如来的あるいは地質学的視点

 「青森挽歌」の最後は、次のように終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 ここで二重括弧に囲まれた《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉の意味は、全ての人間(あるいは全ての衆生)は、悠久の時間の中で輪廻転生を繰り返すうちに、互いに兄弟となったことが必ずあるのだから、その中でことさら今生の肉親についてだけ祈るというのは無意味なことだ、ということになるでしょう。
 私たちでも、生き物たちが生まれかわり死にかわりするたびに、様々な出会いと別れを繰り返していくそのような生命の連鎖を、理屈として想像することはできますが、三世十方にわたる全てを見通す能力=「天眼」を備えた仏(如来)にとっては、それは直に目に見え感得される眺望だということになります。
 賢治は、このようにして全ての生命が一体であると考えることによって、自分も妹トシのことばかりを祈っていてはいけないと、自らを戒めたのです。

 この「青森挽歌」の舞台は、1923年7月31日の夜から8月1日の未明、賢治が花巻から青森に向かっていた東北本線下り夜行列車の中で、当時の時刻表調査によると、青森駅着は午前4時30分とされています。作品中の時間を考えてみると、最初の方に「はるかに黄いろの地平線/それはビーアの澱をよどませ」とあることから、ほんの少し地平線は明るくなってきているのかと思われ、また終わりの方では「ぢきもう東の鋼もひかる」と書かれており、もう夜明けは近いのだと推測されます。ちなみに、1923年8月1日の青森市における日の出は4時32分、市民薄明開始は4時1分でした。
 そもそも「青森挽歌」というタイトルからして、これは青森県内の情景だということを作者が示しているわけですが、作品が幕を閉じる段階では、終着駅の青森に、かなり近づいていると考えておいてよいでしょう。

 さて、この「青森駅に着く少し手前」というのは、逆向きの列車に乗れば「青森駅を発車して少し行ったところ」ということになりますが、翌1924年の修学旅行からの帰途において、ちょうどこのあたりで書かれた作品があります。
 「〔つめたい海の水銀が〕」がそれで、下記はその「下書稿(二)」で、「島祠」と題されていた段階の全文です。

    島祠
               一九二四、五、二三、

うす日の底の三稜島は
樹でいっぱいに飾られる
パリスグリンの色丹松や
緑礬いろのとゞまつねずこ
また水際にはあらたな銅で被はれた
巨きな枯れたいたやもあって
風のながれとねむりによって
みなさわやかに酸化されまた還元される
    それは地球の気層の奥の
    ひとつの珪化園である
海はもとより水銀で
たくさんのかゞやかな鉄針は
水平線に並行にうかび
ことにも繁く島の左右にあつまれば
鴎の声もなかばは暗む
    そこが島でもなかったとき
    そこが陸でもなかったとき
鱗をつけたやさしい妻と
かってあすこにわたしは居た

 一行目の「三稜島」とは、陸奥湾に浮かぶ「湯の島」のことで、列車の車窓からもすぐ目の前に、かわいらしい三角の形で見えます。 下の写真は、青森駅からは17.2km東の、「浅虫温泉駅」(賢治の当時は「浅虫駅」)からの眺めです。

東北本線から見る「湯の島」
浅虫温泉駅を通る列車から見る「湯の島」

 上の写真では小さくて見えにくいですが、島の下部の中央より少し左寄りのあたりには、この島に祀られている弁財天の社の、朱色の鳥居も見えています。これこそが、賢治が下書稿(二)のタイトルとした「島祠」なのでしょう。
 賢治はよほどこの島の風景が気に入ったのか、初夏のその木々の色を、「パリスグリン」「緑礬いろ」「あらたな銅で被はれた」などと様々な瑞々しい言葉で表現し、島全体を「ひとつの珪化園」とも呼んでいます。

 最後から4行目の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」という箇所の意味は、島全体が海の中に沈んでいて、海底にあった時、ということでしょう。実際にこの「湯の島」が、過去のある時代には海中に没していたのかどうか私にはわかりませんが、青森市から4kmほど内陸に入った台地にある三内丸山遺跡は、縄文時代には海に面した海岸段丘にあったと言われていますから、島も含めてこのあたりの地形は、その後隆起して今のようになったのかもしれません。
 いずれにせよ、朱い鳥居も含めて島全体が海中にあるところを想像すると、それはまるでおとぎ話の竜宮城のような景色です。そしてさらにここからがこの作品の真骨頂なのですが、賢治はこの不思議な海中世界で、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」と言うのです。

 「鱗をつけたやさしい妻」というのですから、その「妻」とは魚なのでしょう。そして魚と夫婦になっているということは、賢治自身も魚だったというわけです。
 1918年5月19日付けの保阪嘉内あて書簡63には、次のような一節があります。

もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。「あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。私の兄弟のからだはつめたくなってさっき、横はってゐた。今は不思議なエンチームの作用で真暗な処で分解して居るだらう。われらの眷属をあげて尊い惜しい命をすてゝさゝげたものは人々の一寸のあわれみをも買へない。」
私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません。

 ここで賢治は、自分が過去世において魚だったことを想像しつつ、本当にそうだったに違いないとまで言っているわけですが、設定こそ違えど、「島祠」に出てくるのも、その「魚としての過去世」です。

 さて、この「島祠」に見られる世界観は、この現世以外の別の輪廻転生の「世」を見ているという点においては、「青森挽歌」に現れた如来的な視点と共通していますが、それが目ざす発想の方向性は、正反対を向いていると言えます。
 「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、全ての衆生が実は互いに肉親であり一体であるという認識に立って、だから一つの世における個別の愛だけにとらわれるのではなく、全ての生き物の救済をこそ目ざさなければならない、と説くものでした。
 それは、法華経の言葉で言えば、「我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」というような、大乗仏教的な「究極の幸福」を志向するものです。

 これに対して、「島祠」が扱っているのは、上のような全ての時間・空間を射程に入れた壮大なスペクタクルではなくて、地質学的な時間と空間におけるたった一点、すなわち陸奥湾の海底に美しい秘境があって、そこで魚である自分がやさしい妻と暮らしていた、というただそれだけのエピソードに、焦点を当てているのです。
 魚の一生は、本当にはかないものでしょうが、それでもやさしい妻との生活には、魚としての「ささやかな幸福」があったはずです。修学旅行の帰途、無事に引率教師としての責任を果たせそうでほっとしていた賢治は、車窓の景色を見てふとこのような空想をしたのです。

 ただ、こんな小さな幸せに甘んじるなどという生き方は、本来の真面目な賢治にとっては、あまり素直に肯定できるものではなかったはずです。そんな小市民的(小魚的?)な満足には安住せずに、全ての人の幸せのために、たとえ自らは苦しくとも努力を重ねるべきだというのが、彼の基本的な考えでした。「青森挽歌」の、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉も、まさにそんな賢治らしい禁欲的な思想の表現です。
 一方、この「島祠」で賢治が描いた世界というのは、そういう真面目な賢治の考えとは一線を画しますが、むしろそれへの一つのアンチテーゼになっているのではないかと、私には思えるのです。全ての時間と空間に通ずる普遍的な「善」を求めるかわりに、四次元空間の中で何の変哲もないただ一点の、そのかけがえのなさを愛でるという視点が、ここには提示されています。
 ここからふと私が連想するのは、たとえば「〔はつれて軋る手袋と〕」という作品の中の、次のような一節です。

板やわづかの漆喰から
正方体にこしらえあげて
ふたりだまって座ったり
うすい緑茶をのんだりする
どうしてさういふやさしいことを
卑しむこともなかったのだ

 この箇所が、作品全体の中でどういう意味を持っているのかということはちょっとわかりにくいのですが、しかしここには、素朴な家で静かに暮らす夫婦の様子が描かれているようで、そして賢治はそのような小市民的な生き方を、(何かの後悔とともに?)あらためて肯定しているように思えるのです。

 それからあともう一つ、「鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」という一節から連想することがあります。
 それは、前年夏の「宗谷挽歌」において賢治は、

けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く

と、自ら海に飛び込むことさえ覚悟し、さらに

みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

と自らに言い聞かせていたことです。
 ここにも表れているように、賢治は死んだトシが、なぜか海の底に囚われていると考えていたような節がありますし、また「」の下書稿(一)の「海鳴り」でも、彼は海に向かって挑むように苦悩をぶつけ、また同時に「海よしづかに青い魚族の夢をまもれ」と、魚の保護を海に懇願していたのです。
 すなわち、当時の賢治にとって海とは、亡きトシが住む他界のように想定されていた面があり、「海に封ぜられても悔いてはいけない」と思い詰めていたのは、トシに再会することの代償でもあったのでしょう。

 そのような賢治が、「海に封ぜられる」という運命を一種のファンタジー化したものが、童話断片「サガレンと八月」だったのではないかと思うのですが、翌年に書かれたこの「島祠」は、その新たな肯定的なファンタジー化とも言えるのではないでしょうか。竜宮城のような海底の秘境で、「鱗をつけたやさしい妻と」一緒に暮らすというのであれば、「海に封ぜられる」ことさえも、はかなくささやかな幸せとともに、甘受してもよいかもしれません。

 以上、青森駅のやや東を走る列車内というほぼ同じ場所で着想された、二つの作品を見てみました。
 1923年の下り列車における「青森挽歌」の《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、1924年の上り列車における「島祠」の「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」というイメージとは、どちらも輪廻転生観に基づいた、如来的=地質学的視点を前提としているところは共通していたのですが、前者は、普遍的な「善」=「究極の幸福」のためには、この世の個人の感情などにとらわれるなと説くのに対して、後者は、はかない生における個の「やさしさ」を大切にしつつ、「ささやかな幸福」に目を向けるものでした。
 二つの作品の方向性は、対極を志向するものと言えます。

 前回の「津軽海峡のかもめ」という記事では、死んだトシが鳥になったのではないかという賢治のイメージに基づいて、二つの作品を比較してみましたが、今回は、亡きトシが海に囚われているのではないかという、前者とは大きく異なったイメージが関連しているようでした。
 鳥なのか海なのか、亡きトシの行き先をいったいどう理解したらよいのか、それは賢治にとっても理屈でどうこうできるものではなかったのでしょうし、ある時期までは両方のイメージが混然として、悩める賢治の心の中で揺れ動いていたのかと思われます。

 そしてやはり、1923年夏のサハリン旅行の往路と、1924年の北海道修学旅行の復路で、ほぼ同じ場所で着想された対照的な内容の二作品が、「対」になっているように思われるというのが、前回と今回を通して感じられたことでした。