ネガとポジの行程

 前々回の「津軽海峡のかもめ」という記事と、前回の「如来的あるいは地質学的視点」という記事の趣旨はひとことで言えば、賢治は1923年夏のサハリン行の往路と、1924年5月の修学旅行の復路において、空間的にはほぼ同じ場所で逆を向いて、内容的には対極的な作品を書いていたことになるのではないか、ということでした。
 具体的には、津軽海峡の船上における「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」、青森駅の少し東の東北本線列車内における「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」(正確にはその先駆形「島祠」)という二組の作品が、上記のような「対」を成しているように見えるのです。

 これを、地図上に表示してみると、下のようになります。

行程の反転
(地図は「カシミール3D」より)

 サハリンへの往路の「青森挽歌」も「津軽海峡」も、孤独で悲愴な調子であるのに対して、修学旅行の帰途に各々ほぼ同じ場所で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」と「〔つめたい海の水銀が〕」は、何かふっ切れたような、明るく軽やかな気分があふれています。
 前者の二つを「ネガ」とすれば、後者の二つは「ポジ」と言うことができるでしょう。

 そして、各作品のモチーフを具体的に見てみると、まず「青森挽歌」と「〔つめたい海の水銀が〕」の先駆形「島祠」とは、輪廻転生における今生とは別の生を見るという共通した視点に立ちながら、そこに普遍性と個別性という逆の価値を見出しており、また「津軽海峡」と「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも船に来るかもめを妹の象徴と見つつも、そこに正反対の感情を担わせているのです。
 つまり、いずれの「対」においても、同じモチーフを取り上げつつそれを逆方向から見ているのであり、これは空間的に「同じ場所」において「逆を向いている」ことと、あたかも対応しているかのようです。

 そしてもっと考えるならば、ここでは個々の作品同士が「点」として対照を成しているだけではなく、二つの旅の行程そのものが「線」として、ネガとポジになっているようにも思えます。

 1923年の夏にサハリンへ渡った賢治の旅は、形としては10日あまりで終わりましたが、実際のところ彼にとっては、この旅ではまだ心の決着はついておらず、翌年の5月にもう一度北海道から帰ってくる時に、やっと一つの整理をつけて、故郷に帰ることができたということなのかもしれません。
 そして花巻に戻った彼は、まもなくその7月に、「〔この森を通りぬければ〕」や「薤露青」を書いて、亡きトシを身近に見出すのです。