ありえたかもしれない結婚

 最近はもっぱら、死んだトシに対する賢治の思いについてばかり書いていますが、今日はまた違った角度も含めたお話です。

 1924年5月に修学旅行を引率して北海道へ向かう際に書かれた「津軽海峡」で賢治は、この海峡付近で二つの海流が出会って水が混じり合う現象を称して、「喧びやしく澄明な/東方風の結婚式」と描写しています。定稿では、このアイディアは詩を構成する題材の一つという趣きですが、その「下書稿(一)」の段階では、タイトルは「水の結婚」となっており、この「結婚」というモチーフが、作品のメインテーマだったことがわかります。
 さらに、その修学旅行の帰途でやはり津軽海峡を航行しながら書かれた「〔船首マストの上に来て〕」には、「わたくしはあたらしく marriage を終へた海に/いまいちどわたくしのたましひを投げ/わたくしのまことをちかひ」という一節があり、ここに出てくる「marriage」の語は、やはり先の「津軽海峡」と同じく、二つの海流が混じり合うことを指していのでしょう。

 そのようにして、「結婚」という言葉が何となく重なって出てくる感じがするところ、上記「〔船首マストの上に来て〕」の数時間後に青森発上り列車からの眺めを描いていると推定される、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」には、つい先日も引用した次のような箇所があります。

    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 ここで賢治は、珍しくも自分の「妻」について言及していて、つまり自らの「結婚生活」を描いているわけです。

 このように、「結婚」というテーマが数日間のうちに何度も登場することについて、私は何となく不思議に感じていたのですが、実はこの「1924年5月」という時期は、澤口たまみさんの『宮澤賢治 愛のうた』によれば、一時は賢治と恋愛関係にあり、たがいに結婚まで考えていたという女性・大畠ヤスが、別の男性と結婚してアメリカに旅立つ時だったのです。

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 すなわち、上掲書のp.205には、次のように記されています。

 大正十三(一九二四)年五月、ヤス子は結婚した男性とともに、渡米することになっていました。

 この記述では、1924年5月にヤスが渡米したのがまだ事実として確認されたわけではなかったようにも読めますが、『宮澤賢治センター通信 第17号』に掲載されている、澤口たまみさんの2012年12月14日の講演「宮沢賢治『春と修羅』の恋について、続報」の記録には、次のように書かれています。

◆ヤスの遺族からの証言
 『宮澤賢治 愛のうた』を出版したのち、大畠ヤスの遺族より「この本に書かれた恋は事実である」との証言をいただいた。ヤスより九歳年下の妹トシ(ヤスの妹もまたトシである)は、ヤスに頼まれて賢治に手紙を届けたことがあり、賢治からは返事を貰って帰ってきた、という。
 賢治とヤスは相思相愛であり、一時は宮澤家より結婚の申し入れもあったとされる。ヤスの母が大反対であったために、この恋は実らなかった。ヤスは傷心のまま、東和町の及川修一という医師との結婚を承諾し、大正十三年五月に渡米した。ふたりの恋が記された『春と修羅』が出版された、一か月のちのことである。

 「大畠ヤス=賢治の恋人」説に対しては、これまではいろいろな意見もあったようですが、上記のように大畠ヤスの遺族の方から、ヤスの妹さんが賢治との間の手紙の仲立ちをしていたという証言まであるとなれば、信憑性も非常に高まってきます。
 そして、二人の恋がかなわず、ヤスが結婚して1924年5月に渡米したというのも、遺族の証言から事実として確認されたことのようです。

 となると、同じこの1924年5月に賢治が、作品の中で何度も「結婚」というテーマを扱い、さらには「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」などと、自らの過去世における「結婚」についても描いているというのは、注目すべきことだと思います。
 すなわち、「〔船首マストの上に来て〕」に「あたらしく marriage を終へた海」という表現があり、またその全体に祝祭的な雰囲気が漂っている背景には、ヤスの結婚に幸あれと祈る賢治の心情が込められていた可能性があります。
 また、「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」で賢治は、もしかしたら自分とヤスとの間にありえたかもしれない「結婚」についても、ふと思いをめぐらしたのかもしれません。「青森挽歌」にあったように、「みんなむかしからのきやうだい」=「すべての衆生は過去世において一度は兄弟姉妹だったことがある」のだとすれば、今生では結ばれなかったヤスと自分だって、果てしない輪廻転生のうちには(たとえ魚どうしだとしても)夫婦だったことがあったはずです。

 もちろん上記は、あくまでも一つの仮説的な考え方に過ぎませんが、しかしもしこういう見方が成り立つのなら、この修学旅行における他の作品の解釈にも、別の視点がありえることになります。
 たとえば、この間ずっと亡きトシへの思いの表現として解釈してきた「」の下書稿(一)「海鳴り」において表出されている激情を、大畠ヤスとの別離の悲嘆として理解していけない理由はありません。
 賢治が、

わたくしの上着をずたずたに裂き
すべてのはかないのぞみを洗ひ
それら巨大な波の壁や
沸きたつ瀝青と鉛のなかに
やりどころないさびしさをとれ

と謳った時、その「やりどころのないさびしさ」の中には、ヤスとの悲恋による感情も入っていて当然ということになります。

 このようなことを考えてみつつ、私がふと連想したのは、1995年7月に行われたシンポジウム「「春と修羅 第二集」のゆくえ ―結論にかえて」における、栗原敦さんの発言です。この辺の問題に対するとても重要な指摘と思いますので、少し長くなりますが下記に引用させていただきます。

 ただ、つまりその事を考えてみますとね、質問を生かして話してしまうんですが、『春と修羅』第一集の終わりの「風景とオルゴール」の章などを見ていきますと、そこには、非常に手の込んだ仕掛があって、男女の大人の愛情、性愛の様なものに引かれる気持ちや、実際に何かがあった。伝記上は、特定の人の名前はまだわかっておりませんし、これからも、隠れて消えたままになるかも知れないけれど、もしかしたら特定の女性とお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれないと、思わせるような、思わせぶりな、表現をして、且つ、その思わせぶりな表現を否定し、克服する姿で、振り切るという様な道の選び方が、書いてあると私は思うんです、そして、「第二集」の方になってきて、先程、密教風のとか、性愛の話というか、情欲に近いような、そういうものみたいなのが、密教やその他の考え方と、溶け合う形で、もっと進んだ姿で書かれているような気がします。そのことが、しかし、やはり、先程、入沢さんも言われた様に、ある時期からまた、消えていく。それは、『春と修羅』第一集というのは、「風景とオルゴール」という章の、作品の日付は、大正一二年くらいになりますけど、実際、詩集が刊行されたのは、一三年ですから、我々がもっている「第二集」というのは、もちろん、赤罫詩稿用紙にきれいに清書されたのは、もっと後だとしても、原型はすでに手元にありますから、同じ時期に内容的にはダブっている時期があると思うんですね。そういう様な何かが、仮にやはり、大正一三年の夏詩群と呼んでみたい様な時期まで、かなり色濃く、それらが同調する必然性があった。しかし、そういう姿で、私に言わせると、性愛、妹さんというものに対してですね、あけっぴろげの愛情とか、愛着とかを出すのは安全なんです。最近では、安全じゃなくて、それは、近親相姦の現実的行為があるとか、そういう風な感じに、言いかねない情況にいまありますけれど、ある意味では逆に妹への愛というのは、愛着とか愛執を出しても、普遍的な愛というものとさほど、衝突しないで理解できる。安全性があると思うんですね、そういうものによって、大げさにいえば、ある種のカムフラージュというのがなされたと思うのです。カムフラージュといっても、隠すという意味ではなくて、自分の持っているテーマ、思想に対する強調として、個別、具体的なものとして、ある典型化された図式、禁欲の思想と、その情愛の思想とのバランスとか、表裏の入れ替りみたいなものを、賢治ははかりながら、表現化しているんじゃないかと思いますが。(宮沢賢治学会イーハトーブセンター発行『「春と修羅 第二集」研究』p.260-261)

 初めの方にある、「特定の女性とのお付き合いが、それなりに深まったものとしてあったかもしれない」が、「特定の人の名前はまだわかっておりません」という状態だったところに、最近の澤口たまみさんのお仕事によって、「大畠ヤス」という可能性が、とみにクローズアップされてきているわけです。
 そして栗原さんによれば、賢治はこの「特定の女性」に対する思いと、トシを亡くした喪失体験との両方を、『春と修羅』と「春と修羅 第二集」の頃に抱えていたと思われるが、前者はより「安全」である後者の中に、カモフラージュされる形で表現されているのではないか、というのです。

 すなわち、「春と修羅 第二集」の「津軽海峡」や「〔つめたい海の水銀が〕」の「下書稿(二)」に込められている感情は、前回「ネガとポジの行程」という記事でも書いたように、私としては妹トシに対するものだろうと考えているわけですが、同時にそこには、大畠ヤスへの思いも込められている可能性があるのです。
 これは、「トシへの感情か、ヤスへの感情か」という二者択一で考えるべきものではなくて、賢治によって両方が巧妙に重ね合わされているのではないかというのが、栗原さんのご指摘の私なりの解釈です。