ミネさんは賢治入院を憶えていた

高橋ミネさん
看護婦姿の高橋ミネさん

 宮澤賢治の「初恋の人」が、岩手病院の看護婦をしていた「高橋ミネ」という人だったのではないかという説は、一時はかなり有力視されていました。
 それは、盛岡中学卒業後の1914年(大正3年)4月~5月に、賢治が岩手病院に入院した時のことでした。この入院中を詠んだ短歌に、

すこやかに
うるはしきひとよ
病みはてて
わが目 黄いろに狐ならずや (112)

などがあり、退院後には、

きみ恋ひて
くもくらき日を
あひつぎて
道化祭の山車は行きたり   (174a175)

志和の城の麦熟すらし
その黄いろ
きみ居るそらの
こなたに明し           (175)

神楽殿
のぼれば鳥のなきどよみ
いよよに君を
恋ひわたるかも         (179b180)

など、「君」を思いつづける恋歌があります。また後年の文語詩にも、この恋を題材としたと思われる作品はいくつもありますし(「公子」「」など)、さらに「「文語詩篇」ノート」の中には、「岩手病院」に関連した記載の中に、「Erste Liebe」(=初恋)との言葉もありますから、岩手病院の看護婦さんへの恋が、賢治の初恋だったことは、ほぼ確実と言ってよいでしょう。
 ただ、その人が具体的に何という名前のどんな人だったのかと言うことについては、賢治の死後何十年たっても、わからないままでした。

 そこへ、その人が日詰町出身の「高橋ミネ」という看護婦だったという説を初めて提唱したのが、1972年(昭和47年)に刊行された『宮沢賢治とその周辺』における川原仁左エ門氏でした。
 川原氏は、どういう根拠で高橋ミネさんが賢治の初恋の相手と判断したのか、その根拠についてはほとんど述べておられないのですが、同書の中の「初恋(フーストリーベ)」と題した章において、

日詰の大きな八百屋の娘高橋ミネは愛嬌のある美しい看護婦で、窓側で時々夢見る瞳で外を眺めていた。
(中略)
発熱に悩みながら高橋なる白衣の天使に憧れて、ノートに Firste Liebe は、はつきり書いている。

と書いています。後に小川達雄氏は、『隣に居た天才 盛岡中学生宮沢賢治』において、川原氏の夫人の実家が高橋ミネさんの実家の筋向かいに位置することから、この推定において地元からの情報が重要な役割を果たした可能性も示唆しておられます。

 この後、森荘已池氏、境忠一氏、吉見正信氏など多くの賢治研究者は「高橋ミネ説」を前提として、さらにいくつかの情報を肉付けしていきます。
 吉見正信氏は1982年(昭和57年)刊行の『宮沢賢治の道程』において、次のように書いておられます。

 初恋の相手である「うるはしきひと」とは、川原仁左エ門編著「宮沢賢治とその周辺」(昭和47年刊)によって、日詰町(現紫波郡紫波町)の大きな八百屋の娘で、当時岩手病院に勤務していた看護婦、高橋ミネ(昭和四十六年没)という女性であることがつきとめられた。その調査のお蔭で家族に照会することができたのだが、伊藤正一(札幌市)より、「高橋ミネは明治二十六年六月十九日生まれであること、生前には有名にになっている宮沢賢治のことを口にしたのを聞いたことがない。ただ、花巻に関係のある来客のとき、宮沢家(賢治やその一族)のことをよく知っていて会話していた。」などの回答を得た。


高橋ミネさんの生家跡 私も、このような流れに沿って、賢治が特別な思いを向けていたと思わざるをえない「日詰」という町を訪ね、高橋ミネさんの生家があったという場所(右写真)を見に行ってみたこともありました(「花巻(3)~日詰」参照)。

 また、このブログにも、ミネさんのご遺族の方から貴重な書き込みをいただいたり、メールをいただいたりしたことがありました。
 そして最近になって、ミネさんの(義理の)孫にあたられるMさんという方が、生前のミネさんのことについて詳しい書き込みをして下さり、また若干のメールのやりとりもさせていただくという、有り難い出来事がありました。
 その結果、ミネさんの生涯の新たな側面や、これまでの研究書などに書かれていた情報で修正すべきと思われる点もいくつか明らかになりましたので、今回ここに報告させていただきます。
 Mさんは、吉見正信氏が問い合わせをしたという伊藤正一氏の娘さんで、実は今年の8月に、伊藤正一氏は逝去されたということでした(合掌)。
 Mさんは、正一氏の遺品の整理をしたり相続の手続きのためにミネさんの戸籍を取得したりされる中で明らかになったことを、「どなたかに伝えておきたい」というお気持ちから、ご親切にも拙ブログに書き込みをして下さったということです。
 以下、いくつかの項目に整理して書きます。

1.ミネさんは明治26年7月28日生まれ

 上に引用した吉見正信氏の『宮沢賢治の道程』においては、ミネさんは「明治26年6月19日生まれ」とされていました。しかし、Mさんが戸籍で確認された結果、ミネさんの生年月日は「明治26年7月28日」でした。賢治より3歳年長ということは、変わりません。
 Mさんは、賢治の誕生日が「8月27日」であるのに対して、ミネさんの誕生日が「7月28日」であるというのは、「827」⇔「728」と逆の数字配列になっているところが面白いと、ご指摘下さいました。

2.若い頃に藤山家(藤山コンツェルン総帥)の看護婦をしていた

 看護婦としては、盛岡の岩手病院の他に、一関でも仕事をしていた時期があったことが、下に掲載した写真からわかります。一番上の写真では、ミネさんは看護婦の姿をしていますが、写真の枠の厚紙の部分には、「陸中一関/三浦本店」という写真館の名前が記載されています。

藤山雷太氏胸像 それよりも後のことと思われますが、ミネさんは藤山雷太氏のお抱え看護婦をしていたことがあったと、よくMさんに自慢げに話してくれたそうです。藤山雷太氏とは「藤山コンツェルン」の創始者で、大日本製糖、日東化学工業、駿豆鉄道などの社長を務め、一代で財閥を築き上げた大実業家です(右写真は、慶應義塾大学藤山記念館の前にある藤山雷太氏の胸像)。
 そしてその長男は、後に実業家から政界に進出して自民党の大物となった藤山愛一郎氏(外務大臣、経済企画庁長官など歴任!)ですが、Mさんによれば、ミネさんは後々まで、藤山愛一郎氏のことを親しげに「坊ちゃん」と呼んでいたのだそうです。
 というわけで、ミネさんは東京で生活していた時代もあったわけです。藤山氏のような超上流階級の家庭の看護婦になるというのは、普通に岩手県で仕事をしていただけでは難しいのではないかと思いますが、その経緯についてはよくわかりません。少なくとも、看護婦として非常に優秀であったことは確かでしょう。

3.結婚して釜石などで生活

 ミネさんは1929年(昭和4年)7月7日に、伊藤正氏と結婚しました。満年齢ではミネさん35歳の時ですね。伊藤氏にとっては二度目の結婚で、前妻との間にすでに5人の子供があり、長男が、上に出てきた伊藤正一氏です。
 伊藤正氏は、本籍は岩手県東磐井郡川崎村薄衣ですが、若い頃から釜石町の財務課長を務め、その後釜石町助役、宮古町助役などを経て、最後は川崎村の村長をして、1952年(昭和27年)3月に亡くなられました。
 小川達雄『隣に居た天才 宮沢賢治』に引用されている日詰の郷土研究誌「どっこ舎レポート」には、「川崎村薄衣の教員伊藤正と結婚」と書かれていますが、伊藤正氏は教員をしておられたことはなく、「長男の伊藤正一氏と混同しているのではないか」というのが、Mさんの指摘です。
 結婚後のミネさんは、釜石の婦人会の長をして、権勢をふるっていたらしいと、Mさんは教えて下さいました。愛国婦人会の集合写真でも、「真中にいて堂々とした様子」だということです。また、下の写真の中にも、「下閉伊郡看護婦會 6年10月19日」という日付の入ったものがあります。

4.北海道に渡る

 1952年(昭和27年)に夫を亡くしてからのミネさんは、その後も長く川崎村薄衣で一人暮らしをしておられました。Mさんのお兄様によると、「かなり気の強いおばあさんだったが、薄衣を訪ねると、心臓が悪いので先行き心配だとこぼしていた」ということです。ミネさんには実子はなかったのですが、1957年(昭和32年)に、伊藤正一氏夫妻(Mさんのご両親)を養子にしています。
 上の「どっこ舎レポート」によると、その後ミネさんは病を得て、一時日詰の弟さんの家に身を寄せ、また盛岡の国立療養所に入院したこともあったということです。
 一方、伊藤正一氏は、1944年(昭和19年)に北海道へ渡って教員をしておられましたが、1962年(昭和37年)の夏に、ミネさんを引きとって十勝の芽室町で同居を始められました。ミネさん69歳の年ですね。この時に、Mさんは初めてミネさんと会われたわけです。その後1965年(昭和40年)に、正一氏が夕張に転勤となるとともに、ミネさんも正一氏夫婦と一緒に夕張に移っています。
 境忠一著『宮沢賢治の愛』には、「彼女(注:ミネさん)は大正三年ごろ岩手病院に勤務、そのあと新設の札幌病院に派遣され、三年間在職後、ふたたび岩手病院にもどった」との記載があります。しかし、ミネさんが晩年に北海道で生活しておられた間に、「以前にも北海道にいたことがある」というような話をMさんやMさんのお母様にしたことは、全くなかったということです。この「札幌派遣説」に関しては、小川達雄氏も調査の結果否定的な見解を示しておられ、事実だったのかどうか疑問です。

 さて、1971年(昭和46年)8月10日の夕方、ミネさんは居間のソファに座って、台所で炊事をするMさんのお母様と、お喋りをしていたのだそうです。ふとその途中、ミネさんの返事がないのでお母様が居間に来てみると、ミネさんはすでに息絶えておられたということです。その日の午前中には往診を受けていて大丈夫と言われたばかりだったので、お母様もびっくりしたということです。
 ミネさんの生涯を振り返ると、超富豪の看護婦をしたり、村長夫人をしたり、かなり波瀾万丈だったと思いますが、その最期は、少しも苦しまれることもなく、ふっと火が消えるように安らかに逝かれたわけです。

5.ミネさんは賢治入院を憶えていた

 今回のMさんのお話で、私にとって最も印象的だったのは、ミネさんは晩年の北海道時代に、Mさんのお母様に対して、「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」と、はっきりと言っていたということです。Mさんのお母さんは今は90歳でいらっしゃいますが、頭脳明晰で、念のためMさんがもう一度確認していただいても、そう言っていたのは間違いないとのことでした。
 ここで重要なことは、ミネさんが亡くなったのは1971年(昭和46年)で、川原仁左エ門氏が「高橋ミネさんが賢治の初恋の人」という説を出す1972年(昭和47年)よりも前に、すでに賢治入院のことを語っていたということです。つまり、当時まだミネさんには全くスポット・ライトは当たっておらず、従って上記のことはミネさんが周囲からの質問などで「思い出させられた」記憶ではなく、自然に憶えていた事柄だろうということです。
 前述のように吉見正信氏が伊藤正一氏に照会した結果では、「生前には有名にになっている宮沢賢治のことを口にしたのを聞いたことがない」とのことでしたが、正一氏に対して口にすることはなくても、奥様にはあったということですね。

 それにしても、看護婦を長年していたからには、ミネさんがそのキャリアにおいて看護した患者さんの数は、おそらく何百人という桁を下らないと思います。あくまで仕事の上で接した厖大な人数の中で、40年以上も前に1ヵ月だけ看護した無名の青年の名前を憶えていたというのは、ものすごいことだと私は思います。

 いちおう念のために考察を行っておくと、これが自然な記憶によるものではない一つの可能性としては、次のようなことも想定できなくはありません。例えば、ミネさんは「宮澤賢治」という入院患者の名前をいったんは忘れていたが、賢治が没後に有名になってから同じ岩手出身ということなどで興味を抱き、賢治の伝記か何かを読んだところ、ちょうどミネさん自身が岩手病院に勤務していた時期に賢治が入院していた事実をあらためて知ったので、「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」とMさんのお母さんに語った、というような場合です。
 しかし、ちょっと手もとにある昔の賢治の伝記を見てみると、佐藤隆房著『宮沢賢治』(1942)には、入院の記載はあっても「岩手病院」という病院名が書かれておらず、関登久也著『宮澤賢治素描』(1947)には、入院自体の記載がなく、同じく関登久也著『宮沢賢治物語』(1957)には、「岩手病院に入院」という記載はあるが何年のことかは書かれていないなど、どれもあまり詳しくは記載されていません。すなわち、これがミネさんが伝記などを読んで得た知識である可能性は、低いような気がします。
 もちろんこの可能性が絶対にないとは言い切れませんが、やはりミネさんの自然な記憶として、晩年まで入院患者「宮澤賢治」の名前が心の片隅に残っていたのではないかと思われるのです。

 しつこいようですが、これはやっぱりすごいことだと思います。他の患者に比べて、何か印象に残るようなことがないと、こういったことはありえないのではないでしょうか。
 Mさんによれば、ミネさんがMさんのお母様に「岩手病院に勤めていた時に宮沢賢治が入院していた」と語った時の様子では、「好意をもっていたかどうか逆に好意を持たれていたかどうかもわからなかった」そうで、そういうことには全く言及しなかったということです。どちらかの好意が、特別な記憶の原因になった可能性は否定もできませんが、肯定する根拠も今のところありません。
 これに関連して、注目すべきと思われるのは、吉見正信著『宮沢賢治の道程』にある、次のような記述です。

 高橋ミネが宮沢家のことをよく知っていたのは、ミネの家が日詰では旧くからの大店で、賢治の祖母キンもやはり日詰の旧家関家の出だからであろう。キンは南部藩士族、関善七の娘であり、善七は町で御殿暮らしをした人と伝えられている人物である。そうした旧家から賢治の祖父宮沢喜助に嫁したキンのことは、その嫁ぎ先を含めて町ではかなり語られていた話のはずである。したがって、宮沢家に関するミネの知識は、のちに日詰の町の世間話から得ていたものと思われる。

 吉見氏の著書で先に引用した部分で、ミネさんが「花巻に関係のある来客のとき、宮沢家(賢治やその一族)のことをよく知っていて会話していた。」とあるのも、またMさんもご両親から、ミネさんが「宮沢賢治のことを詳しく知っているので、不思議に思っていた」と聴いておられたというのも、上記のような根拠から理解できることです。

 つまり、賢治がまだ入院していた頃にか退院後かはともかく、ミネさんは花巻の宮澤家のことを聞き知っていたので、あの宮澤家の「坊ちゃん」が入院していたのだということで、単なる一人の一般入院患者よりは、記憶に残りやすい要素があったのだろうと思われます。

 それにしても、賢治は晩年まで文語詩の推敲を重ねながら、その初恋のことを何度も思い返していたでしょうが、相手のミネさんの方も、賢治が亡くなってからはるか先まで、賢治の入院のことを憶えていてくれたわけですね。
 そうであったのならば、若き日の賢治の苦悩も、少しは浮かばれるような感じがします。

7.写真篇

 さて下の写真は、ミネさんの夫であった伊藤正氏のアルバムに残っていたミネさんの写真をスキャンしたものの一部を、今回ご親切にもMさんが送って下さったものです。いずれも、一般に公開されるのは初めてだろうと思います。
 「すこやかにうるはしき」ミネさんを、どうかご覧下さい。写真はいずれも、クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます。

高橋ミネさん(1)
ミネさんは後列右端。一関での写真と思われる。

高橋ミネさん(2)
ミネさんは前列左端。これも一関時代と思われる。

高橋ミネさん(4)
ミネさんは左端。これも一関時代と思われる。

高橋ミネさん(5)
これも一関での写真ですが、ちょっとドキッとするほどの美しさですね。

高橋ミネさん(6)
ミネさんは右から三番目。「下閉伊郡看護婦會/6年10月19日」との文字。


 末筆ながら、Mさんのご親切とご厚情に、心から感謝を申し上げます。