看護婦姿の高橋ミネさん
宮澤賢治の「初恋の人」が、岩手病院の看護婦をしていた「高橋ミネ」という人だったのではないかという説は、一時はかなり有力視されていました。
それは、盛岡中学卒業後の1914年(大正3年)4月~5月に、賢治が岩手病院に入院した時のことでした。この入院中を詠んだ短歌に、
すこやかに
うるはしきひとよ
病みはてて
わが目 黄いろに狐ならずや (112)
などがあり、退院後には、
きみ恋ひて
くもくらき日を
あひつぎて
道化祭の山車は行きたり (174a175)志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し (175)神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも (179b180)
など、「君」を思いつづける恋歌があります。また後年の文語詩にも、この恋を題材としたと思われる作品はいくつもありますし(「公子」「丘」など)、さらに「「文語詩篇」ノート」の中には、「岩手病院」に関連した記載の中に、「Erste Liebe」(=初恋)との言葉もありますから、岩手病院の看護婦さんへの恋が、賢治の初恋だったことは、ほぼ確実と言ってよいでしょう。
ただ、その人が具体的に何という名前のどんな人だったのかと言うことについては、賢治の死後何十年たっても、わからないままでした。
そこへ、その人が日詰町出身の「高橋ミネ」という看護婦だったという説を初めて提唱したのが、1972年(昭和47年)に刊行された『宮沢賢治とその周辺』における川原仁左エ門氏でした。
川原氏は、どういう根拠で高橋ミネさんが賢治の初恋の相手と判断したのか、その根拠についてはほとんど述べておられないのですが、同書の中の「初恋(フーストリーベ)」と題した章において、
日詰の大きな八百屋の娘高橋ミネは愛嬌のある美しい看護婦で、窓側で時々夢見る瞳で外を眺めていた。
(中略)
発熱に悩みながら高橋なる白衣の天使に憧れて、ノートに Firste Liebe は、はつきり書いている。
と書いています。後に小川達雄氏は、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』において、川原氏の夫人の実家が高橋ミネさんの実家の筋向かいに位置することから、この推定において地元からの情報が重要な役割を果たした可能性も示唆しておられます。
この後、森荘已池氏、境忠一氏、吉見正信氏など多くの賢治研究者は「高橋ミネ説」を前提として、さらにいくつかの情報を肉付けしていきます。
吉見正信氏は1982年(昭和57年)刊行の『宮沢賢治の道程』において、次のように書いておられます。
初恋の相手である「うるはしきひと」とは、川原仁左エ門編著「宮沢賢治とその周辺」(昭和47年刊)によって、日詰町(現紫波郡紫波町)の大きな八百屋の娘で、当時岩手病院に勤務していた看護婦、高橋ミネ(昭和四十六年没)という女性であることがつきとめられた。その調査のお蔭で家族に照会することができたのだが、伊藤正一(札幌市)より、「高橋ミネは明治二十六年六月十九日生まれであること、生前には有名にになっている宮沢賢治のことを口にしたのを聞いたことがない。ただ、花巻に関係のある来客のとき、宮沢家(賢治やその一族)のことをよく知っていて会話していた。」などの回答を得た。
私も、このような流れに沿って、賢治が特別な思いを向けていたと思わざるをえない「日詰」という町を訪ね、高橋ミネさんの生家があったという場所(右写真)を見に行ってみたこともありました(「花巻(3)~日詰」参照)。
また、このブログにも、ミネさんのご遺族の方から貴重な書き込みをいただいたり、メールをいただいたりしたことがありました。
そして最近になって、ミネさんの(義理の)孫にあたられるMさんという方が、生前のミネさんのことについて詳しい書き込みをして下さり、また若干のメールのやりとりもさせていただくという、有り難い出来事がありました。
その結果、ミネさんの生涯の新たな側面や、これまでの研究書などに書かれていた情報で修正すべきと思われる点もいくつか明らかになりましたので、今回ここに報告させていただきます。
Mさんは、吉見正信氏が問い合わせをしたという伊藤正一氏の娘さんで、実は今年の8月に、伊藤正一氏は逝去されたということでした(合掌)。
Mさんは、正一氏の遺品の整理をしたり相続の手続きのためにミネさんの戸籍を取得したりされる中で明らかになったことを、「どなたかに伝えておきたい」というお気持ちから、ご親切にも拙ブログに書き込みをして下さったということです。
以下、いくつかの項目に整理して書きます。
1.ミネさんは明治26年7月28日生まれ
上に引用した吉見正信氏の『宮沢賢治の道程』においては、ミネさんは「明治26年6月19日生まれ」とされていました。しかし、Mさんが戸籍で確認された結果、ミネさんの生年月日は「明治26年7月28日」でした。賢治より3歳年長ということは、変わりません。
Mさんは、賢治の誕生日が「8月27日」であるのに対して、ミネさんの誕生日が「7月28日」であるというのは、「827」⇔「728」と逆の数字配列になっているところが面白いと、ご指摘下さいました。
2.若い頃に藤山家(藤山コンツェルン総帥)の看護婦をしていた
看護婦としては、盛岡の岩手病院の他に、一関でも仕事をしていた時期があったことが、下に掲載した写真からわかります。一番上の写真では、ミネさんは看護婦の姿をしていますが、写真の枠の厚紙の部分には、「陸中一関/三浦本店」という写真館の名前が記載されています。
それよりも後のことと思われますが、ミネさんは藤山雷太氏のお抱え看護婦をしていたことがあったと、よくMさんに自慢げに話してくれたそうです。藤山雷太氏とは「藤山コンツェルン」の創始者で、大日本製糖、日東化学工業、駿豆鉄道などの社長を務め、一代で財閥を築き上げた大実業家です(右写真は、慶應義塾大学藤山記念館の前にある藤山雷太氏の胸像)。
そしてその長男は、後に実業家から政界に進出して自民党の大物となった藤山愛一郎氏(外務大臣、経済企画庁長官など歴任!)ですが、Mさんによれば、ミネさんは後々まで、藤山愛一郎氏のことを親しげに「坊ちゃん」と呼んでいたのだそうです。
というわけで、ミネさんは東京で生活していた時代もあったわけです。藤山氏のような超上流階級の家庭の看護婦になるというのは、普通に岩手県で仕事をしていただけでは難しいのではないかと思いますが、その経緯についてはよくわかりません。少なくとも、看護婦として非常に優秀であったことは確かでしょう。
3.結婚して釜石などで生活
ミネさんは1929年(昭和4年)7月7日に、伊藤正氏と結婚しました。満年齢ではミネさん35歳の時ですね。伊藤氏にとっては二度目の結婚で、前妻との間にすでに5人の子供があり、長男が、上に出てきた伊藤正一氏です。
伊藤正氏は、本籍は岩手県東磐井郡川崎村薄衣ですが、若い頃から釜石町の財務課長を務め、その後釜石町助役、宮古町助役などを経て、最後は川崎村の村長をして、1952年(昭和27年)3月に亡くなられました。
小川達雄『隣に居た天才 宮沢賢治』に引用されている日詰の郷土研究誌「どっこ舎レポート」には、「川崎村薄衣の教員伊藤正と結婚」と書かれていますが、伊藤正氏は教員をしておられたことはなく、「長男の伊藤正一氏と混同しているのではないか」というのが、Mさんの指摘です。
結婚後のミネさんは、釜石の婦人会の長をして、権勢をふるっていたらしいと、Mさんは教えて下さいました。愛国婦人会の集合写真でも、「真中にいて堂々とした様子」だということです。また、下の写真の中にも、「下閉伊郡看護婦會 6年10月19日」という日付の入ったものがあります。
4.北海道に渡る
1952年(昭和27年)に夫を亡くしてからのミネさんは、その後も長く川崎村薄衣で一人暮らしをしておられました。Mさんのお兄様によると、「かなり気の強いおばあさんだったが、薄衣を訪ねると、心臓が悪いので先行き心配だとこぼしていた」ということです。ミネさんには実子はなかったのですが、1957年(昭和32年)に、伊藤正一氏夫妻(Mさんのご両親)を養子にしています。
上の「どっこ舎レポート」によると、その後ミネさんは病を得て、一時日詰の弟さんの家に身を寄せ、また盛岡の国立療養所に入院したこともあったということです。
一方、伊藤正一氏は、1944年(昭和19年)に北海道へ渡って教員をしておられましたが、1962年(昭和37年)の夏に、ミネさんを引きとって十勝の芽室町で同居を始められました。ミネさん69歳の年ですね。この時に、Mさんは初めてミネさんと会われたわけです。その後1965年(昭和40年)に、正一氏が夕張に転勤となるとともに、ミネさんも正一氏夫婦と一緒に夕張に移っています。
境忠一著『宮沢賢治の愛』には、「彼女(注:ミネさん)は大正三年ごろ岩手病院に勤務、そのあと新設の札幌病院に派遣され、三年間在職後、ふたたび岩手病院にもどった」との記載があります。しかし、ミネさんが晩年に北海道で生活しておられた間に、「以前にも北海道にいたことがある」というような話をMさんやMさんのお母様にしたことは、全くなかったということです。この「札幌派遣説」に関しては、小川達雄氏も調査の結果否定的な見解を示しておられ、事実だったのかどうか疑問です。
さて、1971年(昭和46年)8月10日の夕方、ミネさんは居間のソファに座って、台所で炊事をするMさんのお母様と、お喋りをしていたのだそうです。ふとその途中、ミネさんの返事がないのでお母様が居間に来てみると、ミネさんはすでに息絶えておられたということです。その日の午前中には往診を受けていて大丈夫と言われたばかりだったので、お母様もびっくりしたということです。
ミネさんの生涯を振り返ると、超富豪の看護婦をしたり、村長夫人をしたり、かなり波瀾万丈だったと思いますが、その最期は、少しも苦しまれることもなく、ふっと火が消えるように安らかに逝かれたわけです。
5.ミネさんは賢治入院を憶えていた
今回のMさんのお話で、私にとって最も印象的だったのは、ミネさんは晩年の北海道時代に、Mさんのお母様に対して、「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」と、はっきりと言っていたということです。Mさんのお母さんは今は90歳でいらっしゃいますが、頭脳明晰で、念のためMさんがもう一度確認していただいても、そう言っていたのは間違いないとのことでした。
ここで重要なことは、ミネさんが亡くなったのは1971年(昭和46年)で、川原仁左エ門氏が「高橋ミネさんが賢治の初恋の人」という説を出す1972年(昭和47年)よりも前に、すでに賢治入院のことを語っていたということです。つまり、当時まだミネさんには全くスポット・ライトは当たっておらず、従って上記のことはミネさんが周囲からの質問などで「思い出させられた」記憶ではなく、自然に憶えていた事柄だろうということです。
前述のように吉見正信氏が伊藤正一氏に照会した結果では、「生前には有名にになっている宮沢賢治のことを口にしたのを聞いたことがない」とのことでしたが、正一氏に対して口にすることはなくても、奥様にはあったということですね。
それにしても、看護婦を長年していたからには、ミネさんがそのキャリアにおいて看護した患者さんの数は、おそらく何百人という桁を下らないと思います。あくまで仕事の上で接した厖大な人数の中で、40年以上も前に1ヵ月だけ看護した無名の青年の名前を憶えていたというのは、ものすごいことだと私は思います。
いちおう念のために考察を行っておくと、これが自然な記憶によるものではない一つの可能性としては、次のようなことも想定できなくはありません。例えば、ミネさんは「宮澤賢治」という入院患者の名前をいったんは忘れていたが、賢治が没後に有名になってから同じ岩手出身ということなどで興味を抱き、賢治の伝記か何かを読んだところ、ちょうどミネさん自身が岩手病院に勤務していた時期に賢治が入院していた事実をあらためて知ったので、「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」とMさんのお母さんに語った、というような場合です。
しかし、ちょっと手もとにある昔の賢治の伝記を見てみると、佐藤隆房著『宮沢賢治』(1942)には、入院の記載はあっても「岩手病院」という病院名が書かれておらず、関登久也著『宮澤賢治素描』(1947)には、入院自体の記載がなく、同じく関登久也著『宮沢賢治物語』(1957)には、「岩手病院に入院」という記載はあるが何年のことかは書かれていないなど、どれもあまり詳しくは記載されていません。すなわち、これがミネさんが伝記などを読んで得た知識である可能性は、低いような気がします。
もちろんこの可能性が絶対にないとは言い切れませんが、やはりミネさんの自然な記憶として、晩年まで入院患者「宮澤賢治」の名前が心の片隅に残っていたのではないかと思われるのです。
しつこいようですが、これはやっぱりすごいことだと思います。他の患者に比べて、何か印象に残るようなことがないと、こういったことはありえないのではないでしょうか。
Mさんによれば、ミネさんがMさんのお母様に「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」と語った時の様子では、「好意をもっていたかどうか逆に好意を持たれていたかどうかもわからなかった」そうで、そういうことには全く言及しなかったということです。どちらかの好意が、特別な記憶の原因になった可能性は否定もできませんが、肯定する根拠も今のところありません。
これに関連して、注目すべきと思われるのは、吉見正信著『宮沢賢治の道程』にある、次のような記述です。
高橋ミネが宮沢家のことをよく知っていたのは、ミネの家が日詰では旧くからの大店で、賢治の祖母キンもやはり日詰の旧家関家の出だからであろう。キンは南部藩士族、関善七の娘であり、善七は町で御殿暮らしをした人と伝えられている人物である。そうした旧家から賢治の祖父宮沢喜助に嫁したキンのことは、その嫁ぎ先を含めて町ではかなり語られていた話のはずである。したがって、宮沢家に関するミネの知識は、のちに日詰の町の世間話から得ていたものと思われる。
吉見氏の著書で先に引用した部分で、ミネさんが「花巻に関係のある来客のとき、宮沢家(賢治やその一族)のことをよく知っていて会話していた。」とあるのも、またMさんもご両親から、ミネさんが「宮沢賢治のことを詳しく知っているので、不思議に思っていた」と聴いておられたというのも、上記のような根拠から理解できることです。
つまり、賢治がまだ入院していた頃にか退院後かはともかく、ミネさんは花巻の宮澤家のことを聞き知っていたので、あの宮澤家の「坊ちゃん」が入院していたのだということで、単なる一人の一般入院患者よりは、記憶に残りやすい要素があったのだろうと思われます。
それにしても、賢治は晩年まで文語詩の推敲を重ねながら、その初恋のことを何度も思い返していたでしょうが、相手のミネさんの方も、賢治が亡くなってからはるか先まで、賢治の入院のことを憶えていてくれたわけですね。
そうであったのならば、若き日の賢治の苦悩も、少しは浮かばれるような感じがします。
7.写真篇
さて下の写真は、ミネさんの夫であった伊藤正氏のアルバムに残っていたミネさんの写真をスキャンしたものの一部を、今回ご親切にもMさんが送って下さったものです。いずれも、一般に公開されるのは初めてだろうと思います。
「すこやかにうるはしき」ミネさんを、どうかご覧下さい。写真はいずれも、クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます。
これも一関での写真ですが、ちょっとドキッとするほどの美しさですね。
ミネさんは右から三番目。「下閉伊郡看護婦會/6年10月19日」との文字。
末筆ながら、Mさんのご親切とご厚情に、心から感謝を申し上げます。
megumi
hamagakiさま
お久しぶりです。
いつもテーマから外れたコメントばかりで、ある意味私はhamagakiさんの記憶に留めていただけているかも知れませんね…(^^;)。
素敵ですね。
長い時間を経て、事実の断片を繋ぎ合わせていくと、ひとつの物語が存在していることがわかる…。
届かなかった思いも、何らかの形でいつかは届く、繋がると思えたなら、悲観ばかりしないで済みそうです。
…でも、やはり恋愛については生きている間に相手に伝わって欲しいかなぁ…と、とても現実的なワタシです(^^;;;。
初恋に限らず、事実は、起きてしまったことは、変えることはできない、なんて思ってしまうと少し怖いような気もします。
…、日々誠実に生きていかなければ、なんて思ってしまった私は、これを読むまではいやはやどんな生活をしていたのでしょう…(^^;;;;;。
かぐら川
大切なお話をうかがい貴重な写真を拝見して心が動かされています。とりあえず思いついたことを2,3メモさせてください。
まず高橋ミネさんの誕生日ですが、戸籍上の生年月日はとても貴重な第一次資料ですが、当時の慣習として、戸籍記載の生年月日が実際の生年月日と合致していないことは賢治自身のことでもわかるように大いにありえることで、吉見さんの情報源が何なのか本を持っていない私にはわかりませんが、それが確かな伝聞であれば一概に「6月19日」も否定できないところだろうと思います。
次に、ミネさんの“東京での”看護婦生活ですが、賢治とほぼ同年の藤山愛一郎氏を、「坊ちゃん」と呼んでおられたとすれば――もちろんこれはその家の事情もあり、かなりの年配でも「坊ちゃん」と呼ばれている人もいるでしょうが――その年代を遅くとらえてとしても、ミネさんが4歳年下の愛一郎氏を「坊ちゃん」と自然に呼べるのはミネさんの方の年齢でが20代半ば過ぎ(愛一郎氏の慶応、入・中退学時)までではないでしょうか。いずれにしても、そのころの(1920年前後)の藤山一家の状況を細かに追ってみるのも一興かと思いました。
ところで「賢治の岩手病院入院」を年譜上で、初恋のことも含めてですが、ふむふむとしか読んでいなくて、今さらながら「岩手病院」がどのような病院であったか知らずにいたことに気付き、今回のミネさんのことを機に、この病院の設立者・三田俊次郎氏(1863から942)のことも知りました。
ありがとうございました。
かぐら川
上の書き込み間際に、拙文の最後を、「今回のミネさんのことを機に、この病院の設立者・三田俊次郎氏(1863~1942)やその兄・三田正義(1861~1935)のことも知りました。」に直さねばと考えているうちに、二重投稿になってしまいました。すみませんが、一つ削除ください。
ところで、私の見落としでしょうか、ミネさんの亡くなられた日時が、「1971年夏」としか記しておられないようなのが残念なことです。
人の生の詮索ということに謙虚かつ慎重であらねば、ということにあらためて思いを致しつつ。
hamagaki
>megumi 様
いつもありがとうございます。
やはり、せめてお互いに生きている間に、たとえ「昔話」としてであれ、気持ちを伝えることができたらよかったのに、と「観客」の私たちとしては思ってしまいますね。
しかし、賢治の人への関わり方、人への気遣いという点からすると、たとえ晩年にミネさんが近くにいたとしても、それはしなかったのではないかと思えてしまいます。だから、「賢治らしい」のかもしれませんが・・・。
一方、もしもミネさんが生前に、「自分が賢治の初恋の人」であると知っていたらどうだったか・・・。
川原仁左エ門氏が、ミネさんの死去の翌年になって初めて、「賢治の初恋の人=高橋ミネ説」を発表したのは、やはりミネさんに迷惑をかけないためにとった意識的な方策だと思いますし、それは研究者として、思慮深い適切な行動だったと思います。
しかし、もしも公表する前に、秘かに生前のミネさんだけにそのことを伝えて、賢治の入院にまつわる思い出を聴取できていたらどうだったか・・・、そこでもしかしたら明らかになったかもしれないエピソードを想像してみると、何か惜しい感じもしてしまいます。
いずれにしても、「波瀾万丈の生涯」ですね。
>かぐら川 様
こんばんは。休日前とは言え、すごい時刻の鋭い書き込み、ありがとうございます。(^^)
まずミネさんの誕生日の「6月19日説」に関しては、これは吉見正信氏の著書における記載によれば、伊藤正一氏(ミネさんの養子であり今回のMさんのお父様)に「照会した」結果だということです。「照会」というからには、直接会ったのではなく、手紙か電話で問い合わせたという印象です。
この不一致の問題については、私もMさんにメールでお尋ねしてみましたが、正一氏が「6月19日」と回答した根拠は不明だとのことでした。他のご親族でも6月19日生まれの人はなく、誰かと混同したわけでもなさそうだとのことです。
私としては、新暦の「明治26年7月28日」を旧暦にすると「明治26年6月16日」となって、正一氏の回答の日付に近づくことから、何か旧暦・新暦の間の問題もあるのかなどと考えてみましたが、よくわかりません。これはまだ「謎」ですが、正一氏が亡くなられた今となっては、真相の解明は難しいかもしれません。
それから、ミネさんの藤山家看護婦時代のことについては、確かにご指摘のように、当時の藤山家の歴史を調べてみれば、ひょっとしたらミネさんが藤山家に来た経緯なども、わかるかもしれませんね。国会図書館の蔵書を検索してみると、『政治わが道:藤山愛一郎回想録』とか、『私の履歴書(藤山愛一郎)』とか、『藤山雷太伝』などありますので、ちょっと見てみたくなっています。
あと、ミネさんの逝去の時に関しては、「1971年(昭和46年)夏の夕方」としか、まだMさんからお聞きできていないのが現状です。この間、私としてはお尋ねしたいことが次々とたくさんあって、徐々にメールで問い合わせたりしておりましたので、当方として確かめたいことすべてはまだお聞きできておりません。
いずれ確かめられれば、またご報告させていただこうと思います。
かぐら川
コメント有り難うございます。
思い付きメモの続きですが、当時看護婦になるにはどういう勉強が必要だったのか、医学史に興味のある私にとっては具体的に知りたいところでもあります。
高木兼寛による「志共立東京病院看護婦教育所」〔1885:明18〕が、日本最初の看護師教育機関とのことですが、それから20年ほど経っているわけですから岩手県内にも看護婦養成所があったのでしょうか。netで調べる限りでは、前のメールにも書いた三田俊次郎が岩手病院を創設と同時に「岩手看護婦養成所」をつくっているようですね〔1897:明30〕。(↓のページには、看護婦も写りこんでいる「巌手病院」の貴重な写真があります。)
http://www.iwate-kango.jp/05_intro/02.html
高橋ミネさん(1893~1971)は、この「岩手看護婦養成所」で学んで、引き続き「岩手病院」に勤務していたと考えるのが自然のようですが、どうなのでしょう。
〔追記〕
「大正7年当時の〔岩手〕県内の医師は434名(うち開業医が約380名)、看護婦105名、薬剤師36名、産婆461名」という記述を、「寓風奇聞」というページに見つけました。
http://blog.goo.ne.jp/goojuly/e/baf2ffc1f7b4d05c03a6fdea322fdd23
hamagaki
かぐら川様、いろいろとご教示ありがとうございます。
病院が付属の看護学校を設立して、その病院で働いてくれる看護婦を養成するというのは、現代まで一般に行われていることですし、それに「岩手看護婦養成所」は、何と東北地方では最初の看護婦養成所だったのですね。
ですから、かぐら川様のご指摘のとおり、ミネさんもこの学校(当時の名称は「岩手産婆看護婦学校」?)で勉強して、卒業後に岩手病院に勤めていたという可能性が、非常に高いと私も思います。
ところで本題からはそれますが、「大正7年当時の〔岩手〕県内の医師は434名(うち開業医が約380名)、看護婦105名、薬剤師36名、産婆461名」という数字は、医師と看護婦の比率という観点から、興味深いですね。
現代(2006年の数値)では、全国の医師数は27万8千人に対して、就業している正看護師数が81万2千人、准看護師数が38万2千人(看護師数は計119万4千人)となっていて、看護師数は医師数の4.3倍です。これが大正7年の岩手県では、逆に医師数の方が看護婦数の4.13倍だったのですね。もっとも、大正7年の岩手県の「産婆461名」に対して、現代は全国の助産師数がわずか25,257人ということで、比率の変化はこちらの方がもっと大きいですが。
明治初期には、看護も治療の範疇に含まれ、看護的な行為はかなり医師や医学生によって行われていた(そしてそれ以外は家族など一般人に任されていた)という歴史的な流れも、あったのかもしれません(「明治期における看護婦教育についての歴史的考察」参照:ページ右上の[CiNii PDF]というボタンをクリックすると、本文が読めます)。
ミネさんは、裕福な家に生まれながらも、当時まだ珍しかったであろう看護婦学校に入学して資格を取り、その後東京へも出て職業女性として活躍するなど、進取の精神にあふれる人だったのだろうかと推測します。
雲
hamagaki様
ご無沙汰しております。
賢治の初恋のお相手のことが、こんなに、克明に記されていて、驚いています。
わたしが、今まで、読んだ本の中の人物像というか、資料が、事実と異なることばかりなのも、驚きです。
しかし、裕福でないと、りっぱな看護師になれないとは、思いたくは、ないですが。
ナイチンゲールさんも、かなり、裕福なお嬢様のようですね。
人柄というのは、語ることが、難しいです。
それにしても、すごい!の一言です。
賢治の初恋は、ただの初恋では、終われないものだったなんて、素敵な感じがします。
良い、クリスマスを。
かぐら川
もう一つメモです。
「藤山氏のような超上流階級の家庭の看護婦になるというのは、普通に岩手県で仕事をしていただけでは難しいのではないかと思いますが、その経緯についてはよくわかりません。」という点に関してです。
たしかに岩手県の一看護婦が、「藤山氏のような超上流階級の家庭の看護婦になる」のは余程のことと思われます。考えられることは、(1)高橋家が藤山家と特別な関係があった。(2)高橋ミネさんを看護婦として藤山家に推挙した誰かがいた。――の2つでしょう。
(1)ですが、藤山家が佐賀の出身であることからしても、岩手の高橋家と血縁的なつながりがあったとは思えません。また、もしそうであったとしたら子孫の方がそのことはご存じのはずです。ですから可能性は、おのずと(2)となります。
そこで考えられるのは、ミネの看護婦としての働きぶりをよく知っていた誰か、しかも中央財界にも通じていた誰かが、藤山の求めに応じて――この時期、藤山体調不安でもあったのか――高橋ミネを適任者として推挙したということでしょう。
とすれば、岩手病院の創設に関わった三田俊次郎と中央政財界にも顔の利いた三田義正の「三田兄弟」を考えるのがいちばん妥当ではないでしょうか。義正は、岩手病院の創設・運営にも弟をバックアップするかたちで関わっていたといいますから、優秀な看護婦のことは直接見知っていたとしても不思議ではありません。
藤山雷太が勅選の貴族院議員になったのが1923(大12)年、三田義正が貴族院議員になったのが1921(大10)で、東京での生活も多かったといいます。この二人は貴族院議員として直接面識があったのです。・・・まぁ、こんなわけですがこれはすべて推測です。実際、藤山家の方で看護婦を必要とするさしせまった事情があったかどうかも調べてみたいと思います。
なお、この三田義正、「農」を通して――高等農林にも生きていた津田仙の「農」の姿勢です。――間接的に賢治ともつながっていたような気がします。そのことはいずれ。
かぐら川
昨日、ミネさんが「超上流階級の家庭の看護婦に」なった経緯を推測して(1)(2)、二つの道筋を考えてみたのですが、まったく考えてもみなかった第三の可能性がありました。当時、「派出看護」という現在の「訪問看護」のような看護のあり方(3)があったのです。あるnet上の説明を借りればこうである。「派出看護とは、訓練を受けた看護婦が患家と契約を結んで病院や患者の自宅において看護提供することであった。1884年に有志共立東京病院(現在の東京慈恵会医科大学)が上流階級家庭を対象に始めたとされる。」
上に訪問介護と類似と書きましたが、訪問介護が、A宅、B宅、C宅を巡回するイメージがありますが、「派出看護」は特定の患家に住み着いて看護に専念するということもあったようです。そして患家との契約は、看護婦会のような組織が仲介をしたらしいのです。
この「派出看護」であれば、そこにミキさんと藤山家をつなぐ特定の人物を想定する必要がないのです。そして、この(3)であれば、(2)の難点――三田義正と藤山雷太が知り合った時期を大正12年以降?と仮定することで、ミキの藤山家での看護婦生活を大正末年近い時期まで繰り下げなければならない、というちょっと不都合な点――をクリアできるのです。もちろん、高橋ミキさんが、三田兄弟にも認められるような優れた看護婦であった可能性を否定するものではないということははっきり書き添えておきたいのですが。
hamagakiさん、愚考におつきあいくださり感謝します。
hamagaki
コメントをありがとうございます。
>雲 様
「裕福でないと、りっぱな看護師になれない」ということは、絶対にないと思います。
ミネさんの場合、裕福な家のお嬢様だったと思われるのに、その環境におさまってしまわず、自分からどんどん新しい世界に飛びこんで行かれたのがすごいと思った、ということが言いたかったのです。
賢治の初恋は、おっしゃるとおり「ただの初恋」ではなかったですね。相手の女性も、「ただ者ではない」感じです。
>かぐら川様
鋭い考察と情報収集を次々と展開していただいて、感激しております。
まずご報告ですが、懸案のミネさんの亡くなった日付です。Mさんからご連絡があり、ミネさんのご逝去は「1971年(昭和46年)8月10日」とのことです。取り寄せられた戸籍からはわからなかったのが、位牌を見て確認したところ、上記の日付だったということです。
それから藤山家の看護婦の件、「藤山雷太が勅選の貴族院議員になったのが1923(大12)年、三田義正が貴族院議員になったのが1921(大10)」という点をご指摘いただいた時も、これはひょっとして・・・、と思ったのですが、本日お教えいただいた「派出看護」という制度も、まさにぴったりですね。Wikipedia にある上記の記述も、まさに今回のケースにうってつけの感じです。
となると、高橋ミネさんの出身学校ですが、先日話題に出た「岩手産婆看護婦学校」の他に、東京の「有志共立東京病院看護婦養成所」(日本最初の看護学校!)であった可能性も、考えられることになりますね。
私が先のコメントでリンクした「明治期における看護婦教育についての歴史的考察」という文献の中には、明治20年前後に設立された「有志共立東京病院看護婦養成所」「京都看病婦学校」「櫻井女学校付属看護婦養成所」「帝国大学医科大学看病法練習科」「日本赤十字社看護婦養成所」という5つの看護婦養成機関を比較している表も載っているのですが、「有志共立東京病院看護婦養成所」の「特徴」という欄を見ると、「皇室・華族の援助により設立。上流家庭への派出看護。」と、他の学校には見られない記載がなされていて、これがこの学校の大きなポイントの一つだったように見受けられます。
「岩手産婆看護婦学校」の卒業者でも、「上流家庭への派出看護」の仲介をしてもらえなかったと断定はできませんが、おなじWikipedia「訪問看護」にある「その後1891年に鈴木雅が慈善看護婦会(後の東京看護婦会)を創設、困窮者へ無料で派出看護を行った」というような場合と違って、「上流階級」を対象とする場合には、何よりもその看護婦の「身元保証」が重視されたでしょう。ならば、原則として自校の出身者を派遣していたのではないか、という気がするのです。
つまり、ミネさんは、岩手県からまず東京へ出て「有志共立東京病院看護婦養成所」で学び、卒業後に藤山家への派出看護婦になってしばらく勤め、その後、岩手県に戻って岩手病院に就職した、という経歴であった可能性も考えられると思います。
この順序であれば、東京で看護婦養成所を卒業したのがミネさんの19歳頃で、以前にかぐら川様ご指摘のように、4歳年下の藤山愛一郎氏のことを自然に「坊ちゃん」と呼べる年代に出会っていた可能性が、考えやすくなります。
また、地元の岩手県で安定した仕事をしていたのに、それを辞めてわざわざ東京まで出て行くとなると、何か余程の事情があったのではないかと思いたくなるような行動に見えてしまいますが、「東京へ遊学させてもらう」ことならば、裕福な家庭なら、それよりは自然な道筋と感じられます。
雲
お返事ありがとうございました。
難しい名前の病院などが並び、わからなくなりました。
わたしは、賢治の恋に、以前から、興味があったので、とても、「ただものではなかった」ということに、とても、感動しました。
かぐら川
書き込みが遅くなりました。26日に一読、発想の逆転に驚きました。そうですね、ミネさんの上京を地元岩手での就職前と考えることも可能なのですね。
「有志共立東京病院看護婦養成所」の就学要件(高等女学校卒?)、修学年限(2年?)などから、ミネさんの看護婦生活がいつ始まったのか、――「岩手産婆看護婦学校」「有志共立東京病院看護婦養成所」の卒業生名簿の確認も含めて――考証したいところですね。といっても本業の?霜川さえ、足踏み状態なので。。。
hamagaki
かぐら川様、暮れも押し詰まって慌ただしいところ、お付き合いいただいてありがとうございます。
当時の看護婦養成所の就学要件ですが、少し時期が後になってしまいますが1915年(大正4年)に内務省訓令として出された「私立看護婦学校看護婦講習所指定標準」の第四項には、「生徒ノ入学資格ハ高等小学校卒業若ハ高等女学校二年以上ノ課程ヲ修業シ又ハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スルコト」とあります。この規準が出されるまでは、各学校でバラツキがあったのだろうと思われますが、ここで標準化された要件は、模範的な学校ならばそれまでも満たしていた内容なのではないかと推測します。
また、「東京慈恵医院看護婦教育所」(1887年に「有志共立東京病院看護婦教育所」から改称していました)の修業年限は「2年」です。この学校の具体的な就学要件についてはわかりませんでしたが、後述する看護婦要件からも、卒業時には18歳になる程度だったのではないかと思います。
あと、たまたまネット上で見つけた「戦前の広島県における看護婦養成の足跡」という論文には、「東京慈恵医院看護婦教育所の卒業生は,“慈恵看護団”を設立し派出看護をしていたが,その多くは上流社会への派遣が主であった。桜井看護婦養成所の鈴木まさや大関ちかは看護婦会を設立し民間への派出看護をしながら,無資格者による業務制限を訴えていた。しかし,東京慈恵医院看護婦教育所でもそうであるが,派出看護婦を担わない看護婦達の多くは卒業した病院に止まるケ-スが多かった。」との記述がありました。
高橋ミネさんも、この「慈恵看護団」に所属し、藤山家への「派出看護婦」となった可能性があるのではないかと思います。
一方、同じ1915年(大正4年)に国が制定した「看護婦規則」の第二条には、「看護婦タラムトスル者ハ十八年以上ニシテ左ノ資格ヲ有シ地方長官(東京府ニ於イテハ警視総監以下之ニ倣フ)ノ免許ヲ受クルコトヲ要ス」とあり、「左ノ資格」とは、「看護婦試験ニ合格シタル者」と「地方長官ノ指定シタル学校又ハ講習所ヲ卒業シタル者」ということです。
つまり、看護婦として仕事をするためには、(数え年?)18歳以上である必要があったわけです。それから逆算すると、ミネさんは16歳の時か、それ以上で(例えば地元で高等女学校を卒業してから)、東京へ出たのかもしれません。
あとは、「東京慈恵医院看護婦教育所」や「岩手産婆看護婦学校」の卒業生名簿ですよね。私の手に負えるかどうかわかりませんが・・・、来年の課題として心にとめておきます。
よい年をお迎え下さい。
ジョヴァンニ安東
賢治ファンの盛岡の安東です。
賢治初恋の人についてネットで調べていて
こちらにたどり着きました。
賢治について大変詳しく感動致しました。
素晴らしい賢治サイトですね。
私の不肖へなちょこサイト賢治館にリンクさせていただきました。
またちょくちょく寄らせていただきます。
hamagaki
ジョヴァンニ安東さま、書き込みをありがとうございます。
また、拙サイトにリンクしていただきまして、ありがとうございました。
ジョヴァンニ安東様のサイトも拝見させていただきましたが、「へなちょこサイト」などとはとんでもありません、安東様のこれまでの幅広い人生がぎっしりと詰まった、凄いサイトですね。感動して、しばらく数多のページを見つづけてしまいました。
賢治ファン同士として、今後もよろしくお願い申し上げます。