賢治が好きだった樹木としては、「銀どろ」「ラリックス」などいろいろあるでしょうが、一見ありふれた「杉」というのも、賢治にとっては親しく様々な思いをこめることの多かった木だったようです。
たとえば、「〔冬のスケッチ〕」の第39葉から第40葉にかけては、
すぎはいまみなみどりにて
葉をゆすり 葉をならし
青ぞらにいきづけること明らけし。
※
ある年の気圏の底の
春の日に
すぎとなづけしいきものすめりき
※
そらの椀
ほのぼのとして青びかり
気圏の底にすぎとなづくる
青きいきものら
さんさんといきづき 葉をゆする
※ 木とそら。
そらの椀
げにもむなしくそこびかり
杉はまさしく青のいきもの
額(ぬか)くらみ。
※
そらはよどみてすぎあかく
と、杉を連続して描写している箇所があります。
見慣れたはずの杉を、「すぎとなづけしいきもの」としていったん対象化すると、「青きいきものら」は「さんさんといきづき 葉をゆする」姿で、生気を帯びて呼吸を始めます。とりわけ、「杉はまさしく青のいきもの」という箇所には、賢治が自分と杉を同一視するほどの親近感が現れているように、私には思えます。
また、上に出てくる「気圏の底の春」という言葉は、後に心象スケッチとして作品化される「春と修羅」にも通じるものであり、そうなるとこの「杉」は、「春と修羅」において、「ZYPRESSEN 春のいちれつ」、「ZYPRESSEN しづかにゆすれ」、「ZYPRESSEN いよいよ黒く」とたたみかけるように描かれた「ZYPRESSEN(糸杉)」にも、つながることになります。
また、歌稿〔A〕には「ゴオホサイプレスの歌」として、
759 サイプレスいかりはもえてあまぐものうづまきをさへやかんとすなり
などの連作があり、これはおそらくゴッホの「糸杉」の絵に触発された歌かと思われますが、この「サイプレス」ももちろん、「春と修羅」の「ZYPRESSEN」の前身の一つと言えるでしょう。
すなわち、「ゴオホサイプレスの歌」と、上の「〔冬のスケッチ〕」の延長線の交わるところに、かの「ZYPRESSEN」は位置すると言えるかもしれません。
そのように親しく深い、賢治と杉との関わりだと思うのですが、今回は「一本杉」「二本杉」・・・というふうに、「本数」とともに賢治の作品に登場する杉を、見てみることにします。
1.一本杉
『春と修羅』に収められている「天然誘接」という作品の中には、次のような箇所があります。
いつぽんすぎは天然誘接(てんねんよびつぎ)ではありません
槻(つき)と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち
たうたう幹がくつついて
険しい天光(てんくわう)に立つといふだけです (強調は引用者)
ここに登場する「いっぽんすぎ」とは、現在は花巻市北西部の旧湯口村地区に地名だけ残る「一本杉」のあたりにあった大木だということで、上の作品にあるとおり、「槻と杉の巨木が接合した珍木」だったそうです。
菅原千恵子氏は『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』において、この「一本杉」を、一時の賢治と嘉内の二人の姿を投影したものと解釈して、次のように推測しています。
種類の異なった二つの木の幹が接合し一本の巨木になって険しい天光に立つという姿は、共に理想を同じくして歩いていく二人の姿に似ているところから、自分たちの姿になぞらえてよく話題にしていたにちがいない。
そして保阪嘉内が、盛岡高等農林学校の地質調査旅行で秩父地方に向かう途中、盛岡から南下する列車が花巻を通過した際に詠んだ次の短歌、
花巻と聞けばこれでも
窓をあげて
まつくらのなかに
杉を見にけり
に登場する花巻の「杉」とは、この「槻と杉の巨木が接合した一本杉」だったのだろうとしています。たしかにこの短歌における嘉内は、意識的に「杉」を見るために窓を上げたかのようにも読めます。岡澤敏男氏も、「盛岡タイムズ」連載の<賢治の置き土産>において、同様の推測をしておられます。
これがいったいどんな「珍木」だったのだろうと興味は湧きますが、現存しないのは、残念なことです。
あと、他の賢治の作品では、「春と修羅 第三集」の「〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕」において、
エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば
九基に亘る林のなかで
枯れた巨きな一本杉が
もう専門の避雷針とも見られるかたち (強調は引用者)
として登場する「枯れた巨きな一本杉」があります。これが、「天然誘接」に登場した「いっぽんすぎ」と同じ杉なのかどうかわかりませんが、もし同一の木であったならば、この作品の日付である1927年5月の時点で、すでにこの珍木は枯れ始めていたことになります。
2.二本杉
賢治の作品において「二本の杉」は、まず先月に「「雲の信号」と雁(つづき)」で引用した、「〔冬のスケッチ〕」第22葉・第23葉の次の箇所に登場します。
おゝすばるすばる
ひかり出でしな
枝打たれたる黒すぎのこずえ。
※
せまるものは野のけはひ
すばるは白いあくびをする
塚から杉が二本立ち
ほのぼのとすばるに伸びる。
※
すばるの下に二本の杉がたちまして
杉の間には一つの白い塚がありました。
如是相如是性如是体と合掌して
申しましたとき
はるかの停車場の灯(あかし)の列がゆれました。 (強調は引用者)
この、「二本の杉」と「塚」があったのがどこなのか、はっきりとした手がかりはありませんが、佐藤勝治著『宮沢賢治 青春の秘唱 “冬のスケッチ”研究』では、鍋倉・円万寺方面と推定されています。花巻駅の西方に広がる野原や林を、当時の賢治はいつも彷徨していたというのが、佐藤勝治氏の推測です。
「二本杉」はまた、「春と修羅 第二集」の「郊外」にも、次のように登場します。
西はうづまく風の縁(へり)
紅くたゞれた錦の皺を
つぎつぎ伸びたりつまづいたり
乱積雲のわびしい影が
まなこのかぎり南へ滑り
山の向ふの秋田のそらは
かすかに白い雲の髪
毬をかゝげた二本杉
七庚申の石の塚
たちまち山の襞いちめんを
霧が火むらに燃えたてば
江釣子森の松むらばかり (強調は引用者)
「西はうづまく風の縁」、「山の向ふの秋田のそら」とあることから、ここで作者は西の方角を向いているようで、さらにその方向に「江釣子森」が見えているわけですから、舞台はやはり鍋倉・円万寺あたりと思われます。そして、ここでも二本杉と一緒に「塚」があるとなると、これは上記の「〔冬のスケッチ〕」第22葉・第23葉と同じ「二本の杉」だったのではないかと思われます。
一方、上記とはまったく別の場所なのですが、賢治の作品にはもう一つ、印象的な「二本の杉」が登場するものがあります。
それは、「文語詩未定稿」に収められている「丘」という作品です。
丘
森の上のこの神楽殿
いそがしくのぼりて立てば
かくこうはめぐりてどよみ
松の風頬を吹くなり野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらしさらにまた夏雲の下、
青々と山なみははせ、
従ひて野は澱めども
かのまちはつひに見えざりうらゝかに野を過ぎり行く
かの雲の影ともなりて
きみがべにありなんものを (以下略・強調は引用者)
ここに描かれている状況は、賢治が胡四王山に登り、熱い思いを胸にはるか北を望んで、先日もご紹介した高橋ミネさんの故郷である日詰町方面を眺めているところと推測してみることができます。「かのまち=日詰町」は「つひに見えざり」と賢治は嘆息していますが、「紫波の城の二本の杉」は見えたように書かれています。
これは、日詰町の北にある「城山」の二本の杉で、小川達雄著『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』には、当時の絵葉書の写真が掲載されています(下写真)。
賢治が、胡四王山から18kmも離れた城山の「二本杉」をはたして見ることができたのかどうかは疑問が残りますが、小川達雄氏は、「思うにこれは、賢治がそれまでに何度か志和の城にやって来ていて、それで麦畑や二本杉を知っていた、ということではあるまいか」と解釈しておられます。はっきりと視認できたわけでなくても、賢治の「心の眼」には見えていたのかもしれません。
3.三本杉
残念ながら賢治の作品には、「三本杉」というのは見当たらないようですね。
4.四本杉
「四本杉」というのは、現在の花巻中学校の北側にあった、四本の大きな杉でした(右写真)。樹齢三百年を越える古木で、昔は「万丁目ヶ原のシンボル」と言われていたそうですが、落雷などにより惜しくも1978年に伐り倒されたということです(宮沢賢治学会・花巻市民の会編『賢治のイーハトーブ花巻』より)。
賢治の作品で「四本杉」が登場するのは、先月にも取りあげた「雲の信号」(『春と修羅』)です。
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
この四本杉は、昔は賢治の自宅からも見えて、5月の宵にはちょうど「すばる星」が沈む方角だったのではないかというのが、上記記事における私の憶測でした。
現在この四本杉があった場所には、右のような標識が立てられています。そして近くの花巻中学校には、「雲の信号」詩碑もあり、「四本杉ゆかりの地」と刻まれています。
5.五本杉
賢治の作品で「五本杉」が登場するのは、「春と修羅 第二集」の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」です。
地蔵堂の五本の巨杉(すぎ)が
まばゆい春の空気の海に
もくもくもくもく盛りあがるのは
古い怪(け)性の青唐獅子の一族が
ここで誰かの呪文を食って
仏法守護を命ぜられたといふかたち
……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
そらをひっかく鉄の箒め!……
この五本の巨杉があったのは、延命寺というお寺の「地蔵堂」で、寺の縁起を記した説明板には、「天平元年(729)六月廿三日 延命地蔵菩薩と護世天(毘沙門天)ともう一柱の神の三神が 此の地の信者の前に顕れて 子孫の繁昌と安産を守ろうと誓われ杉の杖三本を此の地に指しておかれたのが根が出来枝葉が繁って栄えたもので此の巨杉は子持杉の名でよばれています」と、書かれています。
古くは三本の杉だったのが、時代とともに五本に殖えて、それが「子持杉」という呼称を生み、そこからさらに「子孫の繁昌と安産」の御利益が信じられるようになったのかもしれません。
少し前までは、右写真のように賢治の当時の見事な杉の巨木が残っていたのですが、残念なことにこの杉も、最近になり伐採されてなくなってしまったようです。
ただ、現在もその境内には「巨杉」詩碑が建てられていて、かろうじて往時を偲ばせてくれます。
以上、賢治の作品に出てくる一本杉~五本杉を見てみました。これを地図に表示してみると、下のようになります。
雨三郎
「杉」ではありませんが、「賢治手植え」というコメントの付けられた「ドイツトウヒ」が桜町地内に聳えていることを、浜垣さんなら既にご存じかも知れませんね。蛇足ながら・・。
hamagaki
雨三郎様、こんばんは。今年もよろしくお願いします。
そうですね。「ドイツトウヒ」も、賢治の好きな木の一つでしたね。桜のあたりに賢治手植えのドイツトウヒがあるという話は、これまでにもうかがったおぼえはあったのですが、まだ直接に見に行ったことはありませんでした。
今回、ちょっとネットで調べてみると、本当に見事な木に成長しているのですね。12月にはイルミネーションを付けて、巨大なクリスマスツリーにしたいくらいです。
今度、花巻に行った時には、ぜひこの目で見てこようと思います。
ご教示ありがとうございました。
雲
賢治が杉を好きだとは、わたしは、知りませんでした。
hamagakiさん、どうも、ありがとうございます。
雨三郎
こちらはフィクションですが、賢治作品における「杉」といえば、当方としてはどうしても「虔十公園林」を想起せずにはいられません。虔十は700本の杉苗を植えたようですから、こちらは「700本杉」とでもいうことになるのでしょうか?・・それにしても、杉の木というものに対して、これほど高貴で感動的な表現を与えた文学作品というものは、ほとんど類がないのではないか、とすら思われるほどです。(前回の投稿への補足です)
hamagaki
「700本杉」! すごいですね。(^^)
「虔十公園林」が、杉の木に対する比類ないほど感動的な表現である点、私もほんとうに同感です。
雲
杉は、「虔十公園林」に、たくさん、出てきますね。
うっかり、していました。