『春と修羅』末尾の作品

 賢治が生前唯一刊行した詩集『春と修羅』の冒頭の作品は、ご存じのように「屈折率」です。

  屈折率

七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛あえんの雲へ
陰気な郵便脚夫きやくふのやうに
   (またアラツディン、洋燈ラムプとり)
急がなければならないのか

 題名の「屈折率」という言葉は、直接的には、「七つ森」の手前の一つが不思議に明るく大きく見えていることを、光の屈折のせいだろうかと作者が空想していることから来ているのでしょうが、恩田逸夫氏は、「自己の人生の進路が常人と異なっていて、平坦でなく屈折したものであるという意味をも含めている」と評していて、確かにそのような雰囲気も漂います。
 また、「郵便脚夫」について恩田氏は、「人々に幸福を配達する者という意味を含めているのであろう。それはけっして楽な道程ではないので「陰気な」としている」と述べるとともに、「〔手紙 四〕」に「わたくしはあるひとから云ひつけられてこの手紙を印刷してあなたがたにおわたしします」と記していることも付け加えます。以前から賢治は、手紙の配達人でもあったのです。
 さらに「アラツディン、洋燈とり」については、「賢治が「まことの幸福」という理想を獲得しようとすることを、『アラビアンナイト』のなかの、アラジンがいかなる望みでもかなう魔法のランプを手に入れる話にたとえている」と解釈しています。(恩田逸夫氏の注釈はいずれも日本近代文学大系『高村光太郎 宮澤賢治 集』より)

 すなわち、作者賢治は1922年1月に、このような「郵便脚夫」としての、あるいは「アラツディン、洋燈ラムプとり」としての、重大かつ奇妙な使命を背負って、「でこぼこ凍つたみち」へと踏み出したわけです。その行く手は、「明るく/巨きい」ようでもあり、暗い「亜鉛の雲」に蔽われているようでもあり、希望と不安が入り混じります。
 そのような覚悟を記したこの「屈折率」は、小さな作品ながらも、『春と修羅』という壮大な詩集の劈頭を飾るにふさわしいものだったと言えるでしょう。

 ここからこの詩集は、「春と修羅」「小岩井農場」「永訣の朝」「青森挽歌」など、様々な山を越えて進んで行くのですが、その旅の終着点は、末尾の「冬と銀河ステーション」です。

  冬と銀河ステーシヨン

そらにはちりのやうに小鳥がとび
かげらふや青いギリシヤ文字は
せはしく野はらの雪に燃えます
パツセン大街道のひのきからは
凍つたしづくが燦々さんさんと降り
銀河ステーシヨンの遠方シグナルも
けさはまつに澱んでゐます
川はどんどんザエを流してゐるのに
みんなはなまゴムの長靴をはき
狐や犬の毛皮を着て
陶器の露店をひやかしたり
ぶらさがつた章魚たこを品さだめしたりする
あのにぎやかな土沢の冬の市日いちびです
(はんの木とまばゆい雲のアルコホル
 あすこにやどりぎの黄金のゴールが
 さめざめとしてひかつてもいい)
あゝ Josef Pasternack の指揮する
この冬の銀河軽便鉄道は
幾重のあえかな氷をくぐり
(でんしんばしらの赤い碍子と松の森)
にせものの金のメタルをぶらさげて
茶いろの瞳をりんと張り
つめたく青らむ天椀の下
うららかな雪の台地を急ぐもの
(窓のガラスの氷の羊歯は
 だんだん白い湯気にかはる)
パツセン大街道のひのきから
しづくは燃えていちめんに降り
はねあがる青い枝や
紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
もうまるで市場のやうな盛んな取引です

 この作品の日付は1923年12月10日ですが、作品全体にはまるでクリスマスの街角のような、華やかで祝祭的な雰囲気があふれています。
 初めの方に出てくる「野はらの雪」の、「パツセン大街道のひのき」の、「銀河ステーシヨンの遠方シグナル」のは、まさにクリスマスカラーを演出していますし、中ほどにある「やどりぎの黄金のゴール」は、「クリスマスにヤドリギの下でキスをした恋人は結ばれる」という伝説を連想させます。

 これほどまでに曇りなく透きとおった明るさは、それまでの『春と修羅』の諸作品にはなかったもので、様々な苦しみを乗り越えた後に、こういう境地に至るというのは、あたかもベートーヴェンの「苦悩を通して歓喜へ(Durch Leiden Freude)」というイデーを体現しているかのようです。
 欧米の映画で、いろいろ大変なことのあったストーリーの最後が、クリスマスの賑やかな場面で締めくくられるという形になっているのがありますが、そういったものを私は連想したりもします。

 詩集『春と修羅』は、最初の「屈折率」から、最後の「冬と銀河ステーション」まで、雄大な山脈のように多彩な起伏が連なっていますが、その流れは全体として一つの建築物のように、あるいは音楽作品のように、作者によって周到に構成され仕上げられているのだと思います。
 そこでは、「詩集の推敲」(『新校本全集』第2巻校異篇p.17)とも言える作業が行われているわけです。

 ところで、「詩集の推敲」と言えば、賢治は『春と修羅』という詩集を完成させるまでの過程において、いくつもの作品を途中で追加したり削除したりしていたことがわかっています。
 どうしてそんな作業が行われたと後からわかるのか、本当に不思議なことですが、これは入沢康夫さんが、『春と修羅』の印刷用原稿に残されているノンブル(数字記号)の変化を解読することによって明らかにされた成果で(入沢康夫「詩集『春と修羅』の成立」, 『文学』1972年8月号・9月号)、『新校本全集』にも大筋がそのまま掲載されています(『新校本全集』第2巻校異篇, pp.11-17, pp.174-188)。

 入沢さんと『新校本全集』は、『春と修羅』の成立過程をノンブルの変遷に基づいて四段階に区分していますが、作品の追加削除に関する各段階の動きは、下記のようになっています。

第一段階
詩集印刷用原稿の清書
(この段階で収録作品は「自由画検定委員」を含め62篇)

第二段階
作品5篇「蠕虫舞手」「青い槍の葉」「報告」「原体剣舞連」「雲とはんのき」を追加挿入
巻末部で「自由画検定委員」を削除、代りに「一本木野」「鎔岩流」を追加
(この段階で収録作品は68篇)

第三段階
巻末に「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河ステーション」(目次では「冬と銀河鉄道」)を追加
(この段階で収録作品は70篇)

第四段階
「途上二篇」を削除
(この段階で収録作品は現在と同じ69篇)

(『新校本全集』第2巻校異篇pp.13-17より)

 つまり、詩集『春と修羅』の末尾の作品は、最終的には上に見た「冬と銀河ステーション」になったのですが、詩集制作の第一段階においては、最後が「自由画検定委員」で締めくくられており、またその後の第二段階では、「鎔岩流」が幕切れに位置していたのです。

 そこでまず「自由画検定委員」という作品を見てみると、現在残されているその原稿は、次のようなものです。

  自由画検定委員

どうだここはカムチャッカだな
家の柱ものきもみんなピンクに染めてある
渡り鳥はごみのやうにそらに舞ひあがるし
電線はごく大たんにとほってゐる
ひわいろの山をかけあるく子どもらよ
緑青の松も丘にはせる

こいつはもうほんもののグランド電柱で
碍子もごろごろ鳴ってるし
赤いぼやけた駒鳥もとまってゐる
月には地球照(アースシャイン)があり
かくこうが飛び過ぎると
家のえんとつは黒いけむりをあげる

おいおいおいおい
とてもすてきなトンネルだぜ
けむって平和な群青の山から
いきなりガアッと線路がでてきて
まるで眼のまへまで一ぺんにひろがってくる
鳥もたくさん飛んでゐるし
野はらにはたんぽぽやれんげさうや
じゅうだんをしいたやうです

お月さまからアニリン色素がながれて
そらはへんにあかくなってゐる
黒い三つの岩頸は
もう日も暮れたのでさびしくめいめいの銹をはく
田圃の中には小松がいっぱいに生えて
黄いろな丁字の大街道を
黒いひとは髪をぱちゃぱちゃして大手をふってあるく

鳥ががあがあとんでゐるとき
またまっしろに雪がふってゐるとき
みんなはおもての氷の上にでて
遊戯をするのはだいすきです
鳥ががあがあとんでゐるとき
またまっしろに雪がふってゐるとき

青ざめたそらの夕がたは
みんなはいちれつ青ざめたうさぎうまにのり
きらきら金のばらのひかるのはらを
犬といっしょによこぎって行く
青ざめたそらの夕がたは
みんなはいちれつ青ざめたうさぎうまにのり

 上記の最終行は、まだ作品の終わりではなくて続きがあった可能性もありますが、原稿は残されていません。
 「自由画検定委員」という題名の意味も、その内容も、上のテキストを読んだだけではよくわかりませんが、栗原敦さんの調査によって、1923年11月11日~15日に花巻川口町の花城小学校において「県下小学校児童自由画展覧会」が開催されており、賢治はこの展覧会を見て作品を書いたのだろうと推定されています(栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』pp.103-104)。
 作品の「連」ごとに、「カムチャッカ」とか「グランド電柱」とか「トンネル」などと、景色がどんどん移り変わっていっているのは、児童の描いた絵を、作者が順に一つ一つ見ていっているのだと思われます。

 詩集成立の「第二段階」において、この「自由画検定委員」が削除され、「一本木野」「鎔岩流」と入れ替えられたことについて、栗原敦さんは次のように評しておられます。

 それにしても、著者宮沢賢治は何故この作品と「鎔岩流」連作を差し替えたのか。充分な解答は用意出来ないが、少くとも「自由画検定委員」がこの位置を占めていた時と「鎔岩流」が置かれた時の「第一集」の印象の差はすぐ見てとれる。
 児童たちの溌溂たる筆致、とらわれない自由な構想力の展開。そこに現在の私たちはひとつの歴史性として大正自由主義教育の持つ解放感を見出すことは出来るが、「自由画検定委員」という作品自体に即した時には、単に超時代的な明るい空想が残されているばかりで、「第一集」の他の作品と深い部分で引きあうところが少ないと言わねばなるまい。それに対して、「鎔岩流」連作には自然と社会環境に挟撃されながらせり上げられてくる主人公「わたくし」に固有の実存的意識が暗示されてあり、その意味で主題性を秘めた他の作品と深く結びつけられていると認められるであろう。

(栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』p.105)

 これは確かに栗原さんの指摘のとおりで、「自由画検定委員」には「「第一集」の他の作品と深い部分で引きあうところが少ない」のは事実でしょう。
 しかし、『春と修羅』という詩集を最初から順に読んできて、最後にこの作品の世界に入るとしたら、読者はどんな感じを懐くでしょうか。

 詩集に配列されている一つ一つの作品は、「心象スケッチ」という名前のとおり、作者の心の風景をスケッチしたもので、読者はあたかも展覧会に並べられている絵画を順番に鑑賞するように、読み進めていくことになります。そして一歩一歩を重ねた最後に、この作品に到ります。
 そしてこの詩を読んでみると、その中にはまた数々の絵画が並んでいて、そこでは詩の作者が、一つ一つの作品を順に鑑賞していくのです。
 ここで詩集の読者は、それまで読み進めてきた自分がまるで「入れ子」のようになって、この末尾の作品の中に包み込まれているような感じになるのではないでしょうか。

 それはたとえば、一本の長い映画を見終わって、余韻に浸りながらエンドロールを眺めている時に、映画の中のいくつかの場面が回想のように映し出されていく情景のようでもあります。

 この「自由画検定委員」の本当の末尾がどうなっていたのかはわかりませんが、これはこれで、詩集の最後を飾る作品として、とても味わい深いものになっていた可能性はあったような気がします。

 それでは次に、『春と修羅』制作の第二段階から第三段階にかけて、詩集の末尾を飾っていた「鎔岩流」を見てみます。

  鎔岩流

喪神のしろいかがみが
薬師火口のいただきにかかり
日かげになった火山礫堆れきたいの中腹から
畏るべくかなしむべき砕塊熔岩ブロツクレーバの黒
わたくしはさっきの柏や松の野原をよぎるときから
なにかあかるい曠原の情操を
ばらばらにするやうなひどいけしきが
展かれるとはおもってゐた
けれどもここは暗くて深い淵になってゐて
十月の鬼神たちの棲みかだ
鳥さへも見えない
わたくしがあぶなくその一一の岩塊ブロツクをふみ
すこしの小高いところにのぼり
さらにつくづくとこの焼石のひろがりをみわたせば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
雲はあらはれてつぎからつぎと消え
いちいちの火山塊ブロツクの黒いかげ
貞享四年の噴火から
およそ二百三十五年のあひだに
空気のなかの酸素や炭酸瓦斯
これら清洌な試薬しやくによって
どれぐらゐの風化ふうくわが行はれ
どんな植物が生えたかを
見やうとしてわたくしの来たのに対し
それは恐ろしい二種の苔で答へた
その白っぽい厚いすぎごけの
表面はかさかさに乾いてゐるので
わたくしはまた麺麭ともかんがへ
ちゃうどひるの食事をもたないとこから
ひじゃうな饗応きやうおうともかんずるのだが
なぜならたべものといふものは
それをみてよろこぶもので
それからあとはたべるものだから
ここらでそんなかんがへは
あんまり僭越かもしれない
とにかくわたくしは荷物をおろし
灰いろの苔に靴やからだを埋め
一つの赤い苹果りんごをたべる
うるうるしながら苹果をたべてゐると
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
野はらの白樺の葉はべにキンやせわしくゆすれ
北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
  (あれがぼくのしゃつだ
   青いリンネルの農民しゃつだ)

 作品の前半では、岩手山麓北東に広がる「焼走り熔岩流」の無機的で厳しい風景を地質学者の眼で描写し、後半では苹果を食べながら周囲の野原や遠景の北上山地を展望しています。
 そして最後の(あれがぼくのしゃつだ/青いリンネルののうみんしゃつだ)という一節について、栗原敦さんは次のように評しています。

 「ぼくの」と捉える自然との合一感が、「北上山地」の「ほのかな幾層の青い縞」という実存をかける場たる地誌的な郷土の発見と重なる形で示され、しかも「青いリンネルの農民シャツ」という社会階層的位置の選択までも込めて描き出されたのは、『心象スケッチ 春と修羅』(第一集)の中でもこの作品が唯一、初めてであった。作者にはそれこそが、「鎔岩流」連作の根底にある不安を解放するただひとつの方向だと感じられていたに相違ない。

(栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』p.108)

 賢治が実際に「農民」の一人となるのは、これからまだ2年あまり先のことでしたが、この時に体得した、「郷土の自然=農民シャツ=ぼくのシャツ」という一体感は、彼の行く末を暗示していました。これとよく似た表現は、1928年6月に東京から花巻に帰ってきた際の「〔澱った光の澱の底〕」にも、「雲がしづかな虹彩をつくって/山脈の上にわたってゐる/これがわたくしのシャツであり/これらがわたくしのたべたものである」として登場しており、賢治の感覚の一部となっていたのでしょう。

 ということで、第三段階までのように、「鎔岩流」によって自らの処女詩集の幕を閉じるという方法も、やはり賢治にとっては深い意味のあることだったのだろうと思います。

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「冬と銀河ステーション」詩碑(花巻市東和町土沢)