あの世の入口

 賢治は1923年夏、北海道の噴火湾に沿って走る列車の中から駒ヶ岳を眺めてその雲の中にトシを思い、また翌1924年5月には、苫小牧の海岸でまたトシのことを考え悩み、翌日は白老でアイヌ集落を見学した後、室蘭から船に乗りました。
 その室蘭からの船上も、賢治にとってはトシへの心境の大きな節目になったのではないかと思うのですが(「「〔船首マストの上に来て〕」の抹消」参照)、最近たまたま知里真志保氏の「あの世の入口――いわゆる地獄穴について――」という論文を読んでいましたら、ちょうど上に挙げたような道央地区の太平洋岸一帯には、アイヌの人々が「あの世の入口」と考えていたスポットが、たくさん分布していることを知りました。

 詳しくは、上記のリンク先にある知里真志保氏の興味深い論文をお読みいただければと思いますが、この中の「二 あの世の入口に関する各地の伝説」および「三 登別のアフンルパルについて」の節で挙げられている19か所の「あの世の入口」=アイヌ語では「アフルンパロ」のうち、道央の太平洋岸には、下の地図のように9か所が存在するのです。

 地図に付けたマーカーの数字は、それぞれ「あの世の入口―いわゆる地獄穴について―」の「二 あの世の入口に関する各地の伝説」における見出し番号に対応して、下記のようになっています。

(1) 虻田の海岸にあるアフンルパル
(2) 室蘭のアフンルパロ
(3) 富川のオマンルパロ
(4) 余市のオマンルパロ
(5) 沙流川上流のオマンルパロ
(6) 平取村のオマンルパロ
(10) 鵡川の洞窟
(
15) 千歳町内のオマンルパル
(18) 虎杖浜のアフンルパル
(19) 登別のアフルンパル

 これらは、だいたいが海岸の崖にある洞窟で、アイヌの人々はその洞穴が「あの世」とつながっていると信じていて、神聖な儀式の時以外には近づいてはいけない場所とされていました。
 ここから連想するのは、沖縄・奄美・先島の多くの諸島では、亡くなった人を海蝕洞窟に風葬するという葬法が長く行われていたということです(谷川健一著『日本人の魂のゆくえ』)。近世以降のアイヌ人は、集落近くの墓地に遺体を埋葬していたようですが、その昔には、沖縄と同じように海岸の洞窟に死者を葬っていた時代があって、「あの世の入口」とされている上記のような場所は、その葬地の記憶の痕跡なのではないかとも想像します。
 久保寺逸彦氏の「アイヌの他界観に就いて」という論文には、上の地図で(2)の「室蘭のアフンルパロ」と呼ばれている断崖の洞穴のスケッチが、掲載されていますので、下記に引用させていただきます。ここは、「〔船首マストの上に来て〕」の船上の賢治が、出航してまもなく後ろを振り返れば、見ることができたかもしれません。

室蘭のアフンルパロ

 ところで賢治が、このようなアイヌの伝承について知っていたのか否かについては、何とも言えません。彼は、中学5年の北海道修学旅行と、農学校教師としての修学旅行引率の際には、白老のアイヌ集落を見学していますので、アイヌの生活に関する一般的な知識は持っていたでしょう。また、修学旅行の引率で北海道へ出発する直前には、自ら花巻郊外の熊堂のアイヌ塚付近を訪ねて、アイヌの幻影も登場する「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」という作品を書いていますから、アイヌに対してかなり関心を抱いていたことも事実でしょう。

 しかし、このアイヌの他界観が、実際に当時の賢治に影響を与えていたと考えられるような具体的証拠は、現時点では何もありません。
 ただそれでも、これは私にとっては何となく面白く感じられます。

 彼が、とにかく亡くなったトシに会いたい、何とかして通信を交わしたいと胸を焦がしつつ、何度か鉄道で往復した北海道の太平洋岸には、あの銀河鉄道の沿線にあった「そらの孔(石炭袋)」にも比すべき「あの世の入口」が、実はいくつも口を開けていて、彼はそのすぐそばを列車や船で旅していたのです。