用紙上である程度の手入れがなされている場合はあるものの、ここまで大幅な手入れの例は見られず、これは確かに「清書稿」と呼べる状態ではありません。
 そのような原稿の状態から、これを「定稿」と呼ぶのは憚られたので、「下書稿」に分類されたのかもしれません。

 しかし、いくら大幅な手入れが行われたとしても、その手入れの最終結果については、やはり「定稿用紙上の最終形」なのですから、「定稿」と呼んでも良いのではないかと、個人的には思ったりします。


 『新校本宮澤賢治全集』の「詩」の部においては、「定稿」が存在しない場合には、「下書稿(一)→下書稿(二)→……→下書稿(n)」という系列になり、「定稿」が存在する場合には、「下書稿(一)→下書稿(二)→……→定稿」という系列になります。
 つまり、詩の草稿は、「下書稿」か「定稿」か、二種類のどちらかに分類されることになるのです。(文語詩においては、ごく一部「習字稿」「扇面毛筆稿」と呼ばれる草稿も存在しますが、これらも広い意味では「下書稿」に属するものと言えます。)

 しかし、実際には「下書稿」と「定稿」は、対概念あるいは対義語ではなく、「下書稿」が意味する範囲と「定稿」が意味する範囲が、完全には相補的になっていないところが、この分類方法の難点なのかもしれません。
 本来は、「下書稿」の対義語は「清書稿」であり、「定稿」の対義語は「未定稿」です。それぞれの意味する範囲は、似てはいるものの、全く同一ではありません。

 一般論として、すべての草稿を、「下書稿」か「清書稿」かのいずれか、あるいは「未定稿」か「定稿」かのいずれかに分類することは、少なくとも理屈の上では可能なはずです。しかし、それを「下書稿」か「定稿」かのいずれかに分ける、ということになると、困難が生ずる場合もあるのではないでしょうか。

 しかしだからと言って、「下書稿」と「定稿」に分けるという、現在の『新校本全集』の分類に代わる分け方も、思いつきません。文語詩に対する「定稿」という呼称は、死を前にした賢治の思いを込めた言葉として、どうしても外せないと思います。
 強いて別案を考えるとすれば、「口語詩については、定稿用紙に書かれていても定稿とは呼ばず下書稿とする」という方法は、ありうるかなと思ったりもします。

定稿用紙
定稿用紙の例(『新校本全集』口絵より)