1.「津軽海峡」(『春と修羅』補遺)におけるかもめ
上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけをきいている
私もひとり連絡船に乗り
こごえそうな鴎 見つめ泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色
(作詞: 阿久悠「津軽海峡・冬景色」より)
石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」においても、青函連絡船から見る
以下、少し長いですが、「『春と修羅』補遺」より「津軽海峡」を引用します(下線は引用者)。
津軽海峡
―― 一九二三、八、一、――夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
中学校の四年生のあのときの旅ならば
けむりは砒素鏡の影を波につくり
うしろへまっすぐに流れて行った。
今日はかもめが一疋も見えない。
(天候のためでなければ食物のため、
じっさいべーリング海峡の氷は
今年はまだみんな融け切らず
寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)
向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
水はあんまりまっ白に湛え
小さな黒い漁船さへ動いてゐる。
(あんまり視野が明る過ぎる
その中の一つのブラウン氏運動だ。)
いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
さあいま帆綱はぴんと張り
波は深い伯林青に変り
岬の白い燈台には
うすれ日や微かな虹といっしょに
ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
どこで鳴る呼子の声だ、
私はいま心象の気圏の底、
津軽海峡を渡って行く。
船はかすかに左右にゆれ
鉛筆の影はすみやかに動き
日光は音なく注いでゐる。
それらの三羽のうみがらす
そのなき声は波にまぎれ
そのはゞたきはひかりに消され
(燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)
向ふに黒く尖った尾と
滑らかに新らしいせなかの
波から弧をつくってあらはれるのは
水の中でものを考へるさかなだ
そんな錫いろの陰影の中
向ふの二等甲板に
浅黄服を着た船員は
たしかに少しわらってゐる
私の問を待ってゐるのだ。いるかは黒くてぬるぬるしてゐる。
かもめがかなしく鳴きながらついて来る。
いるかは水からはねあがる
そのふざけた黒の円錐形
ひれは静止した手のやうに見える。
弧をつくって又潮水に落ちる
(きれいな上等の潮水だ。)
水にはいれば水をすべる
信号だの何だのみんなうそだ。
こんなたのしさうな船の旅もしたことなく
たゞ岩手県の花巻と
小石川の責善寮と
二つだけしか知らないで
どこかちがった処へ行ったおまへが
どんなに私にかなしいか。
「あれは鯨と同じです。けだものです。」くるみ色に塗られた排気筒の
下に座って日に当ってゐると
私は印度の移民です。
船酔ひに青ざめた中学生は
も少し大きな学校に居る兄や
いとこに連れられてふらふら通り
私が眼をとぢるときは
にせもののピンクの通信が新らしく空から来る。
二等甲板の船艙の
つるつる光る白い壁に
黒いかつぎのカトリックの尼さんが
緑の円い瞳をそらに投げて
竹の編棒をつかってゐる。
それから水兵服の船員が
ブラスのてすりを拭いて来る。
最初の方の8行目に、「今日はかもめが一疋も見えない」とありますが、中ほど47行目では、「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」となっており、おそらくかもめは、途中から賢治の前に姿を現したのでしょう。
しかしそもそも賢治が、実際に目の前にある情景だけでなく、わざわざ「今日は見えない」存在について、まず初めに書き記した理由は何だったのだろうかと考えてみると、この時彼は、津軽海峡のかもめに会うことをあらかじめ期待して、連絡船に乗り込んだのだろうと推測されます。
「今日はかもめが一疋も見えない」の「今日は…」という対比の相手は、5行目の「中学校の四年生のあのときの旅ならば…」になりますので、賢治は中学校の修学旅行の際には、津軽海峡でかもめを目にしていたのでしょう。その時の記憶があったので、彼は今日もかもめに会えるかと思って青森港から乗船したのに、船が動き出してもその鳥の姿は見えず、ここまでは賢治の期待は裏切られていたことになります。
私がこのように彼の気持ちを推測する理由は、47行目の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」という一節にあります。
と言うのも、かもめという白い色をした鳥が、「かなしく鳴きながら」、賢治が乗った船について来る描写からは、どうしても2か月前の「白い鳥」の、次の一節を思い起こさずにはいられないからです。
二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる
上の「白い鳥」が、死んだ妹の化身であったように、津軽海峡で「かなしく鳴きながら」賢治の船について来るかもめも、彼にとっては妹の象徴だったはずです。そして実際、賢治がこのかもめを見た後のテキストでは、「こんなたのしさうな船の旅もしたことなく/たゞ岩手県の花巻と/小石川の責善寮と/二つだけしか知らないで/どこかちがった処へ行ったおまへが/どんなに私にかなしいか…」と、トシの回想が始まるのです。
この日の未明、「青森挽歌」において、「いつぴきの鳥になつただらうか」「かなしくうたつて飛んで行つたらうか」と想像したトシの幻影を、ここで再び賢治は津軽海峡のかもめに見たのです。
2.「〔船首マストの上に来て〕」(補遺詩篇 I )におけるかもめ
さて、賢治の作品において、次に津軽海峡が舞台となるのは、翌年5月の北海道修学旅行の往路で書かれた、上記と同名の「津軽海峡」ですが、この作品には「かもめ」や「鳥」は登場しません。
そこで注目すべきは、この旅行の復路、室蘭から青森に向かう船上で書かれた「〔船首マストの上に来て〕」という作品断片です。ここにまた、かもめが姿を見せるのです。
下記は、その残存している全文です。
船首マストの上に来て
あるひはくらくひるがへる
煙とつはきれいなかげらふを吐き
そのへりにはあかつきの星もゆすれる
……船員たちはいきなり飛んできて
足で鶏の籠をころがす
鶏はむちゃくちゃに鳴き
一人は籠に手を入れて
奇術のやうに卵をひとつとりだした……
さあいまけむりはにはかに黒くなり
ウヰンチは湯気を吐き
馬はせはしく動揺する
うすくなった月はまた煙のなかにつゝまれ
水は鴇いろの絹になる
東は燃え出し
その灼けた鋼粉の雲の中から
きよめられてあたらしいねがひが湧く
それはある形をした巻層雲だ
……島は鶏頭の花に変り
水は朝の審判を受ける……
港は近く水は鉛になってゐる
わたくしはあたらしく marriage を終へた海に
いまいちどわたくしのたましひを投げ
わたくしのまことをちかひ
三十名のわたくしの生徒たちと
けさはやく汽車に乗らうとする
水があんな朱金の波をたゝむのは
海がそれを受けとった証拠だ
……かもめの黒と白との縞……
空もすっかり爽かな苹果青になり
旧教主の月はしらじらかゝる
かもめは針のやうに啼いてすぎ
発動機の音や青い朝の火や
……みんながはしけでわたるとき
馬はちがった方向から
べつべつに陸にうつされる……
こちらの作品は、さびしさを湛えた前年の「津軽海峡」とは対照的に、祝祭的な雰囲気に満ちています。以前に、「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」という記事で考察したように、この時の賢治は、トシの死をめぐって何か大きく肯定的な心境変化を遂げたのではないかとも、私は推測しています。
この断片冒頭、「船首マストの上に来て/あるひはくらくひるがへる」と描写されている存在がはたして何であるのか、この箇所だけからはわかりません。しかし後半の29行目に、「……かもめの黒と白との縞……」、32行目に「かもめは針のやうに啼いてすぎ」とあることからすると、これこそがかもめに違いありません。今回はかもめは、賢治の乗る船の「船首マストの上に」、来ていたのです。
そして、先日「鳥となって兄を守る妹」という記事でご紹介したように、沖縄地方の伝承では、このように航海中に船の柱に白い鳥が来るのは縁起の良いこととされていて、なぜならその鳥は、「おなり神(姉妹神)」の象徴と考えられていたからです。これについて先日の記事では、伊波普猷が1927年に書いた「をなり神」の一部を引用しましたが、今回は伊波が賢治のこの旅行と同じ1924年に出版した、『琉球聖典おもろさうし選釈』から引用してみます。
琉歌にも、
船の艫なかい、白鳥 が居ちよん、
白鳥 やあらぬ、おみなりおすじ。
といふのがあるが、これは船の艫に、白鳥 が止まつてゐる、否々、白鳥 ではない、私を守護してくれる、姉妹の生ける霊である。の意だ。これで見ると白鳥 が「をなり神」の象徴であることもわかる。沖縄では航海中白鳥 が船の柱などに止まるのを縁起のいゝことゝされてゐた、それは陸が近くなつたことを知らして呉れるから。さういふところから白鳥 は自然その守護神なるおみなりおすじ の象徴にされたのであらう。こゝでいふ白鳥はスワンのことではなくて、単に白い鳥といふことである。
すなわち、沖縄の伝承に照らしてみると、やはりこのかもめは「妹の象徴」と解釈できるわけで、その点では前年の「津軽海峡」の「かもめがかなしく鳴きながらついて来る」というところと同じです。しかし、こちらの「船首マストの上に」来ているかもめは、兄賢治にとっては「守護神」であり、「幸運の象徴」でもあるのです。
そして、このかもめが持つ肯定的な意味合いが、作品全体の明るさの重要な構成要素になっているのです。
3.「ネガ」と「ポジ」
つまり、私が思うのはこういうことです。
1923年に津軽海峡を北に往きつつ書かれた「津軽海峡」と、1924年に津軽海峡を南に還りつつ書かれた「〔船首マストの上に来て〕」とは、どちらも亡き妹トシの化身とも言える「かもめ」が海上で現れるという点において、ちょうど「対」になった二作品と言えるが、各々においてそのかもめが象徴している意味内容を比べると、前者では「白い鳥」と同様に「兄との死別の悲しみに暮れる妹」であるのに対して、後者では「兄を守護し幸いをもたらす妹」であり、まさに対極的な意味づけができるのではないか、ということです。
もちろん、賢治が当時、「白い鳥=おなり神」といった沖縄の伝承を知っていたとは思えないのは、先日も検討したとおりなのですが、しかし少なくとも、マストの上をひるがえって飛び、針のように啼くこちらのかもめには、前年にはなかった躍動性があふれています。賢治はこちらのかもめに対しては、「かなしく鳴きながらついて来る」かもめとは、何か明らかに違ったとらえ方をしているのです。
すなわち、寂しく悲しい「津軽海峡」と、輝かしく明るい「〔船首マストの上に来て〕」という二作品は、ほぼ同じ海峡上における「北向き」と「南向き」という空間的な対蹠性にとどまらず、その内容も含めて、言わば「ネガ」と「ポジ」をなす関係にあると言えるのではないでしょうか。
そしてこれら二作品の関係を、このように位置づけることができるならば、それはさらに私にとっては、次のような二つの事柄を示唆してくれるように思えます。
一つは、死んだトシと鳥を関連づけるというこの認識パターンが、当時の賢治にとっていかに根深く重い意味を持っていたのかということの、再確認です。それは、1923年夏の「白い鳥」と「青森挽歌」に始まり、最後は翌年夏の「鳥の遷移」や「〔この森を通りぬければ〕」に及んでいますが、実は「津軽海峡」にも引き継がれていた上に、さらに翌年5月の「〔船首マストの上に来て〕」でも重要な意味を帯びていたわけです。あらためて、「鳥としてのトシ」を描く作品群の連鎖が、浮き彫りになってきます。
そうなると、同じこの期間において「鳥」が登場する他の作品、たとえば「山火」とか「〔祠の前のちしゃのいろした草はらに〕」などに出てくる「鳥」にも、どこかにそのようなトシのイメージの痕跡はなかったか、もう一度見直しておいた方がよいのかもしれません。
そしてもう一つは、「ネガ」と「ポジ」の関係にあるのは、単に上の一対の二作品だけにとどまるのか、という問題です。ひょっとしたら、1923年8月の旅と、1924年5月の旅との間には、他にも対応関係があるのではないか、という疑問が起こります。
これについては、また次回に考えてみたいと思います。
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