一時は賢治とお互いに好意を寄せ合っていたとの説がある、大畠ヤスの結婚渡米後の状況について、花巻市の布臺一郎さんが調査を行い、「ある花巻出身者たちの渡米記録について」という論文を発表されました(『花巻市博物館研究紀要』第14号掲載)。
私はたまたま10年ほど前に、花巻で布臺さんにお会いして話をさせていただく機会があり、その国際的な見識の広さは存じ上げていたのですが、今回の調査の着眼や、様々な手法を駆使して対象に迫っていく行動力には、感嘆しつつ読ませていただきました。また、こうやって90数年前の公文書がきちんと保存管理されており、これを一般人が希望すれば閲覧できるという米国のシステムにも感動しました。日本における公文書の扱いが議論を呼んでいる昨今だけに、なおさらです。
この布臺さんの調査によって、これまで大畠ヤスの消息について、大畠家のご遺族からの聴き取りによって語られていた情報の一部に誤りがあったことが明らかになり、今後は賢治とヤスの関わりについて考察を行う際にも、この新たな前提に立って進める必要があるでしょう。
今回の調査結果で、従来の説との最大の相違点は、これまでヤスの結婚相手は「土沢出身の医師・及川修一」と言われていたのが、「大迫出身の旅館業・及川末太郎」だったというところです。
これ以外に、今回の布臺さんの調査によって判明した事柄の要点を挙げると、次のようになります。
- (1898年5月から1924年5月まで、及川末太郎はイリノイ州在住。シカゴで「及川旅館」を営み、在米邦人にはかなり知られていたらしい。)
- 1924年6月14日、及川末太郎と及川ヤスは、横浜から"KAGAMARU"に乗船し、6月27日にシアトルに到着。(引用者註:この船は、1901年から1934年まで太平洋航路に就航していた「加賀丸」であろう。)
- 1926年8月3日、長男"Shuichi"誕生。
- 1927年4月13日、ヤスが僧帽弁狭窄症による心不全にて死去。
- 1929年4月2日、Shuichiが急性粟粒結核にて死去。
- 1943年、及川末太郎は連邦捜査局の捜索を受けたが、抑留はされなかった(7月5日付けFBI報告書)。
- 1943年、及川末太郎の名前が第二次抑留者交換リストに記載されるが、この交換によって日本に帰国したかどうかは不明。米国では死亡記録は見つかっていない。
及川末太郎の、波乱の人生にも興味を引かれますが、以下には、この論文を読ませていただいて、個人的に感じたことなどをいくつか記しておきます。
まず下記は、論文の資料として掲載されている、及川ヤスの「死亡標準証明書」の写しです。
この記載を見ると、死因は本文中に記載されているとおり、「僧帽弁狭窄症(Mitral stenosis)、心不全(Cardiac insufficiency)」で疑問の余地はありませんが、最下段の「寄与因子(CONTRIBUTORY)」の欄の2つめの単語が、判読しにくいです。
布臺さんの論文では、"Acute dilatation of heart"と読んで、「拡張型心筋症」と訳していますが、"Dilatation"にしては"l"が1つ多いですし、その次の"a"であるべき字の上に"i"のような点があります。私としては、これは"Debilitation(衰弱)"で、「急性心臓衰弱」と解釈するべきだろうか?とも考えてみましたが、そう読むにもかなり無理があり、結局はやはり布臺さんの解釈のとおり、"Acute dilatation of heart"と考え、記載したオオヤマ医師がちょっと綴りを間違えたと理解しておくのが妥当かと思います。
ただ、その訳語としては、「拡張型心筋症」というのは、1980年にWHO等が定めた呼称で、1920年代にはまだその概念はありませんでしたし、また「急性」に起こるものでもありません。日本語訳としては、「急性心臓拡張」としておくのがよいかと思われます(コトバンク「心臓拡張」参照)。僧帽弁狭窄症では、血液が左心房から左心室に流れにくくなるので、左心房の圧力が高まって拡張するのです。
あともう一点、ヤスの長男"Shuichi"の漢字表記も、議論の余地はなきにしもあらずかもしれません。
布臺さんによる今回の米国側の資料調査によって、"Suetaro Oikawa"、"Yasu Oikawa"、"Shuichi Oikawa"の3人のローマ字表記の名前が見出され、さらに「末太郎」「ヤス」については日本側の資料との照合から、日本語表記も確認されました。しかし、"Shuichi"の表記については、現時点では大畠家側の遺族の証言による「ヤスの夫・修一」という情報があるだけなのです。
この情報の根拠は明らかでなく、「ヤスの夫」という部分は誤りだったわけですから、実は息子の名前だった「修一」という漢字も、正しいという保証はありません。
しかし一方で、大畠家の遺族の証言でも、「及川」という姓は正しかったわけですし、夫の名前とされていた"Shuichi"が、実際の長男の名前と「偶然に」一致したというのは、あまりにも出来すぎという感じがします。
となると、「及川修一」という名前は、何らかの形でいったんは大畠家にきちんと伝えられていたけれども、それをかなり後年になってから目にしたご遺族が、勘違いをしてヤスの夫の名前と思いこんでしまったと解釈するのが、まだしも自然な感じがします。そうだとすれば、「修一」という漢字は正しいことになります。
「大迫出身の旅館業」が、「土沢出身の医師」に変わってしまった経緯についても、具体的なことはわかりませんが、これは「伝言ゲーム」で生ずる変異の範囲を越えてしまっており、同時代に生きている人であれば、犯すはずのない間違いだろうと思います。すなわち、ヤスの実家の大畠家でも、結婚相手が「大迫出身の旅館業」の人であることは、当時はもちろん知っていたはずで、それらの方々が存命のうちは、こういう間違いは起こらなかっただろうと思うのです。
したがってこれは、そういうことを知っている方々が、みんな亡くなってしまってから生じた錯誤だろうと考えます。
実際、大正時代から昭和の戦後まで、土沢には「及川」という名前の医師がおられて、かなり有名だったということです。土沢出身の私の知人の奥様も、高校生の頃までは家族ぐるみでこのお医者さんに診てもらっていたということですし、2017年4月にNHKで放送された「宮沢賢治 はるかな愛」という番組では、その医院の跡地の様子も放映されていました。
ですから、大畠家のご遺族がかなり後になって、ヤスの結婚相手の姓が「及川」であることは知りながらも、もしかしてその出身地を(花巻から東の方にある小さな町ということで)「大迫」から「土沢」に勘違いしてしまったとしたら、昔から土沢にある「及川」という医院のことを連想したとしても、不思議ではない気がします。
もちろん以上は、あくまで勝手な空想にすぎませんが、いずれにせよ同時代人の一人であった賢治までもが、ヤスの結婚相手が土沢の人だと勘違いしていたと考えるのは、非常に無理があります。
これまでは、私自身も含めて、土沢を舞台とした賢治の作品を、ヤスとの関連で解釈するという発想もありえましたが、今回の布臺さんの論文によって、その論拠は消滅したと考えるべきでしょう。
そのようなわけで、一昨年に当ブログに書いていた「Tearful Eye」という記事(賢治が土沢を通って歩いた折に書いた「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品に、ヤスの追憶を読みとろうとしたもの)は、削除いたしました。
一方、及川末太郎は、1924年5月までイリノイ州(おそらくシカゴ市エリス街)に在住していて、同年の6月14日に横浜から及川ヤスと一緒に米国に戻った記録が残っているのですから、末太郎がヤスと結婚式を挙げたとすれば、この5月中の帰国から6月13日までの期間に限定されてきます。
となると、ひょっとしたら賢治もこのヤスの結婚の時期を知っていたかもしれず、この時期の作品との関連を考えてみることは、無意味とは言えないでしょう。
たとえば、1924年5月19日の日付を持つ「津軽海峡」は、その初期形が「水の結婚」と題されているように、二つの海流の出会いを象徴的に「結婚」と呼び、ほのかに祝祭的な雰囲気も漂っていますが、その背景にヤスの結婚への意識を読みとることは可能でしょうか。
また、同じ修学旅行中で5月22日の日付を持つ「牛」の初期形「海鳴り」では、(遠くアメリカまでも続く)太平洋の荒波に向かって、「すべてのはかないねがひを洗へ」とやり場のない思いをぶつけ、また浜辺では「砂丘のなつかしさとやはらかさ/まるでそれはひとりの処女のようだ」との思いを記していますが、これも気になる描写です。
さらに、5月23日の「〔つめたい海の水銀が〕」の初期形「島祠」には、「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節があり、自らのはるかな過去世の結婚生活について、夢想しているようです。
私は個人的には、この頃の作品には1年半前に亡くなったトシへの感情が反映していると考えているのですが、時期が時期だけに、これらにはヤスへの思いも重ね合わされているとも、考えられなくはありません。
それはともかく、インターネットで「及川末太郎」について検索していましたら、1924年8月23日付けの『日米新聞』に、次のような記事が掲載されていました。
この「シカゴだより」によると、同年8月5日に、「及川末太郎氏宅滞在の二青年」のところに、ピストルを持った2名の強盗が押し入り、青年1人は多少の負傷を受け、所持金20ドルほどを奪われたが、強盗1人は逮捕されたということです。
旅館の宿泊客の部屋に強盗が押し入ったということかと思われますが、この年の6月27日にシアトルに到着してから、まだ1か月と少ししか経っておらず、見知らぬ土地に来たヤスにとっては、さぞ恐ろしい出来事だったのではないかと推測されます。
また、1926年8月21日付けの『紐育新報』には、次のような記事が掲載されていました。
「シカゴ特信」下段に、「◇及川家喜び」という見出しで、「市内エリス街二九四九番の及川末太郎氏方に去る十六日玉のやうな男兒出生母子共に壮健であると」との記事があります。
きっとこの頃は、及川家もさぞかし喜びにあふれていたことでしょう。
ちなみに、いずれの記事もスタンフォード大学の「フーヴァー研究所」に設置されている「Hoji Shinbun Digital Collection」というアーカイブに収録されていて、ほとんどの記事が登録なしで自由に検索できるようになっています。日本にも到底ないような充実したアーカイブを、日本語の資料に対して作ってしまうあたり、ここにも彼我の差を実感します。
コバヤシトシコ
とても興味深い論文をご紹介いただき有難うございます。こちらの会の案内に掲載させていただきます。浜垣様のサイトから布臺様の論文を拝読できること、浜垣様のお考えも参考させていただけること、有難いことです。
hamagaki
コバヤシトシコ様、いつもコメントをありがとうございます。
現在この「賢治の恋人」の問題は、かなり議論が喧しくなっている面がありますが、今回の布臺さんの客観的な調査結果を、多くの人が共有していただくことによって、より冷静な意見交換が可能になることを祈っています。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。