あるものは火をはなつてふ(1)

 「〔いたつきてゆめみなやみし〕」は、「文語詩稿 五十篇」の冒頭を飾る作品です。


いたつきてゆめみなやみし、(冬なりき)誰ともしらず、

そのかみの高麗の軍楽、  うち鼓して過ぎれるありき。


その線の工事了りて、   あるものはみちにさらばひ、

あるものは火をはなつてふ、かくてまた冬はきたりぬ。


 病重く、夢とうつつの境をさまよっていた冬、そしてその記憶の中の、朝鮮風の太鼓の音・・・。
 前半の二行は、まさに夢のように残っている記憶を追想し、後半の二行は、一転して現実の厳しさを慨嘆します。

 賢治の詩には、口語詩の時代から、声にして読んだ時の「音」への細心のこだわりがありましたが、その感覚は文語詩になってさらに研ぎ澄まされていきます。この作品においても、冒頭の「いたつきてゆめみなやみし」という言葉には、まるで呪文のような不思議な響きと効果を感じます。
 例えば「いたつきて」では、tやkのような硬い子音が病気の苦痛を示すようで、また対照的に次の「ゆめみなやみし」では、yやmやnという柔らかい子音が、夢のような朦朧とした雰囲気を漂わせていると考えてみたりもしますが、そのような生半可な分析で、すくいとれるものでもなさそうです。
 しかし、「いたつきてゆめみなやみし」・・・と口ずさむ時、私たちの脳裏には、即座に一つの世界が広がってきます。

 内容的には、この凝縮された「定稿」だけでは意味のわかりにくいところもあるので、その「下書稿(一)第一形態」や、先駆形である口語詩「鮮人鼓して過ぐ」とあわせて読むと、状況がもう少し見えてきます。
 賢治は、この「鼓者」の様子を直接目にしたわけではなかったようで、「鮮人鼓して過ぐ」に出てくる「まっしろに雪をかぶった/巨きな山の岨みちを/黄いろな三角の旗や/鳥の毛をつけた槍をもって/一列の軍隊がやってくる」という描写は、病床における想像の情景でしょう。
 「下書稿(一)」には、「いま白き飴をになひて/異の邦をさまよふなれよ」と出てきますから、賢治は、表を通り過ぎる太鼓の音を病床で聞いて、それを「朝鮮飴売り」の打ち奏でるものと考えたと思われます。
 後半の、「その線の工事了りて」とは、鉄道線路の敷設工事が終わって、それまで現場で働いていた労働者が職を失ってしまうことを心配したものですが、賢治の時代の岩手県では、下記のようにたくさんの鉄道工事が行われていました。

・岩手軽便鉄道: 1912年着工~1915年11月完成
・横黒線: 1915年着工~1924年11月完成
・花輪線: 1912年着工~1931年10月完成
・山田線: 1921年着工~1934年9月完成
・大船渡線: 1920年着工~1935年9月完成

 そして、これらの工事には、1910年の「日韓併合」以後、日本へ出稼ぎに渡航してきた朝鮮人労働者が、数多く従事していたのです。
 しかし、同じ「在日朝鮮人」のことであるにしても、「朝鮮飴売り」と「鉄道工事労働者」との間に、どんなつながりがあったというのでしょうか。

 この点については、『論集・朝鮮近現代史』(明石書店,1996)という本に収められている、堀内稔著「在日・朝鮮飴売り考」という論文が、多くのことを教えてくれます。
 堀内氏によれば、在日朝鮮人による「飴売り」が最初に登場したのは、1907年の後半から1908年頃、神戸においてだろうということです。初期の「朝鮮飴売り」について、「大阪毎日新聞」の1909年3月11日付け記事では、

長き煙管を口に咥へてずばりずばりと青き煙を吹出しながら、牛の唾涎のノラリクラリ朝鮮人の飴売は、ツヒ近頃の新出来にて昨今神戸に其の多くを見る

と書かれ、「神戸新聞」の1909年9月3日付け記事では、

此頃になって段々人数が増し此頃では市内を歩いて居ると必ず二三人の飴屋に出喰す程になった

と書かれているということです。同じ「神戸新聞」の記事では、朝鮮飴売りをしている金燭という青年にインタビューし、「一年前に…この神戸には金儲けが多いと云ふので参りました」、しかしその後日本語が話せずに困っているうちに持ってきた金を使い果たし、帰ることもできないでいたところ、「飴売なれば日本語を知らないでもできると云ふので自分等よりも先に来て飴屋を始めて居る者があったので愈々飴の商ひをすることになりました」という話を載せています。

 現在、日本で「朝鮮飴」と言えば、「朝鮮飴 - Wikipedia」にあるように、「熊本県銘菓」で、「16世紀、園田屋の開祖、園田武衛門により作られた当初は長生飴と呼ばれていたが、文禄の役・慶長の役での朝鮮出兵の際、当時の城主加藤清正の軍はこれを携行して篭城中の兵糧として役立てた為朝鮮飴と呼ぶ様になった」という飴を指すのが一般的のようです。しかし、これは本日の作品に出てくる「朝鮮飴売り」が売っていた飴とは、また別のものでしょう。
 また、すでに江戸時代にも、「飴売りが子供たち相手に太鼓をたたき、歌い踊りながら売り歩く姿」が見られたそうです(「飴の話」)が、これも「太鼓をたたいて」いるとは言え朝鮮人のはずはなく、賢治が聴いたものとは違ったリズムだったでしょう。


 さて、この在日朝鮮人による飴売りと、土木労働者との関係について、堀内氏の「在日・朝鮮飴売り考」には、次にように書かれています。

 一方、鉄道工事や水電工事の労働者が、集団的に朝鮮飴売りに転身した例もある。1910年11月に広島に現れた20名ほどの飴売りは、もともと岡山の宇野鉄道敷設工事で働いていた労働者であった。新聞記事(「中国新聞」1910.11.18)によると、彼らは釜山近辺出身で10年春に行商目的で日本に来たが、「其当時恰ど宇野鉄道敷設で人夫を募集していたから人夫を働いていたが、工事落成後岡山の奉還町に合宿して飴売を思ひ付いた」という。
 また、滋賀県の水電工事に従事していた一労働者が、脚気のため工事場を離れ、神戸にきて朝鮮飴売りを始めた例もある。…これとは逆に、朝鮮飴売りをしていて、土木工事の労働者になったと推定される例もある。この辺のところは流動的だ。後に、工事がある間は肉体労働者として働き、工事がなくなると飴売りとして生活するという在日朝鮮人のひとつの形態の原形が、このあたりにありそうだ。

 すなわち、賢治が「朝鮮飴売り」から、「鉄道線路工事終了後の労働者の生活」に思いをはせたことには、当時の在日朝鮮人の就労形態からして、十分な根拠があったのです。もちろん、ある冬に飴売りをしていた人(鼓者)が、その後鉄道工事が終わったからといって失業したとはかぎりません。むしろ、飴売りの経験や人脈を持っている人ならば、肉体労働の場がなくてもまた飴売りに戻れる可能性は高いでしょう。
 しかし賢治は、新聞で「あるものはみちにさらばひ/あるものは火をはなつてふ」という記事を見た時に、「異の邦」で暮らす鼓者の同胞たちのことを、連想せずにはいられなかったのでしょう。

 ただ、堀内氏の論文には、飴売りが「太鼓を叩いて歩く」という記載は見つけられませんでした。宇都宮黒龍著『食物史』(1923)には、「朝鮮飴屋は屋台店の様な箱に布の屋根をした箱を両手に捧げ、金具を叩きつゝ売り歩く」とあり、大阪の方の朝鮮飴屋は、「打楽器のシンバルを小型にしたような金属鋏を勢いよく鳴らしながら」売っていたのだそうです。