ドラマ『銀河の一票』

  銀河鉄道の夜

    一、午后の授業

「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうな何かご承知ですか。」
先生は、黒板に吊した大きな黒い星図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげやうとして、急いでそのまゝやめました。
〔中略〕
「このぼんやりと白い銀河を大きないゝ望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんさうでせう。」
ジョバンニはまっ赤になってうなづきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。

(「銀河鉄道の夜」第四次稿冒頭)

 昨年放送されたテレビドラマ『僕達はまだその星の校則を知らない』でも、ヒロインの国語の先生が大の「宮沢賢治推し」で、職員室の机の上は賢治グッズでいっぱいでしたが、先日最終回を迎えたドラマ『銀河の一票』も、宮沢賢治に関連した趣向が凝らされ、「農民芸術概論綱要」や「銀河鉄道の夜」の言葉が、全篇を貫いていました。
 なぜか最近また、宮沢賢治がちょっとした流行はやりなんでしょうか?

 私はふだん、一般のテレビ番組などで宮沢賢治の言葉が紹介されたりすると、どこかがこそばいような恥ずかしいような、変な気持ちになってしまって落ち着かなくなるのですが、この『銀河の一票』に関しては、第一回から最終回まで、とても面白く見させていただきました。テレビのドラマをこれほど楽しみつつリアタイ視聴するなんて、十数年昔のNHK朝ドラ『あまちゃん』以来かなあ、などと思ったりしました。

 このお話は、黒木華さん演ずる元政治家秘書の女性が、ふと出会ったスナックのママの人柄を見込んで、彼女を都知事選候補として擁立し、様々な仲間とともに選挙戦に挑むという、「選挙エンターテインメントドラマ」です。
 筋書きだけ聞くと、いったいどこに宮沢賢治が関わるんだと思ってしまいますが、賢治の「農民芸術概論綱要」の、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか、あるいは「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」というような言葉が、政治に携わろうとする人々によって、大真面目に語られるところが、まさに前代未聞のドラマなのです。
 上の賢治の言葉などは、まあふつうは抽象的で観念的な理想論のように聞こえがちで、政治の世界にこんな言葉を持ち出したりすると、はなから青臭い素人と思われてしまうでしょうが、このドラマの世界と登場人物たちの間では、これらの言葉は素人っぽいながらも真摯な共感を呼んでいくところが、とても瑞々しく感じられました。

 ドラマの登場人物の役名にも趣向が凝らしてあって、主人公のまわりの人々は、何かしら「」に関係した名前になっています。

  • 茉莉まつり(主人公:民政党幹事長の娘で長年その秘書をしていたが、ある事情で父から勘当され、自らの政治の夢を月岡あかりに託す)
  • あかり(スナックの雇われママをしていたが、失意の茉莉と出会い、都知事選立候補を要請される)
  • 雲井 (元市長の颯爽としたシングルマザーで、あかり陣営の柱の一人)
  • 白鳥 留(有名声優だが、ふとした縁であかり陣営のウグイス嬢を担う)
  • 山 流(主人公の幼馴染みで、都知事選のライバルとなる民政党若手ホープ)
  • 藤堂 (日山流星の優秀な秘書)

 また、主人公の父親が属する民政党の関係者の名字が、それぞれ岩手県内の地名なっているのも面白いです。もちろん宮沢賢治の縁とともに、ドラマの背景にかすかに見え隠れする東日本大震災の影ともつながっているのでしょうか。

  • 雫石 誠(幹事長政策秘書)
  • 野田村(幹事長秘書室室長)
  • 住田(幹事長秘書)
  • 葛巻 仁志(民政党東京都支部連合会会長)
  • 大船渡 秀樹(民政党東京都支部反主流派)
  • 遠野 千春(民政党東京都支部反主流派)

 また、画面には登場しない重要人物で、「楢ノ木」医科大学の「新座値利」という元医学部長も、ミステリアスな存在でした。この人の名前には、「銀河鉄道の夜」のいじめっ子「ザネリ」が含まれているということで、どういう意味づけが成されるのかずっと謎でしたが、最後にその自死の経緯が明かされます。
 あと賢治との関連では、幹事長が密談に使用する店の名前が「マリヴロン」というのが、童話「マリヴロンと少女」の純粋無垢さとは真逆の命名になっていて、いかにも清濁裏表ある政治の世界を、象徴するようでした。

 第9話で選挙告示日に、初の演説を前に緊張する月岡あかり候補に対して、星野茉莉がかけた言葉「どこまでも、一緒に行きましょう!」は、まさにジョバンニとカムパネルラのような深い絆を感じさせました。

 ところで、ドラマの中で何度も出てきた、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉の意味そのものは、それに共感するかどうかは別として、文字どおり誰にも理解できるものです。そこには、この世界における「個人」と「全体」との関係についての問題があります。

 しかし、もう一つよく出てきた、「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」の方はどうでしょうか。
 「正しく強く生きる」というのが、あまりにストレートな堅い言葉で、最終回では月岡あかりさんも、「たまには『正しく強く』なくてもいいじゃない?」と言ったりしていました。それでもまあ、宮沢賢治という稀代の真面目人間は、いつも「正しく強く」生きたいと願い、そのためには「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くこと」が肝要だと、考えたのでしょう。
 しかしこの、「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行く」というのは、具体的にはいったいどういうことなのでしょうか。私たちは何をすればよいのでしょうか。
 頭の中に、無数の星々が渦巻く銀河系の映像を思い浮かべながら、生きていけばよいのでしょうか。しかし正直なところ、そんなことをしたからと言って、「正しく強く生きる」ことになるとは、到底思えません。

 私は、賢治がここで「銀河系を自らの中に意識して」と言っているのは、たとえば下記の弟清六あての手紙に、「惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずる」と表現しているような、心的状態のことだろうと思います。

われわれは楽しく正しく進まうではありませんか。苦痛を享楽できる人はほんたうの詩人です。もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるいは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。

(宮沢清六あて書簡212, 1925年9月21日)

 賢治は弟に宛てたこの手紙で、「楽しく正しく進もう」と呼びかけ、そのために「銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずる」という話を持ち出します。賢治にとっては、おそらくこれが「正しく強く生きる」ことの土台なのでしょう。
 ここで賢治が言っている「惚として……」という状態は、おそらく恍惚とした一種の神秘体験であり、これは一般的には、禅や瞑想の修行によって到達を目ざすような心的状態と思われます。言わば、「意識が自我の束縛から脱け出して、自己と世界全体が溶け合い一体化した、忘我の状態」です。「自分の外に出る」ことから、「脱自エクスタシー=ek(外に)-stasis(立つ)」とも呼ばれますが、ふだんから賢治は自然の中で、このような境地を時々体験していたことが、いくつかの詩から読みとれます。

 「銀河系を自らの中に意識して」というのは、自分と銀河系が融合して一体化し、重畳している状態に自分自身を置いて、まさにその境地に立ちながら「自己自身である銀河系全体」を体感し、思考し、対処していこうということなのだと思います。

 ……というようなことを言われても、私たち一般人にはちょっと体験できない感覚ですが、しかしこのような意識をもって世界を眺めれば、「全体」と「個人」はぴったり重なり合っているわけで、「世界のこと」がそのまま「自分のこと」になり、「全体の幸福」と「個人の幸福」は、重なるのです。この感覚からすると、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、「そう考えるべきだ」というような倫理とか目標の話ではなく、賢治にとっては、今ここにある現実の感覚だったのだろうと思います。
 そしてやはり「農民芸術概論綱要」にある「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」という言葉も、上と同じことを言おうとしているのでしょう。

銀河系の想像図
銀河系の想像図(Wikimedia Commonsより)

 このように、ドラマ『銀河の一票』では、「農民芸術概論綱要」に登場する「銀河」と、「銀河鉄道の夜」の「銀河」が、絡まり合いながら話が進んでいったのですが、最後においてその二つの流れが、見事に統合されました。

「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです」……宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節です。
私、ずっと忘れてました。自分が一つの星だってこと。忘れようとしてました。一個一個強く光る力を持った星たちに、ぼんやりとした白い銀河って、まとめられて雑に扱われることを、なんとか受け入れなきゃって。
でも違う。違いますよね。私たちは、私たちは、一人一人が輝く星で、銀河があんなにきれいなのは、一つ一つの星が、きれいだから……。副知事候補、星野茉莉さんが、教えてくれました。
銀河……東京都をより輝かせる方法は、一つしかありません。一つ一つの星、都民一人一人が、より輝くこと。輝くことを、諦めも手放さなくてもいい、輝く気力をなくすこともなく、安心して、ほんとうのさいわいを見つけることができる、そんな世界を、一緒につくりませんか。

(月岡あかり候補の最終演説より)

きれいな話をしましょう。綺麗事だと揶揄されることを恐れずに、諦めず探しましょう。銀河が、一つ一つの星が、輝き続けられる道を。世界と、あなたと、私の幸福のために。

(日山流星候補の最終演説より)

 「農民芸術概論綱要」で取り上げられていた、「全体」と「個人」の関係が、上の演説においては、「銀河鉄道の夜」の冒頭部分で先生が説明していた、「銀河系」と「一つ一つの星」の関係として、わかりやすく聴衆に提示されます。
 「銀河鉄道の夜」のこの部分に、こういう角度から光を当てて、「全体」と「個」の話に持って行くという解釈が、なかなか新鮮に感じました。脚本家の方に脱帽です。
 振り返れば、主人公のまわりの人々がそれぞれ「」に関係した名前になっていたところにも、一人一人が光を放つ、という趣旨が込められていたのかもしれません。

 思えば、宮沢賢治の作品には、本当は皆が各々そのままで「スター」なのだというお話も、あったのでした。
 童話「ひのきとひなげし」において、自分こそが「スター」になりたいと思っているひなげしたちは、悪魔の医者の「美容術」を受ける代金として、けしの実にできる阿片を全て引き渡すという契約を結ばされそうになりますが、それを見ていたひのきの木によって、間一髪で救われます。それでも美容術を受けられなかったと不満を述べるひなげしたちに対して、ひのきは語って聞かせます。

「さうぢゃあないて。おまへたちが青いけし坊主のまんまでがりがり食はれてしまったらもう来年はこゝへは草が生えるだけ それに第一スターになりたいなんておまへたち、スターて何だか知りもしない癖に。スターといふのはな、本統は天井のお星さまのことなんだ。そらあすこへもうお出になってゐる。もすこしたてばそらいちめんにおでましだ。さうさうオールスターキャストといふだらう。オールスターキャストといふのがつまりそれだ。つまり双子座様は双子座様のところにレオーノ様はレオーノ様のところに、ちゃんと定まった場所でめいめいのきまった光りやうをなさるのがオールスターキャスト、な、ところがありがたいもんでスターになりたいなりたいと云ってゐるおまへたちがそのままそっくりスターでな、おまけにオールスターキャストだといふことになってある。それはかうだ。聴けよ。
 あめなる花をほしと云ひ
 この世の星を花といふ。

(「ひのきとひなげし」より)

 選挙において「有権者」というのは、一つの「マス」として扱われ、世論調査や出口調査の対象となり、数字によって表されます。個人の「一票」なんて、あってもなくても結果には何の影響も及ぼさない、塵や埃のようなものにも感じられますが、実はそれは、銀河を構成している一つ一つの輝く「星」でもあるのですね。
 「銀河の一票」というタイトルには、そういう意味が込められていたのだと、最終回の演説を聴いて腑に落ちました。

 あゝあの白いそらの帯がみんな星だといふぞ。
 ところがいくら見てゐても、そのそらはひるま先生の云ったやうな、がらんとした冷いところだとは思はれませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のやうに考へられて仕方なかったのです。

(「銀河鉄道の夜」より)