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溶解体験と逆擬人法

 いま、矢野智司著『贈与と交換の教育学 ―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』という本を読んでいます。

贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン 贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン
矢野 智司

東京大学出版会 2008-02
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 以前に買って、その頃に中身をぱらぱら見ると、賢治論としてもとても面白そうに思ったのですが、「教育学」というのは自分にとってあまり馴染みのない分野だったので、何となくそのままになっていました。
 ところが数日前に、ふとしたきっかけでこれを久々に本棚から取り出してみると、やはりこれが何とも奥深い内容だったんですね。私にとっては、賢治に対する新たな視点も与えてくれるようなもので、早く読んでなかったことを、今さらながら悔やんでいます。

 さてこの本は、書名のとおり「教育学」を論じるもので、簡単に言えば、社会規範に従って子どもの「発達」を促そうとする従来の一般的な「教育」に対置して、子どもが(社会的な文脈には回収できないような)「脱自的」な体験をすることによって、「生成変化」を遂げる過程としての「教育」に、光を当てようとするものです。
 本書において、上の意味での前者は「発達としての教育」と、後者は「生成としての教育」と呼ばれます。後者における「生成」という、共同体的な言葉を超越した事態を論ずるために、著者は、漱石の「こころ」とともに、賢治の様々な童話――「銀河鉄道の夜」、「種山ヶ原」、「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」、「貝の火」、「なめとこ山の熊」など――を取り上げて、論旨の補助線として用いているのです。
 著者は、漱石の「こころ」や賢治の諸作品においては、「純粋贈与」という関わりが重要な役割を果たしていることを明らかにしていきますが、その言うところの「生成としての教育」を実現する上では、この「純粋贈与」こそが鍵になるというのが、この本の基本的な論旨です。

 あらためて考えてみれば、著者の言う「純粋贈与」という概念は、私にとっては例えばカムパネルラの死やグスコーブドリの死に対しても、新たな理解を与えてくれるように思われました。また、現代に至るまで、賢治の精神を引きついだたくさんの人々(例えば「イーハトーブ賞」の受賞者)が、言わば「贈与のリレー」として、様々な実践活動を展開しているという状況をも、広く俯瞰的にとらえさせてくれるものでした。
 しかし、このあたりの事柄について述べるのはまた近いうちに稿を改めることとして、今日は、そこまで至る途中経過における著者の賢治論で、私も共感するところを二点ほどご紹介したいと思います。

 一つは、社会学者作田啓一氏の用語に倣って著者が「溶解体験」と呼ぶところの、「自己と世界との境界が溶解し、世界と合一化するような脱自的・恍惚的体験」と、賢治の「心象スケッチ」との関連です。
 著者によれば、人間はこの「溶解体験」を経ることによって、何らかの意味で生成変容を遂げていくというわけですが、言うまでもなく宮澤賢治という人は、この種の「溶解体験」を様々な形で感得し、多くの作品に記述した人です。
 その最も典型的でわかりやすい例の一つとして私がよく引用するのは、次の「種山ヶ原」の下書稿(一)第一形態の一節です。

あゝ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ここで賢治にとっては、「わたくし」と、水や光や風で構成された「外界」との間の境界が溶解して、彼は一種の「忘我」の境地に至っています。

 このような状態について、私は以前に「宮澤賢治の世界感覚について」という記事において、「<わたくし>=<世界>」という形で述べました。ここでは、「自我境界の希薄化」から、「<わたくし>と<世界>が、一つに溶け合っているような感覚」に至ると書きましたが、これはまさに矢野智司氏の言う「溶解体験」そのものです。
 かくして、「わたくし」と「世界」とが溶け合ってしまうのですから、わたくしの「心象」を正確にスケッチすることが、取りも直さず「世界」について記述することと同じになるという、「心象スケッチ」という賢治の方法論が基礎づけられます。
 矢野智司氏が、これについて述べておられることに、まさに私も同感です。

 心象スケッチは自己の拡大ではなく、自己と世界との境界が溶解してしまう自己溶解、すなわち先に述べた溶解体験をもとにしている。溶解体験においては、自己と世界との境界線が溶解し、そのため自己が世界化し、同時に世界が自己化しているのである。むしろ、心象スケッチでは、世界(自己+世界)の方が基準になって作られており、人間の方が全存在者から召還されている感じを抱かせる。(p.137)

 下図は、今年3月の「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」において、こういうことについて私がお話させていただいた時の、スライドの一枚です。同じような趣旨を述べようとしたものです。

 さてもう一つ、著者の矢野智司氏が宮澤賢治の作品における方法論として抽出しているのは、「逆擬人法」という概念です。
 「擬人法」というのは言うまでもなく、人間以外の動物などに、あたかも人間のように言葉をしゃべらせたりして物語中に登場させる手法です。通常は、これは動物の形をとっていても、実際は人間のある特定のキャラクターを演じる存在として、動物の姿が借りられているのです。
 賢治の「セロ弾きのゴーシュ」について坪田譲治が述べた次の言葉が、この通常の意味での「擬人法」のスタンスを、よく示してくれています。

 この「セロ弾きのゴーシュ」の猫とかくこう、狸と野ねずみは、これは子供の話だからこんな動物がだしてあるのであります。その方がわかりいゝし、玩具の好きなあなた方に、面白いからさうしてあるのです。もし大人の話だったら、もとより人間で出て参ります。だからこれらの動物は、動物であっても実は人間と考へていゝわけです。(『風の又三郎』あとがき「この本を讀まれた方々に」)

 しかし実は、賢治の作品に出てくる動物は、子供向きに「人間の代わり」に登場させられているわけではないのです。
 上記のような通常の「擬人法」では、物語に出てくる動物は、実際には人間のキャラクターを姿を変えて演じているだけであり、言ってみれば、人間が動物の「着ぐるみ」をかぶって出てきているようなものです。
 これに対して、賢治の書いた物語に動物が登場する場合には、これとは正反対の事態が起こっているのです。「なめとこ山の熊」にしても、「鹿踊りのはじまり」にしても、物語中では動物の言葉が人間に理解される状況が出現しますが、そこで実際に起こっている事態は、動物が「人間化」されるのではなくて、逆に人間が「動物化(自然化)」されているのです。

 「なめとこ山の熊」で小十郎は、町の荒物屋が体現するような社会システムからは疎外され、熊と同じように、対等に命を取ったり取られたりする動物的な世界に生きています。
 「鹿踊りのはじまり」の最後で嘉十は、自分が人間であることを忘れて鹿になったような気持ちで、鹿の輪の中に飛び出していきます。
 いずれの作品でも、動物がしゃべっているという意味で一種の「擬人化」が働いているとは言えますが、通常のように「動物が人間の役回りを演じている」のではなくて、逆に「人間が(自らの本性から離れて)動物のように振る舞う」わけです。
 このような賢治の作品に独特の特徴を、矢野智司氏は「逆擬人化」と名づけているのです。

 この「逆擬人化」の一つの意味は、読者を慣れない「異界」へと誘い込むための技法であると言えます。ところで実は、賢治は同じような手法を、「人間界」の物語の中でも用いているんですね。
 それは、以前に「「銀河鉄道の夜」の日本名登場人物」という記事において、「異世界化」という言葉を用いて記述したようなことです。

 普通の人間は、世界を理解しようとする際に、なるべく自分自身に引きつけて、「擬人化」や「同世界化」というフィルターを通して見ているのに対して、賢治はそれを意識的に逆転して、「逆擬人化」「異世界化」という操作を加えて呈示するのです。

 いや、これは「操作を加えて」いるわけでもないんでしょうね。賢治には直接にそのように感じられたのに違いありません。