幻の賢治の白バラ

グルス・アン・テプリッツ(花巻温泉バラ園) 2000年代に、日本のバラ愛好家の間では、「グルス・アン・テプリッツ」という真紅の美しいバラが、「賢治の愛したバラ」として非常に有名になり人気を博す一方、賢治研究者の間でこのバラが話題になることは全くないという、扱われ方の極端な不均衡が見られることが、私にはとても不思議でした。様々な賢治研究書にも、バラに関する記述はほぼ皆無で、いったい何を根拠にグルス・アン・テプリッツが賢治のバラと言われているのかも、私にはわかりませんでした。
 そこで、この「グルス・アン・テプリッツ」がいかにして「賢治が愛したバラ」と呼ばれるようになっていったのかという経緯を、私なりに調べ、またいろいろな方からご教示をいただいて、2006年から以下の一連の記事を書きました。

 このたび、「花巻ばら会」のSさんが、「公益財団法人 日本ばら会」の会報誌に、「「宮沢賢治のバラ」を守った花巻ばら会」という文章を発表され、そのコピーを私のもとに送って下さいました。そこには、「賢治のバラ」がたどった数奇な運命が写真とともに簡潔にまとめられ、そのタイトルのとおり、「花巻ばら会」の皆さんが、これまでいかに真摯にこの「賢治のバラ」を守り育てられたかということが、克明に記録されています。

 この「賢治のバラ」の詳しい経緯については、上のブログ記事を順に全て読んでもらえればおわかりいただけるはずなのですが、しかしそれではあまりに理不尽なご苦労をおかけしますので、ここにあらためて大まかにその内容を整理してみると、事の次第は次のようなものでした。

  1. 1928-1929年頃、賢治は花巻共立病院院長・佐藤隆房氏の邸宅の新築祝いに訪問し、後にバラの苗20種を寄贈した。
    これについて、佐藤隆房著『宮沢賢治―素顔の我が友―』には、「秋になり賢治さんは私に立派な薔薇の苗二十種を届けてくれました。その薔薇は今も大切に培養されていて、年ごとに美しい色を咲かせます。(一九二九年)」との記載がある。
    ただし、賢治によるこのバラの苗の寄贈は、彼が1929年にはずっと病床にある重篤な状態だったことを考えると、前年の1928年だった可能性もある。

  2. 時代は降って1964年、「花巻ばら会」が発足した際に、顧問を佐藤隆房氏に依頼したところ快諾され、さらに佐藤隆房氏は花巻ばら会副会長の佐藤昭三氏に、「今、家の庭にも賢治さんがくれたばらが咲いているよ」と言われ、「一度見に来るように」と勧められたので、昭三氏は隆房氏宅を訪問してそのバラを見せてもらった。
    花巻ばら会としては、まもなく開催される創立記念展示会に、ぜひこの賢治ゆかりのバラを展示したいと考え、佐藤隆房氏に依頼して庭に咲いているバラの20輪ほどを切り花としてもらい受け、当日はフラスコに活けて、「賢治ゆかりのバラ」として展示した。
    これが、「賢治のバラ」の最初の公開展示である。しかし当時は、まだこれらのバラの品種名はわからなかった。

  3. さらに時代が降って、1989年に花巻ばら会は創立25周年を迎え、1990年の日本ばら会第10回全国大会開催を花巻で引き受けることになり、全国から集まるバラ愛好家に、ぜひ賢治ゆかりのバラを見てもらおうということになった。そこで会員数人で佐藤隆房氏宅を訪れ、賢治から贈られたというバラの一つが当時市販されていない品種であることを確認し、これを増殖することにして高橋健三会員が接ぎ木を行い、大会期間中にはその二株を「賢治のバラ」として展示した。

  4. その後、花巻ばら会会員の吉池貞蔵氏が、このバラの品種名を何とかして突き止めようと、当時「日本バラの父」と言われた第一人者の鈴木省三氏にその苗を送り、鑑定を依頼した。

  5. 鈴木氏は自宅でその苗を育て、3年後にバラは開花した。するとその花は、奇しくも鈴木氏が子供の頃に父親が最も大切に育てていて、鈴木氏とバラの出会いを作ったとも言える品種「日光」(グルス・アン・テプリッツ)であることが判明した。
    これについて鈴木省三氏は、「京成バラ会」会報『バラの海 第36号』(1995)に、下のような文章を書いている。

「賢治の薔薇が咲いた」(鈴木省三)
(これがおそらく、グルス・アン・テプリッツが「賢治のバラ」として紹介された文献の初出と思われる。)

  1. この「グルス・アン・テプリッツ」は、日本では一時ほとんど栽培されなくなり市販もされていなかったが、鈴木省三氏によるこの紹介を契機に再び人気を集めるようになり、各種のバラ関係の書籍や図鑑等でも、「賢治が愛したバラ」として必ず紹介されるようになり、現在に至っている。

 賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラの品種が同定され、それを契機にまた日本各地でたくさん栽培されるようになったのも、佐藤隆房氏が自宅の庭で何十年も大切にそのバラを守り、花巻ばら会の方々がその貴重な株を接木によって殖やし、さらに東京の鈴木省三氏にその苗を送って、鈴木氏が3年がかりで苗を育ててくれたという、このバラに関わった多くの方々の努力の結晶だったわけです。
 当時の賢治が「グルス・アン・テプリッツ」の苗を入手したのは、横浜の輸入商「横浜植木」への注文取り寄せによってだったということもわかっていますが、これを「賢治が愛したバラ」とまで呼ぶのは、やや勇み足の感があります。賢治自身は、あくまでこのバラの苗をただカタログから取り寄せて、世話になっている知人に贈っただけであり、それを自ら育てていた可能性は非常に低いと思いますし、その花を実際に見たかどうかも不明です。あくまで「賢治ゆかりのバラ」という表現に留めておくのがよいでしょう。

 ところで、本日こうやって一つの記事を書いた理由は、以上の話に続くちょっとした後日談を、Sさんが教えて下さったのです。
 上にも引用したように、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラは、元は「20種」もあったはずです。では、グルス・アン・テプリッツ以外の19種?のバラは、その後いったいどうなったのでしょうか。
 賢治の寄贈から何十年の月日が経つうちに、佐藤氏宅の庭には新たなバラも植えられて新旧交代していき、賢治が贈ったバラは次第に姿を消していったというのは、やむをえない時の流れと言えますが、実は最近まで、グルス・アン・テプリッツとは別の賢治ゆかりと思しきバラが、佐藤邸の庭にはまだ2種ほど残っていたというのです。

 そして、花巻ばら会所属のSさんともう一人の方が、そのうちの白バラを譲り受けて、ひそかに「賢治の白バラ」と呼んで大切に育て、ついに開花に成功させたそうなのです。晴れて同定されたその品種は、どちらも「アイスバーグ」というものだったのですが、ところがこれは、賢治の死後20年ほどたってから作出された品種であり、賢治が佐藤隆房氏に贈ったバラではありえないということがわかりました。

 ということで、赤いグルス・アン・テプリッツに続く「賢治の白バラ」は、残念ながら幻に終わってしまったというお話でした。