東海岸実業視察団の参加者

 1915年11月に花巻から仙人峠まで岩手軽便鉄道が開通したことを受けて、花巻の有力者たちは「東海岸実業視察団」を組織し、1917年7月に三陸沿岸の視察旅行を行いました。まだ仙人峠の4kmほどの区間は人馬の輸送に頼らざるをえなかったとは言え、岩手県の内陸部と海岸部の間の輸送が従来よりも大幅に効率化された状況で、実業家として新たなビジネスチャンスを探ろうとしたということでしょうか。(下図は、クリックすると拡大表示されます。)

岩手軽便鉄道略図
岩手軽便鉄道略図(Wikimedia Commonsより)

 奥田弘氏による労作『宮沢賢治研究資料探索』(蒼穹書林)によれば、この視察団の参加者は、下記のようなメンバーだったということです。(奥田弘『宮沢賢治研究資料探索』p.112より、二段に分かれた部分を連結)

 顔ぶれを見ていくと、最初の「笹井初之進」は花巻警察署長、次の「三鬼鑑太郎」は岩手軽便鉄道株式会社常務取締役で、この視察団の団長です。
 1人飛ばして「梅津善次郎」は、老舗の金物商で花巻信託株式会社取締役も務め、後に花巻町長にもなる人物で、賢治の母イチの妹ヨシの夫ですから賢治の叔父にあたります。3行目の下から2人目の「梅津東四郎」は、小船渡の煉瓦工場など花巻でいくつか事業を起こし、盛岡銀行取締役や岩手軽便鉄道の重役も務めていた実業家です。次の「宮沢直治」は、イチの弟で前年に宮沢商店(宮善)を継いだ賢治の叔父で、花巻町会議員を長年務め、一期は町長もしています。2人飛ばして「宮沢右八」は、襲名前は「直太郎」で、父方宮沢家の本家にあたり、花巻信託株式会社の取締役も務めていました。そして次が、宮沢賢治です。
 後ろから3行目下方の「瀬川弥右衛門」は、長らく岩手県全体の高額納税者のトップを続け、1925年から貴族院議員も務めた人です。イチの末妹コトと結婚していますので、やはり賢治の叔父にあたります。その弟の貞蔵は、盛岡中学で賢治の同級でした。

 以上、いずれも花巻町・花巻川口町に君臨する錚々たるメンバーの集まりで、まだ20歳の学生だった賢治は、周囲からちょっと浮いていたのではと危惧しますが、上にも記したように、そのうちのかなりの人々は、賢治の親戚でもあったのです。
 当時の花巻の有力者たちは、お互いに縁戚関係を結ぶことで、その地位を盤石なものにしていたのでしょうか。

 ところで、上の参加者名簿で気になったのが、後ろから4行目の下端から次行にまたがる、「平賀内治」という人物です。
 メンバー36名について、「国会図書館デジタルコレクション」で名前を検索すると、これ以外の人々は全て『人事興信録』とか『全国商工人名録』とか『帝国銀行会社要録』など、様々な人名録の記載が何十件もヒットするのですが、この「平賀内治」だけは、検索しても1件も該当する資料がないのです。
 その一方で、もしもこれが「平賀円治」であれば、稗貫郡の高額納税者にも名を連ねている花巻川口町の大きな呉服太物商ですから、この視察団に入っていても当然という人物です。
 「内」と「円」の字は似ているので、これはひょっとして「平賀円治」の間違いではないかと考え、1917年7月28日付けの『岩手日報』の複写を、国会図書館に依頼して送ってもらいました。

 そしてその三面を見ると、「東海岸実業視察団」の「視察団人名」は、下記のようになっていました。

 印字の一部が写らず、かなり見にくいものではありますが、後ろから5行目の上部に、どうにか「平賀圓治」と読みとれます。
 「圓」から「内」に、直接間違えるということはないでしょうから、これはおそらく奥田弘氏が『岩手日報』の紙面を見て、まずは「平賀円治」と新字体に直して書きとめ、後にこれを原稿化する際などに、手書きの「円」を「内」に、見誤ったのではないかと思われます。
 いずれにせよ、「東海岸実業視察団」に参加していたのは、「平賀円治」だったと思われるのです。

 そして実は、この平賀円治も、賢治の親戚なのです。父政次郎の姉ヤギが、平賀円治に嫁いでいましたので、円治は賢治にとって伯父にあたるのです。

 するとここで、視察団の参加者内の、不思議な縁が浮かび上がります。
 上の『岩手日報』版の名簿では6行目にある「宮沢右八」は、二代右八を襲名する前は「宮沢直太郎」と名乗っていましたが、この時期に一度、政次郎の姉ヤギと結婚していたのです。
 その後、直太郎とヤギの夫婦は不縁となって1893年に離婚し、ヤギは実家に戻っていました。そして、1896年に賢治が生まれると、ヤギは賢治を非常に可愛がり、『正信偈』や『白骨の御文章』を子守歌のように聞かせた結果、4歳の賢治はそれらを暗誦して周囲を驚かせました。またヤギは、幼い賢治が粘土で作った仏像を、後々まで仏壇に飾って大切に拝んでいたということです。

 1902年に、ヤギは平賀円治と再婚しますが、その後病気に罹り、婚家を離れて宮城県七ヶ浜の旅館「大東館」で、下女と二人で療養生活を送っていました。この療養中の1912年5月、中学の修学旅行で近くまで来た14歳の賢治が、一人で寂しい道を歩いて大東館を訪ね、伯母ヤギと感動の再会を果たすという出来事がありました(「旧「大東館」跡」参照)。
 しかし、その約半年後の12月1日、ヤギは43歳で死去します。

 賢治が「東海岸実業視察団」に参加したのは、ヤギとの再会とその逝去の5年後のことですが、この時に視察団に参加していた宮沢右八(直太郎)は、ヤギの最初の夫であり、平賀円治(襲名前は常松)は、2回目の夫だったというわけです。

宮沢家(父系)系図
宮沢家(父系)系図(『新校本全集』第16巻下年譜篇p.24より)

 当人同士も、それはもちろんわかっていたことでしょうし、賢治も意識はしていたでしょうが、4泊5日の旅の間、それぞれヤギのことを思い出すことはあったのだろうか……などと考えてしまいます。
 前述のように、賢治にとってはかけがえのない大切な伯母で、晩年の「雨ニモマケズ手帳」にも「為菩提平賀ヤギ」と題して、「南無妙法蓮華経」と書き連ねて冥福を祈った存在でした。