この1週間は、9月20日が普代村の講演会、21日は賢治祭、22日~23日は賢治学会の総会や研究発表会があり、賢治関係のイベントで夢のような日々が続きました。
そして、岩手での最終日となる9月24日には、盛岡の森義真さんの車に乗せていただいて、外山に先月建立された賢治の碑を見に行ってきました。
賢治が愛した外山高原は、盛岡から北東に20kmほど行ったところにある、北上山地の一角のなだらかな丘陵地です。
「春と修羅 第二集」の「〔どろの木の下から〕」から「北上産地の春」に至る「外山詩群」には、1924年4月に賢治が盛岡から小本街道を夜を徹して歩き、外山の牧場を訪ねた際の行程が記録されていますが、現在は当時の旧道に概ね沿う経路で、国道455号線が通っています。盛岡市北山地区から、高松公園の下をくぐる北山バイパスのトンネルを抜けると、自動車なら小一時間で外山高原まで行くことができます。
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盛岡北東郊外の松園ニュータウンを過ぎ、3年前に行った「松園寺」を右手に見て、さらに桜台の住宅地を抜けて、しばらくカーブの多い峠道を走っていくと、何となくあたりの空気が華やいだ感じになってきます。そこはもう外山高原で、まずは左手の木々の隙間から外山ダムの湖水が見え隠れし、外山森林公園の入口も右手に通り過ぎます。
さらに少し行くと、「岩手県畜産試験場外山分場」が、左手に現れます。

この周囲に広がる総計682haの牧場では、現在も夏期は200頭ほどの肉牛が飼育されているということですが、ここは1879年(明治12年)に、岩手県最初の農業教育機関である「獣医学舎」が設置された由緒ある場所で、下記のような「岩手県立盛岡農業高等学校発祥の地」という石碑が建てられています。ここは、全国的にも最も早期から、近代的な畜産が開始された土地なのです。

さらに少し走った左側には、外山神社の一の鳥居があります。

そして神社のすぐ右手には、「外山節発祥の地」の石碑が建っています。

左側の看板には、次のような説明文が記されています。
外山節発祥の地
外山節は、明治二十四年から大正十二年まで宮内省御料牧場の支場となった外山牧場の作業唄として発生した。
外山牧場には、二百人から三百人の作業員が従事し、草刈りや運搬などの際に作業唄として歌われた。
御料牧場開場当初、作業員だった上野キツ(安政六年生まれ)と橋本フユ(明治十年生まれ)が中心となり作業唄として歌い始めたものが「外山節」のもととなり完成したと伝えられている。(正調外山節)
現在の外山節は、昭和十三年に大西玉子の三味線、武田忠一郎の編曲により、キングレコードからレコード化され、戦後の民謡ブームに乗り「のど自慢大会」等で広く歌われて一般に普及し、岩手県の代表的民謡となっている。
平成二十八年三月
玉山地区福祉推進会歌詞
〽わたしゃ外山の 日陰のわらび 誰も折らぬで ホダとなる
コラサーのサンサ コラサーのサンサ
(以下唄ばやし略)
〽わたしゃ外山の 野に咲く桔梗 折らば折らんせ 今のうち〽南部外山は 山中なれど 駒を買うなら 外山に
〽外山街道に 笠松名所 名所越えれば 行在所
〽わしと行かねか あの山陰さ 駒コ育てる 萩刈りに
〽外山育ちでも 駒コに劣る 駒コ千両で 買われ行く
9月22日に行なわれた賢治学会総会の「イーハトーブ・サロン」では、横笛の演奏で「外山節」を披露して下さった方がありましたが、下の動画では、外山の美しい風景や馬たちの様子とともに、外山節をお聴きいただけます。
国道455号線をもう少し東に進み、「蛇塚」というバス停のあるT字路を南に折れると、その昔「外山御料牧場」の事務所があった地区です。
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そもそもこの外山に牧場が開かれたのは、1876年(明治9年)に、当時の岩手県令・島惟精が、この地を「県営牧場」としたことに始まります。その後、1881年(明治14年)に牧場は民間の産馬会社に移管され、さらに1891年(明治24年)、この牧場全体は宮内省によって買い上げられて、皇室直轄の「外山御料牧場」となりました。
御料牧場とするにあたり、事前調査を行った宮内省の藤浪言忠主馬頭(子爵)は、「外山牧場取調べ復命書」において、この地について次のように報告しています。
外山牧場ハ岩手県陸中国南岩手郡ニ在リ薮川浅岸両村ニ跨リ盛岡市ヲ距ル六里全面岡阜起伏シテ平坦ノ地少ク地質豊沃草肥水清クシテ至ル処水草ノ欠ナシ面積ハ官有地ヲ合シテ三千二百百余町即チ官地千二百八十余町牧場所有地千八百九十四町歩アリ地形上ヨリスレハ実ニ本邦無比ノ良牧場タルヘシ
(『外山開牧百年史』p.12)
「本邦無比ノ良牧場」と評価されて皇室に召し上げられた外山は、イギリスやフランスからの輸入馬を入れ牧場も拡大するなど充実が図られ、1899年(明治32年)には蛇塚地区に、事務所、種牡馬厩、雌馬厩などの建物が落成し、ここが牧場の中心となりました。1902年には、フランス大統領から贈られたアラブ種の牡馬ノサウ号が、この牧場に下賜されたという記録もあります。
しかしその後、政府の緊縮財政の一環として、外山御料牧場は宮内省から再び岩手県に移管されることになり、1922年末からこの牧場は「岩手県種畜場」と名を変えます。さらに1923年2月には、それまで滝沢にあった岩手県種畜場の「本場」の地位が外山に移され、滝沢の方は「分場」となりました。
これまでは宮内省直轄ということで、菊のベールの奥に隠されていた外山牧場が、ここで衆目の前に姿を現わし、名実ともに岩手県の畜産の中心となったわけです。
県への移管とともに、牧場の役割も大きく変わります。それまでは、皇室用の高級馬の育成が使命であったのが、県の事業として、一般の農家で飼育されている馬の品種改良のために、優秀な種馬を供給することが、主眼となったのです。
『外山開牧百年史』には、次のように書かれています。
優良種雌馬は場内に繋留し純粋繁殖を行ない、また種雄馬はこれを県内の各種付所に派遣し、広く県内の優良雌馬に配合を行なった。しかし、輸入種雄および雌馬による純粋繁殖の業務は、明治四十四年以後はこれを廃止し、その後はもっぱら種雄馬の繋養による種付業のみを行なうことになったものである。
(『外山開牧百年史』p.32)
宮沢賢治が、1924年4月に「種馬検査」を見るために夜を徹して外山を訪ねたのは、発足まもない岩手県種畜場が行なう上記のような「種付業」の、一大イベントの日だったわけです。周辺の農家の人々は、まるで「チャグチャグ馬こ」のように、自分たちの馬にきれいな馬着を着せて、まぐさは馬に乗せずに自分たちが背負って、外山に集まってきていたわけです。そして、何とかして優秀な種牡馬に種を付けてもらえるよう、祈るような気持ちで検査に臨みました。
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さて、上記のようにこの外山に岩手県営牧場が開設されたのが1876年、宮内省の買い上げで御料牧場となったのが1891年だったわけですから、今年2026年は、牧場誕生から150周年、御料牧場となってからは135周年にあたります。
それに加えて、今年は宮沢賢治生誕130周年でもあるわけですから、これらの節目を記念して、本年8月にこの地に石碑が建てられました。
碑建立の中心となったのは、「外山御料牧場・開拓研究会」代表の中村辰司さんという方で、本年8月17日に、宮沢和樹さんや保阪嘉内のご子孫の方や、その他たくさんの関係者の方々の列席のもとで、除幕式が行なわれたということです。
そして下の写真が、その碑です。

裏面は、下のようになっています。

表の面に刻まれているテクストは、賢治が親友の保阪嘉内にあてた書簡の内容です。賢治の文学碑が数ある中でも、「書簡」が刻まれた碑というのは、これが初めてではないかと思います。(石川啄木記念館・前館長の森義真さんによれば、啄木の書簡を刻んだ文学碑は、既にあると言うことです。)
書簡の前半部は、とくに外山とは関係なく親友への思いを少しはにかみつつ述べていますが、後半では外山の自然の魅惑を謳い上げるとともに、この地の馬を詠んだ短歌三首も添えられています。
短歌における「うるみたるうまのひとみ」や「うまやのなかのうすしめり」などの表現は、厩舎の空気の湿度やまぐさの香りが、まるでむせ返るほどに官能的で、春の賢治の心情を象徴するようです。
しかしそれにしても、表面も裏面も、本当に「文字が多い」石碑です。下記に、そのテクストの全体を記しておきます。
〔表面〕
外山牧場開牧150周年
外山御料牧場開牧135周年 宮沢賢治生誕130周年 記念碑お手紙ありがたうございました。
あなたの手紙を見たらほんとう
に心持が直りました。直ったといふ
訳はあなたが兵隊のに入ってから
何だかいつでも南の方に眉を
ひそめて堅くなって立ってゐる人が
ある様に思はれて私までが多少
変な顔になるやうに感じてゐ
たのです。いかにもあなた方は
始終馬に乗ってゐるのです
な。たびたび曲馬をならったり
また灰色にうんざりしたり
手紙を書かうと十日もねらってゐても
日曜日やねる前やらはからだに
やすみはあってもこゝろもちが
とゞまらずまた苦しいことの
最中にじっと目を瞑ってすこしも
苦しいことのないことを観じたり
斯う云う風に考へて見ると
あの我儘な保阪さんがすっかり
しょげてしまった像がどこかへ行って
しまひ長何年か北上山地の
なめらかな青い草をたべた
馬が愉快に動き廻ってゐるのが
見えるやうです。外山の四月?を
あなたは見なかったでせう。
ゆるやかな丘の起伏を/境界線の\落葉松の
褐色の紐がどこまでも縫ひ、黒い腐植のしめった沼低地には
かたくりの花がいっぱいに咲きその葉には
あやしい斑が明滅し空いっぱいにすがる
らの羽音大きな蟇がつるんだまゝ
のそのそとあるく。すこしの残雪は
春信の版画のやうにかゞやき、そらは
かゞやき丘はかゞやき、やどりぎのみは
かゞやき、午前十時ころまでは馬はみな
うまやのなかにゐます。
とのとのはないものですが外山の
四月のうたです。うまはみなあかるき丘に
ひらかれし戸口をのぞみて
ひとみうるめり。うるみたる
うまのひとみにゆがむかな
五月の丘にひらけし戸口。かゞやかのかれ草丘の
ふもとにて
うまやのなかの
うすしめりかな。御返事は無理
宮沢賢治 保阪嘉内宛書簡「外山の四月のうた」
に御書き下さるには
及びません。勿論
いたゞければ結構です
が。 さよなら
〔裏面〕
宮沢賢治 保阪嘉内宛書簡
賢治は山梨県出身の嘉内と盛岡高等農林学校で出会い
共に同人誌「アザリア」を創刊しました。創作を通じ、良き理解者
であり心友であった二人は、それぞれの故郷に戻っても文通で魂を交わし
続けました。この強い絆が、賢治文学に美しい光を投げかけています。
書簡の開設 大正九年四月頃
賢治は兵営の嘉内が馬に乗っている姿を想像し、馬の連想で
「北上山地のなめらかな青い草をたべた馬が愉快に動き廻ってゐる」
外山の風景を思い浮かべて綴りました。外山は盛岡市の
東北に位置する、賢治が種山ヶ原とともに愛した高原です。
アザリア記念会発行「花園農村の理想をかかげて」より
建立の経緯
日本の近代化を支えた「外山牧場」開牧百五十周年。馬事文化を
牽引した「外山御料牧場」開牧百三十五周年。外山を愛し作品に
描いた「宮沢賢治」生誕百三十周年を記念し、先人の不屈の努力に感謝し、
犠牲となった牛馬への慰霊と鎮魂を込め建立されました。
外山の歴史を後世に伝えた功労者
三浦定夫「外山会牧百年史」編纂
池上雄三「宮沢賢治 心象スケッチを読む」著者
外山と共に時代を歩んだ団体企業
岩手県農業研究センター畜産研究所 外山畜産研究室
(旧外山牧場・旧外山御料牧場・旧外山種畜場)
岩手県立盛岡農業高等学校(地方初 獣医学舎)
宮内庁 御料牧場(旧下総御料牧場)
独立行政法人 家畜改良センター新冠牧場(旧新冠御料牧場)
独立行政法人 家畜改良センター岩手牧場(旧種馬育成所)
国立大学法人 岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校)
小岩井農牧株式会社 小岩井農場
岩手県競馬組合(盛岡競馬場・水沢競馬場)
旧陸軍省軍馬補充部 六原支部官舎(胆沢郡金ケ崎町)
宮沢賢治関係協力団体
株式会社 林風舎
保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会
旧 賢治・嘉藤治・こだまの会
薮川地区協力団体
まほら岩手
岩手県立大学 総合政策学部
一関 伊藤勇雄顕彰会
旧 薮川高原開拓農協
旧 薮川村開拓農協
旧 外山畜産農業協同組合
岩洞湖漁業協同組合
外山節全国大会実行委員会
外山神社氏子会
開拓神社氏子会
薮川自治会
外山自治会
建立 外山御料牧場・開拓研究会
外山開牧百五十周年記念碑 設立実行委員会
令和八年八月十七日

【謝辞】末筆ながら、盛岡から外山までわざわざ車を出してご案内下さった森義真さんに、心から御礼申し上げます。
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