先月「東海岸実業視察団の参加者」という記事に掲載した参加者名簿には、「橋本英之助」も含まれていました。下記の、右から3行目・上から2人目です。

奥田弘『宮沢賢治研究資料探索』p.112より
この橋本英之助は、賢治の母イチの従弟にあたりますから、賢治からすると「伯従父」ということになります。もっとも日本の親族呼称では、親のいとこや子のいとこも、「いとこ」と呼ぶということですので、『新校本全集』でも英之助のことを「賢治の従兄」と表現している箇所もあります。
世代としては、賢治の一世代上の親のレベルになりますが、年齢は賢治より一つ上で、子供の頃からよく一緒に遊んでいたということです。
ですから、周囲は年輩のおじさん連中ばかりの「東海岸実業視察団」の中にあって、英之助の存在は賢治にとって、きっと心強かったことでしょう。
橋本英之助は1895年2月生まれなので、学年としては賢治の2年上ですが、盛岡中学では賢治の1年上でした。両者が在学していた4年間のうち、3年は寄宿舎で同室だったということです。
下写真は、賢治が中学1年の時の、寄宿舎同室者の記念撮影で、前列左が賢治、最後列右が橋本英之助です。

『新校本宮澤賢治全集』第16巻より
寮生活について、橋本英之助は次のように書き残しています。
寄宿舎では五時の夕食後七時が門限でそれから十時迄の三時間は自習時間となって居り、その間に三十分の休憩時間が置かれて居たが当時寄宿舎の食事は極めてお粗末なもので量も至って少なかったところからその時刻ともなれば誰からともなくピクニック(銘々五銭十銭を出し合い自分の好きな焼芋とか菓子とかそばなどを取り寄せ喰う事)しないかと云い出すものがあり、その時真先に賛成するのは何時も賢さんであった様だ。そしてそれを喰べながら其日の出来事などを語り合うのが一日の中で最も楽しい一ときであった。
(橋本喜助「賢治と私」:『宮沢賢治研究資料集成』第11巻所収)
この英之助が中学を卒業する際に、賢治は自分の写真に短歌を添えて贈っています。

『新校本宮澤賢治全集』第16巻より
表と裏に書かれている文と短歌は、下記のとおりです。
謹みて橋本大兄に呈す。
口を尖らしたる像及腰折五首。像贈るきさらぎの夜のふゞきする
ちまた歩みて凍えし手もて一むねに四とせの雨よはた風よ
君はもだせる人として来ぬ君は行く太行のみち三峡の
険にも似たる旅路を指して。しぐれする山のいでゆにはた雪の
かの野の路に君を叫びき。さあれ吾はかのせまき野の白き家に
白墨の粉にむせぶかなしみ。
「一むねに四とせの雨よはた風よ」の一節は、いかにも「卒業」っぽくていい感じですね。
橋本英之助は、賢治から贈られたこれらの歌について、次のように書いています。
この五首の和歌は私にとって、まことに思い出深いものであるが中にも「君は行く云々」の一首は、私は早くに父を亡い母と祖父母の手に育くまれ其頃手広く商売をして居た老齢の祖父は私の中学卒業を一日千秋の思いで待って居たので私の上級学校進学は到底望み難い事を聞き知った賢さんが深く同情して寄せられたもので一層感慨深いものがある。
(橋本喜助「賢治と私」:『宮沢賢治研究資料集成』第11巻所収)
中学を卒業したら家業を継ぐよう言われ続け、「上級学校進学は到底望み難い」境遇に置かれていたのは、この時点における賢治も同じでしたから、一年先にその道に踏み出した英之助に「同情する」気持ちも、きっと切実だったことでしょう。
1913年(大正2年)2月のことでした。
※
そして冒頭に述べたように、その4年後の1917年7月に、二人は「東海岸実業視察団」において、再び起居をともにすることになったわけです。
橋本英之助は大津屋呉服店の経営に邁進する一方、賢治は以前に言われていた道とは違って、盛岡高等農林学校に進学していました。
この視察団の旅行中に賢治が作った短歌の中に、次の作品があります。
歌稿〔A〕
559 宮古町夜のそらふかみわが友は山をはるかに妻をこふらし
歌稿〔B〕
559 宮古町 夜ぞらをふかみ
英吉の
山彙はるかに妻を恋ふらし。
「歌稿〔A〕」で「わが友」と呼ばれているのが誰なのかと考えると、視察団の中では橋本英之助しかありえず、それ以外では宮古で賢治が泊めてもらった盛岡中学の同級生岡田与志松の可能性もありますが、「山をはるかに妻をこふ」というところからすると、宮古在住の岡田ではなく、やはり花巻在住の橋本英之助と考えざるをえません。
「歌稿〔B〕」の方では「英吉」とされていますが、これは例えば「白藤」を「白淵」に変えるような、作品化するにあたっての偽名でしょう。
ということは、当時22歳の橋本英之助は、既に結婚していたということになります。奥田弘さんが調査された『岩手日報』の「東海岸実業視察団」の記録によれば、宮古の「対鏡閣」という総檜造りの豪邸で催された視察団歓迎宴会では、大勢の「鍬ヶ崎美人(芸妓たち)」が一行をもてなしたということですが、英之助はそのような綺麗どころを見るにつけ、かえって北上山地の向こう側に残してきた妻が、恋しくなったのです。誠に一途な若者というべきでしょう。
そしてこの翌年の1918年、祖父の初代喜助が死去すると、英之助は二代目喜助を襲名し、名実ともに大津屋の当主となりました。1919年には花巻銀行取締役に、1920年には花巻電気会社監査役に就任し、1922年には花巻町議会議員に当選して、終戦まで六期務めることになります。
※
私たちが、賢治と橋本喜助の関わりについて、次に知ることができるのは、1930~1931年頃に、賢治が橋本家の別邸の花壇を設計したという話です。
泉沢善雄さんは、『ワルトラワラ』30号(2009年11月刊)に、書いておられます。
数年前、「親戚の庭に賢治が造った花壇が確認された」との新聞記事が掲載されましたが、今春ようやく見に行くことができました。
そこは通称「ひやっこ坂」にある大津屋の別宅です。当主の橋本康一氏から庭の案内と由来などの説明をいただきました。
①賢治さんが亡くなる三年くらい前、当家のおばあさん(トシ:明治三十一年生、二代目喜助夫人)が体調を悪くして入退院を繰り返しておりましたところ、病気見舞いの代わりとして花壇を造ってくれたものです。
②ただ、賢治さん本人が来たのではなく、設計は賢治さんでも実際に作業したのは賢治さんに頼まれた職人でした。
③花壇の仕切りに使われている煉瓦は、東山の砕石工場で作ったものと想像しています。
賢治が造った花壇と確認した前宮沢賢治記念館館長の宮沢雄造氏に鑑定のポイントなどを尋ねたところ、「橋本氏の証言に疑問点はない。ただ一つ、煉瓦は花巻近辺で作られたものと思う。」とのことでした。(泉沢善雄「花壇の煉瓦と「からたち」坂」:『ワルトラワラ』第30号)
さらに、2011年にこの花壇を調査した岡村民夫さんは、次のように書いておられます。写真は、岡村さんが2011年に撮影されたものです。
賢治花壇発見!?
賢治設計と伝えられる花壇の跡が花巻市花城町に残っている。親しかった橋本喜助によって一九二九(昭和四)年に建てられた旧橋本家の別邸の花壇跡だ。一九三〇年から三一年に、ここで療養していた喜助夫人トシへの見舞として設計し、大迫の庭師が施工して、チューリップが植栽されたという。南斜面の縦九メートル・幅四メートル・高低差一メートル強の範囲が装飾煉瓦で幾何学的に区画され、テラス状になっている。上部は、土塀のコーナーを利用した扇型をしており、賢治が花巻共立病院の外壁のコーナーに造った「エプロン型花壇」に類似する。円形花壇の周囲に通路と複数の花壇を配した下部は、花巻温泉の「日時計花壇」をデフォルメしたかのようだ。賢治自身が施工しなかったという点にも、彼が自宅療養か石灰岩抹外交販売をしていた時期の話なので、リアリティーがある。伝えられているとおりとすれば、最後の造園となるばかりでなく、現地に当時の素材のまま残る唯一の例となる。(岡村)
(別冊『太陽 宮沢賢治 おれはひとりの修羅なのだ』2014より)
その後、この邸宅と花壇は別の方の所有となりましたが、2016年からカフェ「茶寮かだん」として営業し、花壇も公開されていますので、賢治ファンの皆さんはよくご存知でしょう。一度は上記のように花はなくなっていた花壇も、美しく整備されました。
2023年には、賢治学会の後の「エクスカーション」として花巻市内を巡る中で、この花壇も訪ねました。下の写真は、その際に写してきたものです。


ということで、賢治がまだ20歳の頃に、親友英之助が遠く宮古から恋い慕っていた妻に対して、賢治は十数年たってから、病気見舞いの花壇を贈ることができたのです。
自身は設計をしただけで、施工は庭師に任せたということですが、現地を一度も見ていないということはないでしょうから、賢治もその妻に会うことはできたのではないでしょうか。
この花壇の設計が、橋本の方から依頼されたのか、賢治の方から申し出たのかと考えてみると、少なくとも1930年までの賢治は病気臥床しており、それまでにいくつかの花壇設計をしていたことが有名になっていたとも思えませんので、この話は橋本からの依頼ではなく、彼が病気の妻のために別邸を建てたと聞いた賢治の方から、見舞いとして花壇設計を申し出たのではないかと思います。
そして、くしくも彼女の名前が「トシ」で、別邸で病気療養をしていたとなると、私たちはどうしても賢治の妹のことを連想せずにはおれません。賢治もさまざまな思いを込めて、その生涯最後の花壇を設計したのではないでしょうか。
たとえば、花壇全体の高低差が1m以上あって、テラス状の斜面になっているという作りは、病床に臥せっていても屋内から目を楽しませられるように……という配慮もあったのではないかと、想像したりします。


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