実習田の夜水引き

 賢治は、1924年(大正13年)の夏に、「銀河鉄道の夜」を着想したと考えられています。

《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》といあたりが、おそらく正しい答ではないだろうか。

(入沢康夫『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』p.101)

 この1924年の7月5日付けで、「〔温く含んだ南の風が〕」「〔この森を通りぬければ〕」の二作品が書かれていますが、前者で賢治は銀河の「爆発」や「流転」などの動きに引き込まれそうになり、後者では銀河の下で死んだ妹の声を聞いています。どちらの作品も、賢治が「銀河鉄道の夜」を構想するそのプロセスを、私たちに垣間見せてくれるような体験が描かれています。

 この7月5日の夜、賢治はいったいどんな思いで深夜の屋外にいたのだろうと興味を引かれますが、実はこの時、賢治は一人でぶらついていたわけではなくて、農学校の寄宿生たちを連れて、実習田の水路の見回りをしていたのです。
 森荘已池『宮沢賢治の肖像』に収められた、当時の教職員の座談会で、元同僚の堀籠文之進は、森に対して次のように述べています。

堀籠 新校舎になってからの実習地は、水田が六反歩ありました。その時代の奨励品種の陸羽一三二号を植えました。いもち(稲熱病)に強い品種ということでしたが、実際には大分いもちにやられました。宮沢さんも、水田の水引きには困ったようでした。何しろ学校の水田は、高台で下の方では、いつも水が足りなくてカンバツ気味のところなのです。夜なかにこっそり水引きにゆくのです。昼は水番人がいて誰が水ひきにきたかよく見えるので、夜なかに上の方まで行って水をひくのです。夜出歩くのですから、よく堰のようすなどがみえないために「せっかく引いた水が途中でとまっていた」となどといって、宮沢さんも苦労しておりました。
〔中略〕

 その田んぼの水引きのときに作った詩と思われるものが二篇、大正十三年七月五日に作られています。

(森荘已池『宮沢賢治の肖像』p.95)

 そしてその「田んぼの水引きのときに作った詩」として、森荘已池は「〔温く含んだ南の風が〕」と「〔この森を通りぬければ〕」の二作品を、(各々の先駆形の題名「夏夜狂躁」「寄鳥想亡妹」によって)紹介するのです。
 この二つの作品自体には、田の水引きのことはほとんど書かれていませんが、「〔温く含んだ南の風が〕」の4行目の「まっ黒な水路のへりで」という言葉が、この作品の舞台が「水路」の脇であることを、辛うじて示しています。また「〔この森を通りぬければ〕」の最後の方にある、「田に水を引く人たちが/抜き足をして林のへりをあるいても」との表現は、夜水引きに来ている人々の行動を、ここだけ一瞬生々しく描いています。

 「夜水引き」という作業は、灌漑設備の進歩した現代の農業では、もう行われることはないのだろうと思いますが、昔は農家の人々にとって、切実な問題だったようです。下記は、かつて新潟県内陸の石黒という集落で行われていた、「夜水引」の追想です(「石黒の昔の暮らし」より)。

    夜水引の思い出
                 大橋モト
 昔(昭和20年代まで)は、夜水引よみずひきが行われました。夜水引とは、夜に用水路から自分の田に水を引き込むことですが、毎年、7~8月にかけて日照りが続き用水の水量が減ると行われました。
 私の嫁いだ家の田は、用水路の末にあり、先に行くほど水量は減るので用水には苦労しました。
 用水の源は水穴口(花坂新田の奥)ですから下石黒集落の上にあった田までの水路の距離は2km余もありました。
 そのうえ、当時は現在のコンクリートのU字溝ではなく地面を掘った水路でしたから長い道中で地面に吸い取られる水も多く、夏になると水量はとても少なくなりました。
〔中略〕
 用水の配分は一応みんなが平等になるように配慮されているのですが実際には下流になればなるほど水口から入る水量は少ないのでした。
 夏になり、日照り続きで水不足になりますと、夕食後に出かけて行って上流の数軒の他家の田への水口みなくちに泥を置いて水量を細めて下流にある自分の家の田に少しでも多くの水が入るようにするのでした。
 しかし、水不足はほかの家の田も同様のことであり、他の家の人も夜水引に行っています。ですから、苦労して自分の田に水が多く入るようにして来ても翌日行ってみると少しも水は溜まっていないでがっかりすることは普通のことでした。私が行ってやったと同様なことを他家でもやりますので、一晩に何回も出かけてやらないと甲斐のない仕事だったのです。

(「夜水引の思い出」より)

 農家同士が、お互いに自分の田に水を引き入れようとして奪い合っているわけで、まさに「我田引水」の闘いです。
 とりわけ花巻地方では1924年(大正13年)は、日照りのために水不足が深刻だったようです。

 大正十三年は天候が不順であった。五月十三、四、七日と岩手県は大霜にみまわれた。六月に入ると旱天続きで、くる日もくる日も雨を待ってすでに四十余日、七月二十三日になってもまだ雨は降らなかった。水田は、干割れして稲は水に餓えていた。県下各地に水喧嘩が起こっていた。
 賢治の担当する学校の水田もその例外ではなく、六反(六〇アール)の水引きに苦労する毎日であった。新農場の水田は高台にあり、おまけに「ザル田」である。このあたり一帯は大沢の方から用水を引いていて堤防の下を土管でくぐらせており、その末端に水田があるわけで、油断していると、この土管のあたりで水を抜かれてしまう。そのため連夜寄宿生を三、四人つれて見回りに出かけた。連日連夜生徒は交替はしたが、賢治は責任上いつも出かけ、ときには農民同士の水喧嘩にぶっつかることがあり、素早くそのさまをノートにメモしたことがある。

(『証言 宮澤賢治先生』p.214)

 上記に「このあたり一帯は大沢の方から用水を引いていて」とありますが、具体的には豊沢川上流の志戸平に18世紀に造営された「新田堰」という堰から、9kmにもわたってはるばる引いてきた用水です。当時はコンクリートでなく土に掘った水路ですから、途中で地中に染み込んで失われる水も多かったのです。

 ちなみに新田堰は、下図の場所にありました。

豊沢川流域図(昭和20年頃)
豊沢川流域図(東北農政局「豊沢川地域の歴史」より)

 この新田堰水系の水争いの歴史については、下記の論文にも記されています。

 次に豊沢川の新田堰をめぐる上、下流の用水紛争の例をみよう。新田堰は豊沢川の志戸平の「左岸寄りの堤中に幅260m、高さ2mの分水口」によって左岸側に取水している堰であるが、渇水期になると全量を取水するため、下流の大口堰、神山堰及び太田新田堰との間にトラブルが生じ、特に1923年(大正12年)、同13年、14年、1929年(昭和4年)および同8年には激しい水利紛争に発展している。

(「豊沢川水系における農業水利の展開と農業用水の利用」:『水利科学』40(4)pp.90-91)

 すなわち、1924年(大正13年)は、このあたりで「激しい水利紛争」が起こった年の一つだったのです。

 ところで、賢治が残した「創作メモ」の一つに、「喜劇 夜水引き」と題されたスケッチがあります。

喜劇 夜水引き
     第一景
 雨の音三〇%ニテ幕アク、
 両者対峙、にらみ合ふ
 上より通行人二人来る、まだ水引ぎするますか。

勘右エ門 仕方なぃますたぁぃ

通行人 山の方あうんと降ったづます
どっこのどひもどんどんと入ってら

勘右エ門 ながながこゞまでぁ来なぃもな

通行人 なあに 雨あまだまだ降るますたぃ おらはまづ引ぎ上げだ
   一 沈黙

勘右エ門 ぢゃかう雨降てゞ水引ぎも笑へら どひこのまゝにして引ぎ上げべぢゃい
   答へない

勘右エ門 なあに両方で引ぎ上げればこの雨の中これがら誰も来てどいちょす人もなぃだ 引げ上げべ

喜田五蔵 ぜ、徳兵衛さん なぢょだす 引げ上げべだぃなぃか

徳兵衛 何したど おらの田 きさん達のお蔭で十日や二十日の雨位で水かゞらなぐなてしまたな。けづがらばうなどばがりけづがらなぃが

勘右エ門 うんにゃ 水せぎがらばがり来る訳だなぃだ 上がら降るだ あした一日ですっかり稲あ戻るでぁ

徳兵衛 さう思たら汝どがらさぎにけづがらなぃが、

五蔵 うんにや いどぎに引ぎ上げべづ話よ、

徳兵衛 糞でもくらぇで、その位だら何してはじめがらあだり前に水分げなぃがたらや

慶吉 何したど、そだら全体うなだ誰さ断ってあすごさ田起したりや、

徳兵衛 誰さ断てど、田起すに誰さ断らなぃやなぃてが、開墾法のどごにそたなごと書いでありや
〔後略〕

 「水喧嘩」の最中に、かなりの雨が降り始めて、これなら一日で稲は回復すると思われたので、勘右エ門は、皆一緒に堰の場所から引き上げようと言います。しかしこれに対して徳兵衛は、お前たちが先に引き上げろ、自分の田はお前たちのために、10日や20日の雨では水が行き渡らなくなってしまったのだ、と怒りを見せます。そのうちに相手もヒートアップして、「だいたいお前こそ、誰に断ってあそこに田を起こしたんだ」などと、火に油を注ぐようなことを言い出します。

 方言で記された台詞は臨場感にあふれており、賢治が水路の見回りの際に、「農民同士の水喧嘩にぶっつかることがあり、素早くそのさまをノートにメモした」と上に書かれていたような、実地の取材も生かしたものかとも思われます。
 農民にとって水の確保は死活問題で、時にはかなり根深い対立がありえたことがうかがわれます。

 「春と修羅 第二集」で、「〔温く含んだ南の風が〕」と「〔この森を通りぬければ〕」の次に位置する作品「〔ほほじろは鼓のかたちにひるがえるし〕」は、日付は「一九二四、七、、」としか記されていませんが、やはり「夜水引き」に関連した作品と思われます。

一五七
          一九二四、七、、
ほほじろは鼓のかたちにひるがへるし
まっすぐにあがるひばりもある
岩頸列はまだ暗い霧にひたされて
貢った暁の睡りをまもってゐるが
この峡流の出口では
麻のにほひやオゾンの風
もう電動機モートルも電線も鳴る
夜もすがら
風と銀河のあかりのなかで
ガスエンヂンの爆音に
灌漑水の急にそなへたわかものたち、
いまはなやかな田園の黎明のために
それらの青い草山の
波立つ萓や、
古風な稗の野末をのぞみ
東のそらの黝んだ葡萄鼠と、
赤縞入りのアラゴナイトの盃で
この清冽な朝の酒を
胸いっぱいに汲まうでないか
見たまへあすこら四列の虹の交流を
水いろのそらの渚による沙に
いまあたらしく朱金や風がちゞれ
ポプルス楊の幾本が
繊細な葉をめいめいせはしくゆすってゐる
湧くやうにひるがへり
叫ぶやうにつたはり
じつにわれらのねがひをば
いっしんに発信してゐるのだ

 こちらの作品では、徹夜の水番を終えた生徒たちを、高らかに祝福し讃えるように、夜明けの空に清々しくひるがえる鳥たちが描かれています。そして周囲のすべての自然とともに、賢治の心も高揚しているようです。

 上に引用した「豊沢川水系における農業水利の展開と農業用水の利用」にあったように、1924年に続いて、翌1925年(大正14年)も、新田堰の水系では水利紛争の激しかった年でした。
 この1925年6月には、詩碑にもなっている作品「渇水と座禅」が書かれています。

二五八
   渇水と座禅
          一九二五、六、一二、
にごって泡だつ苗代の水に
一ぴきのぶりき色した鷺の影が
ぼんやりとして移行しながら
夜どほしの蛙の声のまゝ
ねむくわびしい朝間になった
さうして今日も雨はふらず
みんなはあっちにもこっちにも
植えたばかりの田のくろを
じっとうごかず座ってゐて
めいめい同じ公案を
これで二昼夜商量する……
栗の木の下の青いくらがり
ころころ鳴らすドヒの上に
出羽三山の碑をしょって
水下ひと目に見渡しながら
遅れた稲の活着の日数
分蘖の日数出穂の時期を
二たび三たび計算すれば
石はつめたく
わづかな雲の縞が冴えて
西の岩鐘一列くもる

 こちらの作品でも、時はすでに夜明けになっているようですが、躍動感あふれる「〔ほほじろは鼓のかたちにひるがえるし〕」に対して、みんながじっと動かずまるで「座禅」をやっているような、「静」の描写が特徴です。

 そして何よりも、この作品の下書稿(一)には、「溝うめ畦はなちを罪と数へる/わたくしは古くからの日本の農民である」という言葉が記されているのを、見逃すことはできません。
 「溝うめ」とは、祝詞に出てくる「天つ罪」の一つで、ここでは上の「夜水引の思い出」にあったように、他人の田の水口みなくちに泥を置くなどして、そちらに流れる水を減らすというような小細工のことでしょう。賢治がここにこういうことを書いている理由は、おそらく学校の実習田の水路で、そういった仕打ちをされたことがあったからだと思われます。
 そのような農村の現実への憤りとともに、「わたくしは古くからの日本の農民である」と自ら宣言する意気込みは、もうこれから10か月後には農学校を辞めて、「一人の農民」となって働く日が、間近に迫っていることを感じさせます。

「渇水と座禅」詩碑
「渇水と座禅」詩碑