Home ⇒ [作品について2006年02月] ⇒ とらよとすればその手から…

とらよとすればその手から…

 『春と修羅』所収の「習作」は、おもしろい形をした作品ですね。テキストの途中から罫線が引いてあって、賢治の独り言のような言葉が進行していくのと並行して、線の上には、「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という当時の流行り歌の歌詞が並べられています。
 賢治の「心象スケッチ」のテキストにおいては、しばしば種々の括弧を用いたり「字下げ」をしたりして、様々なレベルからの「声」が表現されていますが、これはまさに朗読と一緒に歌謡曲のSPレコードを流しているような、多声音楽的(ポリフォニック)な響きです。

 この「とらよとすれば・・・」という歌は、北原白秋作詞、中山晋平作曲による「恋の鳥」という歌の一部で、1919年の元日から東京の有楽座で上演された歌劇「カルメン」の劇中歌として、松井須磨子によって歌われました。
 『新宮澤賢治語彙辞典』において指摘されているように、正しくはこの歌の歌詞は、第一連では「捕へて見ればその手から…」、第三連では「捕らよとすれば飛んで行き…」であり(下記参照)、賢治はこれらを混同しておぼえていたようです。

 実際の歌がどんなものだったのだろうと、私は昔から気になっていたのですが、これが入っている『小沢昭一が選んだ恋し懐かしはやり唄 四』(COLUMBIA COCJ-30749)というCDを、つい先日買ってみました。
 ほんとうは、その演奏をここにアップしたいところなのですが、そのままでは著作権に触れてしまいますので、耳コピーをもとに歌声合成ソフト‘VOCALOID’に歌わせてみたのが下記のMP3です。とりあえず「習作」のテキストと関わる、一番と三番だけを演奏しました。どうぞお聴きください。

「恋の鳥」

一、
  捕へて見ればその手から
  小鳥は空へ飛んでゆく
  泣いても泣いても泣ききれぬ
  可愛いい可愛い恋の鳥
二、
  たづねさがせばよう見えず
  氣にもかけねばすぐ見えて
  夜も日も知らず、氣儘鳥
  來たり往んだり風の鳥
三、
  捕らよとすれば飛んで行き
  逃げよとすれば飛びすがり
  好いた惚れたと追つかける
  翼 火の鳥、恋の鳥
四、
  若しも翼を擦り寄せて
  離しやせぬぞとなつたなら
  それこそ、あぶない魔法鳥
  恋ひしおそろし、恋の鳥


 いかがでしょうか。

 私は、賢治のテキストからなんとなくこれは長調の歌かと思っていたのですが、切々とした短調のメロディーですね。

 じつは松井須磨子によるこの「カルメン」公演は、悲劇的としか言いようがない幕切れを迎えます。「芸術座」の主宰者であり彼女と愛人関係にあった島村抱月が、前年の1918年(大正7年)11月5日に「スペイン風邪」で急死芸術倶楽部した後を追い、松井須磨子はちょうど2ヵ月後の1919年1月5日、公演の最中に自殺を遂げてしまったのです。抱月と須磨子の不倫の恋は、格好の「ワイドショー・ネタ」として当時の論争の的でしたが、まさにドラマチックなその結末に、世間も騒然となったということです(右写真は、2人の死の舞台となった「芸術倶楽部」)。
 松井須磨子の死によって「芸術座」は解散し、しかしまもなくカルメン公演は、「新芸術座」によって引き継がれました。こちらのページの下半分からは、新芸術座の中山歌子による「酒場の歌」「煙草のめのめの歌」を聴くことができます。演奏は1919年5月とのことですから、貴重な録音ですね。


 さて、賢治にとっての1918年暮れから1919年初めというと、母親とともに妹トシの看病のために、ちょうど東京に滞在していた頃でした。

 島村抱月の命を奪った「スペイン風邪」とは、ご存じのようにインフルエンザのことですが、このウイルスは1918年から1919年にかけて、人類史上空前の世界的大流行(パンデミック)をきたしました。
 ちょうど現在も世界各地で危惧されているのと同じように、鳥の体内で自然に突然変異したインフルエンザウイルスは人間に対する高病原性を獲得して、第一次世界大戦の兵士の移動とともに、地球規模の拡散をしてしまうのです。西部戦線から始まった大規模感染は、まずスペインを席捲したことからこの名が付き、その後全世界で感染者は6億人、死者は3000万~4000万人とも言われました。日本でも、この冬に約150万人が感染し、15万人が死亡したとのことです。

 ちょうどこのような時期に、高熱と肺炎症状を発症したトシは、当初は医師からチフスの疑いと言われていましたが、年が明けて1月4日付けの賢治の書簡[103]では、「悪性のインフルエンザ」と診断された旨が報告されています。
 後から振り返れば、この時のトシの病状は、当初から結核性の肺炎だったと言わざるをえないのですが、上記のような世界的状況からすると、当時の日本における感染症学の第一人者であった二木謙三博士でも、インフルエンザと誤診してしまったのは無理からぬことかもしれません。

 3月にまで及んだ賢治のこの東京滞在中に、彼が実地に「カルメン」を見る機会があったのかどうかはわかりませんが、松井須磨子の自殺などをめぐるセンセーショナルなニュースは、きっとまぢかに体験して強い印象を受けたのではないでしょうか。